第048話
売買契約を終えた時点で、歌夜は海外移住の手続きを進めた。
慌ただしい日々に追われたせいか、決済で月城の父娘と再度顔を合わせても、特に何も思わなかった。
住民登録やビザ申請等、入国後の手続きを残し、国内の手続きは早々と片付けた。
三月二十八日、火曜日。
歌夜は旅立ちの日を迎えた。こだわったわけではないが、年度内にこの国を離れることが出来て良かったと思った。四月から新しい地で、心機一転の生活が始まる。
「わざわざ送ってくれて、最後までありがとう」
「ちょうど今日は休みですからね。それに……御影さんとは、お友達ですし」
嬉野倖枝の運転する自動車で、国際空港へと向かっていた。歌夜は助手席に座り、倖枝と話した。
彼女とは舞夜の件で一度は対立したが、現在もまだ友人と呼んでくれることが、歌夜にとって幸いだった。この四ヶ月は間違いなく充実した日々であり、かけがえのないものを手に入れたと思った。
「あの子のこと、お願いね」
倖枝と舞夜、ふたりの関係を歌夜は知らない。以前、倖枝から娘の同級生だと聞いていたが――館でのふたりを見るに、それ以上であるのは間違いなかった。
この女は、他人の娘のために涙を流せる人間だった。だから、託そうと思った。
「えっと……具体的に、何をすればいいのですか?」
「バカ娘が何をやらかしても、健康でさえいてくれたら、それでいいわよ」
歌夜は、舞夜のことで後悔は無かった。
一度突き放した以上、もう遅すぎたのだ。
かつての時間を思い出として抱え、新たな道を進もうとしている娘に――母親として、今さら手を差し出してはいけなかった。娘の本意が純粋に嬉しくとも、足を引っ張る真似はしたくなかった。
「どこのお母さんも、やっぱりそう願いますよね……。分かりました、任せてください」
もしも、体調や事故で何かあればどうしましょう? 連絡しましょうか?
歌夜はそのような返答を想定していたが、倖枝に丸め込まれた。
本当に娘が危ない状況に陥った時には、すぐ駆けつけるつもりだった。しかし、倖枝には伝えなかった。
「私は、大学どころか高校を中退した身なんで……娘には、私のようにならないで欲しいです。大学まで卒業して欲しいです」
倖枝は前方を見て運転をしながら、ふと漏らした。
「だから、自分のようになって欲しいと願っていた御影さんは……なんていうか、凄いなと思ってました。私も、いつか自分に誇りが持てるといいんですが……」
苦笑する倖枝から、いつか酒を交えて話したことを思い出した。
確かに、かつてはそうだった。それが間違いであるとは、現在も思わなかった。だが――
「結局は、どんなかたちであれ……子供の成長を見届けるのが、親としての役目なのかもね……」
歌夜は言葉と裏腹に、内心では倖枝に同意していた。
自分が叶わなかったのだから、娘には叶えて欲しい。与えられた人生に飲み込まれることなく、自分の意思を貫いて欲しい。
月城から離れた現在、歌夜は無責任にそう願った。
「そうですね……。まあ、あと数年でしょうけど……御影さんも、海の向こうから見守ってあげてください。意外と、御影さんの気持ちを汲んでくれるかもしれませんよ?」
倖枝が『どちらの意味』でそう言ったのか、歌夜には分からなかった。
しかし、胸内を見透かされたような気がして、ふっと小さく微笑んだ。
やがて、空港に到着した。
手続き等、搭乗までの時間に余裕があった。
倖枝はわざわざ自動車を駐車し、スーツケースを運んだ。
「ありがとう。このあたりで大丈夫よ」
歌夜は、航空会社のチェックインカウンターの行列に並ぶにあたり、倖枝からスーツケースを受け取った。
「あっ、そうだ……。私、会社やめることにしました」
「はい?」
別れ際だというのに、最後に倖枝の口からとんでもない話が飛び出したと、歌夜は驚いた。
倖枝自身は平然としていた。特に深刻そうな様子では無かった。
「独立して自分の店を持つことになりました。夏までにはオープンするつもりです」
無職になるわけではないと分かり、歌夜はひとまず安心した。
しかし、どうしていきなりこのような展開になったのか――思い当たる節が、ひとつだけあった。
