第3部

第19章『開店』

第049話

 御影邸の売却後すぐ、嬉野倖枝は十六年勤務した不動産会社を退社した。

 積み重なっていた歩合への不満が、あの一件で爆発したのは事実だった。しかし、それ以上に――御影歌夜に感化され、吹っ切れたのが主な原因だった。

 人生は一度きり。

 その言葉と共に、衣服の店を持ちたいと語る歌夜が、後からとても魅力的に見えたのだった。


 倖枝は、自分の夢を叶えたいわけではなかった。ただ、不満の無い環境で、自己責任で生きてみようと思った。

 娘が大学受験を控え、直に大学の授業料を支払わなければいけない状況下では――あまりにも不適切な判断だという自覚はあった。

 それでも、たとえ今までの後ろ盾が無くとも、自分の力で稼げるという自信があった。だから、不安はほとんど無かった。

 十六年の実績を信じ、倖枝は独立した。


 六月二十四日、土曜日。

 大安の今日、倖枝は自分の不動産売買仲介店を開業した。

 街の大通り沿いに位置するテナントを賃借した。

 良い立地だと思っていた。駅からは離れ、歩いて来店するのは非現実的な距離だった。賃貸ならともかく、土地建物の売買は自動車での来店が多い傾向にあると、以前の勤務で分かっていた。もしも電車での来店があるのなら、自動車で送迎するつもりだった。


「なにも、あんたらまで付いて来なくてもよかったのに」


 午前十時、倖枝は店の外に立った。梅雨時期だが幸い今日は晴れ、蒸し暑かった。

 駐車場には自分の白いセダン車の他、白い大型ミニバンと青いハッチバック型コンパクト車の計三台が停まっていた。従業員の自家用車を社用車としても使用するが、とても不動産屋とは思えない顔ぶれだった。


「あそこに残るよりは、嬉野さんと一緒に仕事する方が楽しいんで……。それに、歩合半分は美味しすぎます」


 マッシュヘアの女性は眠たげにそう言うが、長年の付き合いからそれが本心なのだと倖枝は分かっていた。

 あくまでも、倖枝はひとりで退社し、ひとりきりの店を開けるつもりだった。次席の春名夢子に店長の座を明け渡すつもりだったが、退社の意を伝えたところ、夢子も便乗した。

 店長と次席の二名が同時に退社することになり、会社側と穏便な運びとはならなかった。倖枝が夢子を引き抜いたとの噂が流れていた。


「自分、店長も次席も、マジで尊敬してるんで!」


 そして、もうひとり。青いコンパクト車の持ち主も居た。

 どういうことか、男性新入社員だった高橋――名前は忘れた――までも付いてきた。こちらは大した成績を挙げていないので、特に騒がれることは無かった。

 倖枝としても採用には悩んだが、男手が無いよりは有った方がいいと決断した。まだ営業職としては半人前なので、雑用を任せつつ教育するつもりだった。


「私はもう次席じゃないつってんだろ、高橋」


 倖枝も夢子も、前職では高橋と絡むことはほとんど無かった。しかし、夢子は現在、当たりが強かった。これも教育の一環なのかもと思いながら、倖枝はふたりを眺めていた。

 ひとりきりの店のはずが、こうして三人で始めることになった。いざこのような状況になれば、倖枝としては心強かった。


「それにしても……店の名前、これで良かったのかしら」


 倖枝は晴れ空の下、真新しく改装したばかりの店舗を眺めた。

 出入り口の上には『HF不動産販売』と店名が書かれていた。


「今風でいいじゃないですか」


 夢子は発案者として納得しているようだった。

 倖枝はひとりで独立するつもりだった頃は、無難に『嬉野不動産』と考えていた。そんな折り、従業員となる夢子から横文字の『ハッピーフィールド不動産』と提案された。倖枝は蔑まれたように感じたが、夢子から客にしてみれば縁起が良いと説かれ、納得した。そして、店名が長いと電話での応答が面倒なので略し、現在に至る。

 倖枝は未だに釈然としない部分はあるが、客の印象に残りやすい名前だと、割り切った。


「自分も良いと思います!」

「お前には訊いてねぇよ、高橋」


 おそらく、ずっとこの調子なのだろうなと、倖枝はふたりに呆れた。

 そろそろ店内に戻ろうとしたところ、一台の自動車が入ってきた。赤いトールワゴン型の軽自動車は客ではないものの、倖枝にとっては嬉しい来訪だった。


「開店おめでとう」

「ありがとう、社長」


 自動車から降りたのは、ウェーブパーマの前髪無しショートヘアで、小さなオーバル眼鏡をかけた女性――須藤寧々だった。

 倖枝に続き、夢子と高橋も挨拶をした。


「何言ってんの。そっちも立派な『社長』じゃない」

「紛らわしいから、今まで通り『店長』でいいわよ」


 確かに従業員三名の組織での最高責任者であるが、倖枝は会社よりも店を経営している感覚だった。よって、店長呼びが適切だと思った。


「うん。店の方は何ともないね」


 寧々は店舗を見上げ、満足そうに頷いた。

 このテナントを借りてすぐ、倖枝は外観の改装を須藤工務店に依頼した。寧々から『友達割』として想像以上の安値を提示され、助かった。


「時間は掛かったけど、やっと今日から開店よ」


 工事自体は、宅地建物取引業の免許を取得したのとほぼ同時である、一ヶ月ほど前に終えていた。営業保証金を供託するための、宅地建物取引業保証協会の加入が思っていたより長引き、さらに一ヶ月を要した。

