第18章『御影歌夜』
第046話
二十一年前。御影歌夜は短期大学を卒業後間もなく、二十二歳で月城家の長男に嫁いだ。見合いのかたちで結ばれた。
学生時代に恋愛経験は無かった。異性に好意を抱くことはあったが、絶対に叶わぬ恋だとわかっていたので、諦めていた。若く、かつ処女の身を月城に差し出せたのは、御影にとって理想だったと言える。
実のところ、どうして月城に選ばれたのか、歌夜には分からなかった。外国人の母を持つことによる美しい容姿と、幼少から令嬢として育てられた佇まいには自信があった。しかし、家柄も地位も学歴も間違いなく不相応だった。
良く考えれば、気まぐれ。悪く考えれば、格下の者を側に置いておきたい優越感。そのふたつで歌夜は割り切った。
嫁いですぐ、新婚の気分を味わうことなく、第一子である長男を二十三歳で産んだ。
そして、その二年後には第二子を身籠った。
腹の子の性別が女と分かった時、夫は喜んだが、歌夜はひどく落胆した。堕ろしたいぐらいであった。その本心を誰にも打ち明けることなく、長女を産んだ。
歌夜の理想は男ふたりの兄弟だった。女の子供はひとりも持ちたくなかった。
――自身と同じ未来が待っているのだから。
何も知らぬ赤子は感情を剥き出しにして泣き、貪欲に母乳を求めた。
女らしかぬ元気な子だと、歌夜は思った。しかし、この小さな子に希望は無いため、優しく抱きながら憐れんだ。
名家に嫁いで子供ふたりを産み、課せられた責務はほぼ果たしたと思った。歌夜は齢二十六にして、人生を全うした気でいた。
結婚と同時に建てられた大きな館での生活は、付き人も居るため不自由はしなかった。しかし、家族の愛情を感じることはなかった。貴婦人としても母親としても、決して幸せではなかった。
そのような虚無感の中、子育てを行っていた。
次の月城を継ぐ長男は、家庭教師や習い事で、幼少より英才教育を施されていた。
だから歌夜は『さほど手を掛けられていない』長女と一緒に居ることが多かった。夫からも、令嬢になるための育児を任されていた。
館の、二階の一番端の部屋にはフロアマットが敷かれていた。
そこで三歳になる長女――舞夜は、ままごとの玩具でせっせと料理していた。
「おかあさま、出来ました! 召し上がってください!」
歌夜は読書をやめて、小さなテーブルに向き合った。玩具の食材が皿に盛られていた。
本来ならば料理だけでなく、ナイフとフォーク、そして水差しとグラスまで準備することを教えなければいけなかった。
「まあ、美味しそうね。いただきます」
しかし、まだ野暮であるため手掴みで食べる振りをした。
その様子を見て、藍色の瞳の幼児は笑顔で喜んだ。
「ねぇ、舞夜は大きくなったら何になりたいの?」
酷な質問だと、歌夜は思った。
それでも、何も知らない無邪気な内は、せめて
「うーん……。わかりません!」
舞夜は悩んだ後、にかっと笑った。
あまり外出していないので、無知ゆえにその回答は仕方ないと歌夜は思った。もしくは、そのようなことを考えなくてもいいほど、現在の生活に満足しているのか――
「私はね……服屋さんになりたかったわ」
そのように願ったのは、ちょうど現在の舞夜ぐらいの歳だろうか。夫も知らないかつての夢を、歌夜は娘に語った。
「わぁ! 素敵ですね! わたしも、大きくなったら服屋さんになりたいです!」
単純に同意するところが可愛いなと、歌夜は思った。
自分の成し得なかった夢を、もし娘が叶えたなら――そのように一瞬考えるが、利己の押し付けはしたくなかった。
「あれ? でも、どうしておかあさまは服屋さんにならなかったのですか?」
ふと、舞夜は首を傾げた。
それに気づく頭の良さを褒め――いや、不安を持たせないために、歌夜は舞夜の頭を撫でた。
「服屋さんよりも『お嫁さん』になりたかったのよ」
いつ、そのように成ったのか、思い出せない。
両親から服屋の夢を直接否定されたわけではなかった。物心がついた頃には、自分の人生は決められたものなのだと理解していた。
きっと、環境と教育が良かったのだろう。自身が母親になった現在、両親の手腕を尊敬した。
「お嫁さんこそが、女の幸せなんだから……」
そう。現在の内から、そのように教育しなければいけない。
まるで、自分に言い聞かせるように――歌夜は娘に嘘を説いた。
舞夜は五歳になり、次第に識字能力が身についた。
「おかあさま、ご本読んでください!」
舞夜が歌夜に持ってきたのは、有名な童話の絵本だった。
母親の国の童話であるのはきっと偶然だと、歌夜は思った。
「昔々、あるところにふたりの兄妹が居ました」
舞夜を膝に載せ、歌夜は広げた絵本をゆっくりと読み進めた。
「兄妹は森に遊びに行ったところ、迷って帰れなくなりました」
その後、お菓子の家で魔女に誘われる、といった内容だが――物語の冒頭に違和感を覚えた。
