第050話(前)
午後二時半。昼休憩を終えた倖枝は歯を磨くと、鞄を手にした。
「それじゃあ『お得意様』のとこ行ってくるわ。何か
「はい。頑張ってきてください、嬉野さん」
倖枝はホワイトボードに帰社予定時刻を十六時と書き、店を出た。そして、街外れの森へと、自動車を走らせた。
――わたしが、この館を買います。
あの時の少女の台詞を、倖枝は現在でもはっきりと覚えている。
雪の積もった日にふたりで指輪を探した後、少女に母親を連れてくるから待ち構えるよう、打ち合わせをした。その時は、買うなど一言も聞いていなかった。
まったくの想定外だった。倖枝は、口論になっていた御影歌夜と顔を合わせ、ふたりで驚いた。おかげで、互いの熱が冷め、自宅に送り届ける車内で歌夜に平謝りした。
融資審査で保留になっていた、もうひとりの買手――歌夜から紹介された投資家にも、謝罪した。金銭の用意できる買手が先に現れたので、納得のうえ引き下がられた。こればかりは、購入可能な状態での買付をした者に分がある。
そう。少女は融資を受けることなく、手持ちの個人的な金銭で一括購入したのだった。
歌夜から離婚原因を聞いた後、もしかすれば購入可能な財力があるのかもしれないと、倖枝は考えたことがあった。とはいえ、非現実的な可能性なので、冗談半分に留めていたが――彼女個人の財力を実際に目の当たりにした。
決して、衝動的な意思表示ではなかった。その後の売買契約や決算も含め、少女は一連の流れ全てで冷静だった。
だから、倖枝は購入が計画的だったと勘ぐった。おそらく、事前に金銭を引き出す準備をしていたのだろう。いくつかの銀行から集めたとはいえ、五億円もの大金を短時間で用意したのが裏付けだった。
しかし、いつから計画していたのかは、まるで見当がつかなかった。つまり『計画』自体が本当に存在していたのかを疑うことになり――結局は、現在も釈然としなかった。まるで、夢を見ていたようだった。
それでも、歌夜と少女の双方から、確かに仲介手数料を受け取っていた。それが現実へと繋ぎ止めていた。
倖枝は、そのようなことをぼんやりと思い返す内、かつて『御影邸』と呼んでいた建物に到着した。
ここへ来るのは、売買後の引き渡しが行われてから初めてだった。空き家だった頃は、預かっていた鍵を使い勝手に出入りしていたが、もう鍵は手元に無い。律儀に自動車から降り、門のインターホンを鳴らした。
『はい。どちらさまでしょう?』
スピーカーから、見知らぬ女性の声が聞こえた。
「私、HF不動産販売の嬉野と申します」
『ああ……。主より、伺っております。どうぞ、お入りください』
いや、主って――ここへ呼び出した人物の立場としては間違っていないが、倖枝は笑いそうになった。インターホンにカメラがあるため、必死に堪えた。
通話が切れるや否や、門が自動で開いた。倖枝は自動車で門をくぐり、駐車場に駐めた。
駐車場には、もう一台――かつて御影歌夜が使用していた、黒色の高級輸入車があった。それを横目に、倖枝は館の扉を開けた。
「ようこそお越しくださいました、嬉野様。こちらへ……主がお待ちです」
見慣れた玄関には赤いマットが敷かれ、そこに二十台前半に見える女性が立っていた。先ほどインターホンで話した相手だと、倖枝は声で分かった。そして、エプロン姿と言葉遣いと礼儀正しさから、使用人であると理解した。大学生のアルバイトを雇っていると、娘から聞いていたのを思い出した。
スリッパに履き替え、屋内に上がった。
玄関にはマットの他、花瓶や絵画が飾られ、倖枝の知っている空間とは別物になっていた。電気が通り、廊下に灯りが点いていることも大きな変化だった。
通された先は二階の部屋ではなく、一階のリビングであった。
「我が家へようこそ、嬉野さん」
冷房の効いた広々とした空間で、ソファーに長い黒髪の少女が座っていた。黒色のワンピースに身を包み、浅く腰掛け背筋が伸びていた。
淑やかな雰囲気とは裏腹に――微笑みかける表情は、とても妖艶だった。膝に置いた右手の薬指には、黒猫を模した指輪が見えた。
時刻は、ちょうど午後三時。学校帰りのこの時間に呼び出した少女が、倖枝にはやはり魔女のように見えた。
いや、娘と同じ歳ながら館の
「お久しぶりです、月城様」
倖枝は営業用の笑顔を浮かべ、月城舞夜に頭を下げた。
そう。かつて、この館に住む人間は月城以外に想像できなかった。だから、居住用としては諦め、投資用として売却の営業を行った。
しかし、結果的には居住用として売却していた。
「ここでの暮らしは慣れましたか?」