「お、おめでとう……。随分と思い切ったわね」
「御影さんのアドバイスのお陰です。ありがとうございました」
やはり自分がきっかけを与えたのだと、歌夜はこの場で頭を抱えたかった。
無責任な発言だったかもしれないと後悔するが、こうなった以上は前向きに考えるしかなかった。
「嬉野さんなら、きっと大丈夫よ。自信を持ってやりなさい。応援してるからね」
現に倖枝は、今回の件で舞夜以外に買手を連れてきていた。それに、店長にまで伸し上がったのだから、最低限の実力は保証されるだろう。
根拠なら確かにあるので、歌夜は倖枝が上手くいくよう、信じるしか無かった。
「はい。私も、御影さんのあちらでの活躍を応援しています。……人生は一度きり、ですからね」
微笑む倖枝に、歌夜は頷いた。
その言葉が現在も一番の信念であることに、違いなかった。こうして倖枝にも共感して貰えたのなら、嬉しかった。
「それじゃあ、またね」
「御影さんも、お元気で。もしお帰りになられた時には、お家探しを手伝いますので……」
互いに手を振り、歌夜は倖枝と別れた。
彼女に売却を依頼した時は、まさかこのような清々しい気分でこの国を離れられるとは、思いもしなかった。
仕事だけではなく、友人として酒を交わし、娘との仲裁にも入ってくれた。短い時間だったが、本当に世話になったと、改めて感謝した。
そして、彼女と離れるとなると――寂しかった。
だが、歌夜は振り返ることなく歩き出した。自分の
出国審査までの手続きを終え、歌夜はひとり、搭乗ゲート前のロビーに居た。
ラウンジで過ごすことも考えたが、天気が良かったので窓際のベンチに腰を下ろした。
四月を目の前に控えた、暖かな日だった。青空からの日差しが心地よかった。
――人生は一度きり。
歌夜はぼんやりと、先ほどの倖枝の台詞を思い出した。
結局、好きに生きて欲しいという『許し』を、最後まで舞夜に伝えられなかった。それだけが、唯一の心残りだった。
とはいえ、本人は理解しているのだろう。娘の、そして月城の行く末が楽しみであった。
「こら! 走らないの!」
ふと、大きな声が聞こえた。
歌夜は声のした方向を見ると、母娘だろうか――走り回る幼い女児と、それを追いかける母親らしき人物の姿が見えた。
その光景は、歌夜に過去の出来事を思い出させた。
かつて、飛行機搭乗の待ち時間で、舞夜に黒猫の指輪を買い与えた時もそうだった。
現在もなお大事そうに身に着けていたので、記憶が繋がった。
大喜びの舞夜は、店から出るとすぐに走り出した。
「舞夜、待って!」
歌夜は呼び止めるも、嬉しさのあまり昂った舞夜は、聞く耳を持たなかった。
そして、ろくに前方を見ていなかったため、歩いていた一般客の男性にぶつかった。
「舞夜、大丈夫!?」
転んだ舞夜に、歌夜は慌てて走り寄った。幸いにも舞夜に怪我はなく、きょとんと驚いた表情を浮かべていた。
男性の方は転ぶどころか立ち尽くし、無事のようだった。ただ、転んだ舞夜を心配するどころか、不機嫌そうな表情で見下ろしていた。
「貴方ね、どこ見てるのよ! 気をつけなさいよ!」
歌夜はその態度に怒り、舞夜を立ち上がらせた。男性に謝罪することなく、その場から立ち去った。
どうしてあの時は、舞夜を正当化したのだろう。どう考えても、悪いのは舞夜だ。
現在になって、歌夜はそのように思った。
――どうして、自分の娘を叱れなかったのだろう。
あの時に限ったことではない。育児の中で、叱ったことがあっただろうか。
歌夜は思い返すが、すぐに搭乗開始の放送が流れ、中断した。
今さらそのような『失敗』に気づいたところで、もう遅かった。
愛でるだけが、愛情だったのだろうか? 叱らないことが、子供のためだったのだろうか?
そのような疑問はこの国に置き捨て、歌夜は飛行機の搭乗口へと向かった。
(第18章『御影歌夜』 完)
次回 第19章『開店』
倖枝は独立し、個人の不動産屋を立ち上げる。
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