 四月三十日付で前職を退社したので、開業準備に約二ヶ月必要だったことになる。倖枝にしてみれば、予想外に長い時間だった。


「これ、ウチから。益々のご活躍を期待して、ね」


 寧々は自動車のトランクから、祝花を取り出した。バスケットからピンクのアルストロメリアと赤いバラが溢れる中『祝 御開店』の札が立っていた。


「ありがとう。これからも仕事のパートナーとして、よろしく」


 倖枝は重いそれを受け取り、出入り口の脇に置いた。華やいだ光景に、ようやく開店したのだと実感が湧いた。

 寧々とは引き続き、中古物件のリフォームやリノベーション等、業務を提携していくつもりであった。もっとも、倖枝としては個人的な付き合いも大事だが。


 寧々を見送り、倖枝は三人で店内に入った。

 入店すぐ、カウンター越しに事務所が丸見えだった。倖枝の店長席の前に、ふたつの机を向き合わせた。四つ目の机を置く余裕は無いが、その予定も無かった。

 客の居心地を考え、事務所以上に商談の空間を広く取った。念のため商談テーブルはふたつ用意し、パーテーションで区切った。


 狭い事務所で、さっそく業務を開始した。

 繁忙日の土曜日だが、当然ながら接客の予定は無かった。顧客情報も物件情報もゼロからの始まりだった。

 まずは、紹介可能な物件を用意しなければならない。夜間にマンションや住宅地に売却査定のチラシを撒くが、自社で預かる物件はすぐに確保できない。


「失礼致します。私、HF不動産販売の嬉野という者でございます。そちら物件に関しての問い合わせなのですが――」


 買主だけを探す片手契約になるのが癪だが、現在は贅沢を言ってられなかった。

 不動産流通機構に掲載されている物件から、周辺地域かつ売れる見込みがあるものをいくつか挙げていた。昼間はそれらを他社に問い合わせ、取り扱いの許可を貰い次第、物件情報を登録していくしかなかった。


 そのような作業を三人で行い、時刻は午後一時になろうとしていた。

 そろそろ昼休憩に入ろうとしたところ、一台の見慣れない自動車が入ってきた。倖枝は席を立って駐車場を眺めるが――自動車から降りた人物が一般顧客でないため、残念だった。

 ひとりの小柄な女性が、店内に入ってきた。


「これはこれは、二階堂さんじゃないですか。カウンターで見えませんでしたよ」

「ちょっと、春名さん! いきなり失礼なこと言うの、やめて貰えません!?」


 倖枝だけでなく、夢子も同じなのだろう――全く見えないわけではないが、確かに事務所からでは、カウンターから頭部がかろうじて見える程度だった。

 銀行の制服に身を包んだ二階堂灯が、店を訪れた。


「お世話になっています、二階堂さん。……わざわざ何の御用ですか?」


 珍しい客だと思いながら、倖枝は会釈した。机の引き出しから新しい名刺を一枚取り出すと、カウンターへと向かった。


「今日は営業で来ました。これ、弊社のローン案内です」


 灯は無愛想な表情で、住宅購入の融資審査のパンフレットと申請書をカウンターに置いた。

 倖枝は代わりに名刺を差し出した。灯は改めて見ることなく、仕舞った。

 カウンターに置かれたのは倖枝にとっては見慣れたものだったが、そういえば店内の備えが無いことに気づいた。もし融資が必要になれば、頼るつもりではあった。だが、そもそも――


「今さらですけど、HFうちと提携して貰えるということでいいんですよね?」


 場合によっては提携禁止の可能性があるはずなので、倖枝は恐る恐る訊ねた。

 世間では、かつての会社を裏切って独立したと捉えている者がいる。それを銀行も間に受け、社会的信用を失っているなら、取り合って貰えないだろう。


「確かに『離反組』の貴方達を悪く言う声もありますが、おふたりが差し出した債務者は誰も破産してトンでいませんので……現在のところはまだ、信頼に足ります」


 夢子とのふたりの実績で判断されたようで、倖枝はひとまず安心した。過去には成績優先で強引に押し付けたこともあったが、これからは返済能力をよく確かめようと、この場では思った。


「それでわざわざ、二階堂さんが来たんですか?」


 倖枝の隣からひょっこりと――夢子が名刺を差し出しながら口を挟んだ。

 融資営業部ではなく融資審査部の人間がこうして訪れたことを、倖枝も疑問だった。好意的に考えれば、周囲に抱かれていた疑念を、灯が説得してくれたのかもしれない。


「いえ……単に、この店に縁のある人間が私なだけで、行かされました」


 灯は不機嫌そうな表情で、理不尽ですと付け足した。

 ――以前も同じようなことがあったと、倖枝は思い出した。銀行内で腫物のように扱われている予感が、少し心配だった。


「というか、二階堂さん車の運転出来たんですね。てっきり、アクセルに足が届かないかと」

「そんなわけないでしょ! ……ペーパー気味ではありますが」


 からかう夢子に、倖枝も連れられて笑いそうになったが、我慢した。

 確かに背丈から灯が自動車を運転する姿が想像出来ないので、よくここまで来たと思った。


「まあ、そういうわけで……これからも、よろしくお願いします。じゃんじゃん紹介してください」


 灯は頭を下げ、店を立ち去ろうとした。

 扉を開けようとしたところ、振り返った。


「遅くなりましたが、開店おめでとうございます。店長さんはあの館を売却した『レジェンド』ですし、大丈夫でしょ」


 その言葉と共に、灯は微笑んだ。

 倖枝はそれを皮肉のように捉えた。だが、普段から夢子と一緒に灯をからかっているので、何も言い返せなかった。

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