歌夜の知っている話では、兄妹と両親は貧困の一家であり、食糧難から母親に兄妹が森へ捨てられる内容だった。中世の大飢饉がこの童話の時代背景にあるため、間違いなかった。
児童向けの絵本だから、改変されているのだろうか。確かに、そのような描写は今どきの幼児に不要だと、ひとり納得した。
「魔女は釜に落とされ、焼け死にました。逃げ出した兄妹は無事、家に帰れましたとさ。めでたしめでたし」
その割には、最後は中世の魔女狩りを彷彿とさせる残虐な描写があった。そして、帰宅後に兄妹が目にする光景は描かれていなかった。
なんとも中途半端だと思いながら、歌夜は絵本を閉じた。
とはいえ――母親に成ってからこの童話に触れると、やはり兄妹の母親に焦点が向かった。
この絵本では、その部分が描かれていない。しかし、やはり母親が子供を捨てるというのは、あってはならない行為だと、当時の歌夜は思った。
歌夜としては、読後の後味は悪かった。この童話の真の結末も同様であり――もっとも、舞夜にはまだ難しい話であるため、教えることはなかった。
「舞夜は……この魔女はそんなに悪い人だと思う? 食べ物と寝床を与えてくれたのよ?」
ただの読み聞かせでは教育にならないため、読み聞かせの後は必ず感想を求めていた。
この童話で掘り下げる部分は他にもあるが、歌夜は娘がそれに対してどう思ったのか気になった。
「悪い人ですよ! 騙すような人は、焼かれて当然だと思います!」
子供特有の正義感なのか、もしくは純粋な感想なのか――いずれにせよ容赦ないなと、歌夜は思った。
きっと、この童話を全て説明したところで、あの人物にも同じことを言うだろう。歌夜は反面教師として受け取った。
舞夜が七歳になる頃、一家四人で歌夜の母親の国へ旅行することになった。
空港で出国審査を済ませた後、歌夜は搭乗時間までラウンジで過ごしたかった。しかし、舞夜に手を引かれ、買い物に出かけた。
各ブランドの免税店が立ち並ぶが、そのどれもに歌夜は興味が無かった。
母娘ふたりで何気なく入った所は、変哲も無い雑貨店だった。歌夜としても、ブランド店よりは面白いと思った。
「おかあさま! わたし、これ欲しいです!」
舞夜が興奮気味に手に取ったのは、黒く小さいものだった。歌夜はよく見ると、黒猫が指に絡みつくような形の、玩具の指輪だった。
「おかあさまとお揃いです!」
左手薬指に嵌っている結婚指輪を、舞夜に指差された。
これが何を意味するものなのか、舞夜は分かっていないだろう。母親の真似事から欲しいのだと、歌夜は理解した。
「ブカブカです……」
舞夜は自身の左手薬指に嵌めるものの、指輪が大きい――というより舞夜の手指が小さいため、明らかに大きさが合っていなかった。
いくら玩具の指輪とはいえ、舞夜がまだ対象年齢に達していないように、歌夜には見えた。
「左手の薬指はダメよ。……将来の大切な人のために、空けておかないと」
しゅんとしている舞夜から、歌夜は指輪を外した。
そして、そのまま左手の親指に移した。手の中で一番太い指ならば、手を下げても落下しなかった。
おそらく十本の手指それぞれで指輪を嵌める意味が違うのだろうが、歌夜は知らなかった。左右共に薬指以外なら大丈夫、程度の知識だった。
「綺麗よ、舞夜。私とお揃いね」
指は違えどお揃いということにすれば納得するだろうと、歌夜は左手を見せて微笑んだ。
「はい!」
舞夜も左手を挙げ、嬉しそうに笑った。
歌夜はその指輪を購入した。たった五千円だった。
「おかあさま、ありがとうございます!」
よほど気に入ったのか、旅行中も帰国した後も、舞夜はその指輪をずっと嵌めていた。
幼いながらアクセサリーに興味を持ち、歌夜は嬉しかった。
結局のところ、歌夜は知らなかったが――左手親指に指輪を嵌めるのは『想いを叶える』や『自己実現』を意味する。皮肉にも、定めた人生を歩かせる歌夜の育児方針とは真逆のものであった。
とはいえ、歌夜の育児は順調だった。
明るく元気な――おてんば気味だった舞夜は、小学校高学年にもなると次第に落ち着き、淑やかな雰囲気を醸し出した。
歌夜はまるで、かつての自分を見ているようだった。
あとは社交の経験を積ませば、言わずとも『己の立ち位置』を理解するだろうと思った。
悲しいが、これでいいのだ。これこそが、娘の幸せなのだ。自分の人生を否定したくないがために、歌夜はそう割り切った。
そして、舞夜が中学生になった。
近く思春期を迎えるが、出来上がる自我を上手く包み込めば『完成』だと、歌夜は思っていた。
「あの……お父様、お母様……。わたし、株の売買をしてみたいのですが……」
この時既に、成長した舞夜の左手親指に黒猫の指輪は嵌らなかった。舞夜は右手の小指に、母親に買って貰った指輪を嵌めていた。
その位置は『自らの魅力を伝える』を意味した。
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