第042話(前)
二月十九日、日曜日。
午後八時半。その日の仕事が終わると、倖枝は自動車で自宅ではなく駅前に向かった。
駅前のコインパーキングに駐車し、車内で御影歌夜に電話した。
『もしもし。嬉野さん?』
「御影様、夜分に申し訳ございません。館売却の件で、少々お話がありまして……。大変失礼ですが、今から伺ってもよろしいでしょうか?」
『ええ。構わないわよ』
歌夜から了承を貰うと、既に近くまで来ていることを伝え、電話を切った。
預かった売却物件に買主が現れて商談状態であることは、歌夜に告げていた。しかし、昨日時点で白紙に戻ったことはまだ連絡していなかった。
電話越しでは言いづらいので、こうして直に言おうとした。
事前に
倖枝としては週末に酒を交えて楽しい時間を過ごしたかったが、流石に今回は分を弁えた。失礼を承知で、敢えて約束無しで訪れた。
自動車から降りると、外はとても冷え込んでいた。重い足取りで、駅前タワーマンションの歌夜の部屋へと向かった。
「お仕事、お疲れさま。いきなりだったから、お茶ぐらいしか用意できなかったわ」
「滅相もございません。むしろ、こんな時間に失礼を働き、大変申し訳ないです」
倖枝は歌夜から、温かい笑顔で迎えられた。信用されているのだと、申し訳ない気持ちが込み上げた。
リビングへ通されてすぐ、歌夜がキッチンからふたつのティーカップの載ったトレイを運んできた。紅茶の良い匂いがした。
歌夜がソファーに座ると、倖枝はティーカップを受け取ることなく、ラグマットに正座した。その様子に、歌夜は首を傾げた。
「御影様……。大変申し難いのですが……先日の
「まあ、そうなのね……」
倖枝が深々と頭を下げるが、歌夜は特に驚くことも不機嫌になることもなかった。
「期待させてしまい、申し訳ありませんでした」
「今回はご縁が無かったのだから、仕方ないじゃない。嬉野さんが悪いわけじゃないんだから、顔を上げてちょうだい」
許しを得て倖枝は頭を上げると、歌夜が優しく微笑んでいた。
本当に売却の意思があるのか疑いたいぐらい、倖枝は調子が狂った。いっそ、叱ってくれた方が気は楽だった。
「三ヶ月の期限も過ぎまして、面目ありません」
「三ヶ月? ああ……そういえば、そんなことも言ってたわね」
当初はあれだけ期限に念を押されたが、歌夜はそれすら忘れていたようだった。
良く言えば、現在の生活が歌夜なりに満足しているのだろう。母方の祖国に帰る予定はまだ継続しているのかも、倖枝は疑問だった。
いっそ、歌夜の態度に甘んじたいところではあるが、プロとしての誇りが倖枝を許さなかった。
「なるべく早く――次こそは、経済的に見込みのある方を連れて参ります」
「まだ
「はい。御影様に紹介して頂いた方で、保留中の方が何名か……」
「なら、それでいいわよ。そんなに深刻そうに考えないで。いきなり来たから、何事かと思ったじゃない」
「は、はぁ……」
歌夜の目には、大袈裟な謝罪に映ったようだった。
確かに、手持ちの買手が完全に途絶えたわけではないので、悪戯に不安を煽ったのかもしれない。倖枝としても反省する部分はあった。
強張った肩の力が抜けたところで、歌夜から改めて紅茶を勧められた。
倖枝は紅茶の知識に疎いが、良い茶葉を使っていると香りで分かった。一口飲むと、素人でも美味しく感じた。それだけではなく、歌夜の淹れ方が上手いのだとも思った。
温かい紅茶が、冷えた身体に染みた。
「二月もあと少しなのに、今夜は冷えるわね」
歌夜はテーブルに置かれていたエアコンのリモコンを持つと、操作した。おそらく、設定温度を上げたのだろう。
倖枝も、今日は今季一番の冷え込みに感じていた。日中は御影邸の案内で仕方なく店舗から出たが、客も身を震わせて堪えていた。
テレビの天気予報が強烈な寒波が押し寄せていると伝えていたのを、倖枝は思い出した。そして――
「どうも、明日は雪が積もるかもしれないみたいですね」
雪自体は今冬で既に何度か降っていたが、どれも積もることはなかった。しかし、今回は積雪に警戒するよう天気予報が呼びかけていた。
「食料の備蓄は大丈夫ですか?」
「ええ。何日かは耐えれるわ」
「それなら、明日はじっとしている方がいいですね。下手に外に出ますと、雪で怪我をするかもしれませんので」
倖枝としても明日は自宅から出たくないところだが、仕事なのでそういうわけにはいかなかった。
ふと、歌夜の言う祖国がどちらかと言えば寒い地方に分類されることを思い出した。だが、この国で育ったらしいので、寒さや雪に特別強いわけではなさそうだった。
「あの館は、雪かきとかしなくても大丈夫ですよね?」
不動産屋として、天気が乱れると預かっている物件を心配するのは当然だった。とはいえ、築二十一年とはいえ月城住建の建物が雪に耐えられないとは思わなかった。
倖枝としては、半ば冗談のつもりだった。
しかし、無言の歌夜から不機嫌そうな藍色の瞳を向けられ――触れてはいけないことだったと、発言を後悔した。
「すいませんでした……」
念のため、倖枝は小声で謝罪した。