「何を言ってるんです? 元々わたしの家ですよ?」
「失礼しました。そうでしたね」
「でも……これだけ広い館にひとりだと、寂しいですね」
娘の話では、日中は使用人の世話になりながら、舞夜ひとりで暮らしているらしい。実に有意義に使用しているように、倖枝には見えた。
「嬉野さんが夜の寂しさを紛らわせてくれると、嬉しいんですけど……」
クスクスと聞こえる小声だけでなく、藍色の瞳も不敵に笑っていた。
その様子に倖枝は苦笑しながら、舞夜の足元――ソファー下のラグマットに正座した。
ちょうどその時、キッチンから使用人がアイスティーの入ったグラスをふたつ、トレイに載せて運んできた。それがソファー前のテーブルに置かれると、舞夜は手振りで使用人をリビングから追いやった。
「さて……お久しぶりです、お母さん」
ふたりきりになるや否や、舞夜はさっきまでの雰囲気から一変、子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
「月城様、本日はどのような御用でしょうか?」
倖枝は切り替えに唖然とするも、笑顔を崩さず訊ねた。頬が引きつっているのが、自分でもわかった。
その様子に、舞夜は頬をぷくっと膨らませた。
「もうっ。さっきから何ですか、その喋り方」
「あのねぇ……。現在は客として相手してるんだから、調子狂うことしないでよ」
倖枝はついに折れ、砕けた口調で応じた。
今日は不動産売買の件で呼ばれていた。いくら親しい間柄とはいえ、舞夜の財力は『上客』として扱いたい気持ちから、敬語を使用していた。
「せっかく来てくれたんですから、もっとお喋りしましょうよ」
「今日開店したばっかりで忙しいから、そうも言ってられないの。また遊びに来てあげるから……。それで? 売るの? 買うの?」
駄々をこねる舞夜に、倖枝は半眼の視線を送った。
舞夜は不機嫌ながらも痺れを切らし、テーブル天板下の収納空間から、ひとつのクリアファイルを取り出した。
倖枝はそれを受け取った。他店の不動産資料だが、内容を確認して驚いた。
「それ欲しいんで、お願いします」
「え……これ?」
二百平米――約六十坪の土地が、千二百万円で売られていた。
坪単価が二十万円と、相場を破壊しかねない投げ売りだと思ったが、相応の理由があった。但し書きとして『上物あり』と共に『再建築不可』の注意書きまで添えられていた。
倖枝は所在地を見ると、実物が頭に浮かんだ。街の退廃した地域にあり、古く狭い街路は幅員四メートルに満たないため、確かに再建築が出来ない。
いや、土地というよりも、むしろ――大昔に建てられた、俗に言う『長屋』が
倖枝は長年の経験から、接道からの再建築不可物件、上物ありの物件、そのふたつを扱うことは無かった。売れる見込みが全く無いのだ。
「こんなの買ってどうすんのよ?」
「ヒミツです」
倖枝は舞夜を見上げると、にんまりとした笑みを向けられた。
更地にして駐輪場の運用? いや、場所として需要があるとは思えない。
長屋を一軒家にリフォームする? いや、リフォームでどうにもならないぐらい、現在にも崩れそうな建物だ。
それらが倖枝の想像の限界だった。いくら安値とはいえ、こんなものを購入したところで得をするとは思えなかった。不動産営業として、絶対に売れないと判断する代物だった。
それを、この少女は――いったい何が視えているのだろう。倖枝の中で、恐怖に似たものが込み上げた。
少女は常人では理解できない範疇で物事の軌道を読み、個人的な財を膨らませ、この館を手に入れたのだ。購入しようとしているこの土地も、きっとその一環に過ぎない。
「まさか、このあたり再開発の予定でもあったりする?」
倖枝は、自分が購入する理由ではなく、舞夜が購入する理由で考えた。
そう訊ねながら、鞄から白紙の買付証明書を取り出し、クリップボードに挟んだ。
「さあ、どうでしょうね……」
舞夜は、肯定も否定もしなかった。
そうだとしても言えるわけがないと思いながら、倖枝は買付証明書に購入物件の概要を記入した。
通常ならば、買手はこの物件資料を発行している不動産会社に、購入の意思を直接伝える。しかし、舞夜から購入の仲介をわざわざ依頼された。片手分だが、舞夜からの仲介手数料が発生するのだ。
倖枝は、売手の不動産会社に申し訳ないと思うと同時、このようなあぶく銭でも有り難かった。
個人情報欄を残し、買付証明書を舞夜に渡した。
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