話題に出すことすら許されなかった。歌夜が本当にあの館の存在自体を嫌っているのだと、改めて認識した。
*
二月二十日、月曜日。
倖枝は尿意で目を覚ました。自室のベッドから起き上がるや否や、寒いと感じた。手洗いに行きたくなったのは、そのせいだろう。
エアコンは間違いなく動いていた。効きが悪いのかと、疑いたいぐらいだった。
自室の扉を開けると、午前八時にも関わらず咲幸がリビングに居た。
「あっ、ママ。おはよう」
咲幸は学生服姿のままソファーに座り、携帯電話を片手にテレビを観ていた。
テレビでは、リポーターが現在の都心部の様子を中継していた。
「おはよう、さっちゃん。学校は――流石に
リビングの窓の外では、雪が空に舞っていた。ベランダに出て覗き込まない限り
どうやら、この地域一帯に大雪警報が出ているようだった。
「うん。ついさっき、連絡きたよ。連休嬉しい!」
倖枝は学費を出している身として、休校を快く思わなかった。しかし、通学での事故や学校から身動き取れなくなる可能性を考えると、致し方ないと割り切った。
「いいわねぇ。母さんは仕事よ」
本社から連絡は無く、かつテレビ画面を観る限りは通勤可能な程度の積雪なので、仕事に行かざるを得なかった。あと一日後ろにずれなかったことを、倖枝は恨んだ。
いつも通り身支度をし、使い捨てカイロを開けるとダウンジャケットのポケットに入れた。いつも通り、午前九時十五分頃に自宅を出た。念のためパンプスを手に持ち、レインブーツを履いた。
「それじゃあ、行ってくるわね。もし外に出る用事があるなら、母さんに連絡して。今日は家でじっとしてなさい」
「はーい。ママこそ、気をつけてね」
倖枝は寒さに凍えながら、早々と自動車に乗り込んだ。エンジンをかけてもすぐにエアコンが動かず、そのまま走らせた。
自動車は例年、冬の時期にはスタッドレスタイヤに履き替えていた。今年も無駄に終わると思っていたが、珍しく役に立った。
大雪警報が発令されているとはいえ、歩道の積雪は五センチほどだった。悪い視界の中、確かに普段に比べ人通りは少ないが、全く居ないわけでは無かった。
報道から危機感を煽られた割には大したことが無い、というのが倖枝の正直な感想だった。
「嬉野さん、おはようございます」
「おはよう、春名。今日はついてないわね」
店に着くと、春名夢子をはじめ従業員らと挨拶をした。全員出勤していた。
今日はどの従業員も、各々の自動車で通勤したようだった。天気の悪い日には珍しくも無く、その場合は近くのコインパーキングに駐めていた。
「とりあえず、動ける内にそれぞれの預かっている物件を確認しておいて」
店を開けてすぐ、倖枝は従業員にそのような指示を出した。
万が一雪で建物自体や二次的に被害が及んだとしても、仲介の不動産屋に落ち度は無い。責任はあくまで、物件の所有者にある。
しかし、売主と信頼関係にある以上、見過ごすわけにはいかなかった。もしも悪い状況であるならば売主に連絡し、早急に対策を取らねばならない。
従業員達はパソコンを起動させ、本社の勤怠管理システムで出勤状態に切り替えると、再び外に出て行った。
「って、私もか」
倖枝は脱ぎかけたダウンジャケットの袖に、再び腕を通した。
ポケットの、ようやく暖かくなった使い捨てカイロを握ると、倖枝も店を出た。
間違いなく御影邸は雪に対して大丈夫だろう。しかし、森の中という土地で何も問題が無いとは言い切れなかった。それに、物件を預かる身として、店長だからと特別扱いは出来なかった。
面倒だと思いながらもどこか楽観視しつつ、倖枝は御影邸に自動車を走らせた。
やがて、公道から雪の積もる私道に入り、到着するが――門が開いていた。
倖枝は不審に思いつつも、いつも通り門の前に自動車を駐め、ビニール傘を差して下りた。
静かに雪の降る中――門と玄関の間の真っ白な世界で、長い黒髪の少女が屈んでいた。
「ちょっと、舞夜! あんた、何やってるの!?」
学校が休校とはいえ、まさかこの天気で月城舞夜がここに居るとは、倖枝は思わなかった。しかも、雪空の下、傘を差さずにうずくまっているように見えた。
何事かと心配になり、慌てて駆け寄った。
「お母さん……」
舞夜は屈んだまま、倖枝に振り返った。
蒼白な表情は、まるでこの世の終わりのようだと、倖枝は思った。藍色の瞳には涙が浮かび、このような顔は初めて見た。
そして、舞夜の正面には、積もった雪が玄関から掘り返され、門へと続くレンガ畳が見えていた。
「いったい、何があったのよ!?」
倖枝は状況が理解できなかった。ひとまず、舞夜の頭に積もった雪を払い除け、頭上を傘で覆った。
「指輪……落としてしまって……」
「指輪?」
その言葉を聞き、倖枝が連想するものはひとつだけだった。魔女を彷彿とさせる――
「あの、黒猫のやつ?」
やはりそれのようで、舞夜はこくりと頷いた。
どうやら、この雪の中、指輪を落として探しているのだと倖枝は理解した。
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