第045話
「雨漏りは嘘です。ここまで騙してお連れした非礼を、お許しください」
倖枝は一応、歌夜に頭を下げた。
謝罪で済む話ではないかもしれないと、覚悟のうえだった。怒った歌夜が仲介契約を打ち切り、別の業者に鞍替えする可能性までを想定していた。
そのような危険を犯してまで、倖枝はこのふたりを引き合わせたかった。
あの雪の日――今日この時間に歌夜を連れてくると、舞夜に約束していた。
「話って、何なのよ!? 私はもう、この子の母親でも何でもないのよ! 何も話されても、どうだっていいわ!」
歌夜は興奮気味に、頭ごなしに否定した。現在すぐにでも、この場から立ち去ろうとする勢いだった。
倖枝は舞夜を見ると、顔色は特に変化が無かった。しかし、拳を握った手が、小さく震えているのが見えた。
「御影様は、ひとつだけ誤解なされています」
ふたりの『仲介役』として、倖枝は口を挟んだ。
指輪を探し終えた時、舞夜から実の母に対する気持ちを詳しく聞いていた。その中で――歌夜から以前聞いた、舞夜を忌み嫌う理由とすれ違う点がひとつあった。
「誤解って、何よ?」
「さっき私と話していた、子供の頃の将来の夢が、まさにそれですよ……。舞夜ちゃん、貴方にそういうのある? もしも
倖枝は舞夜の抱く夢を知らなかった。しかし、歌夜の思っているものと明確に違うことだけは分かっていた。
「漠然とした
舞夜は話の流れが飲み込めていない様子だったが、後半の単純な質問に答えた。
名家の令嬢らしかぬ夢だと、倖枝は思った。だが、ひとりの高校生らしい夢ではあった。
「でも、それは叶わない……。そうよね? 舞夜ちゃん」
「はい……」
「貴方の将来はどんな予定なの?」
舞夜自身の口から言わせるよう、倖枝は誘導した。
「大学で経営を勉強して、卒業すれば家業を継ぎます」
舞夜から聞いた話では、よほどのことが無い限り、それが確定しているのだ。
月城の娘として、才能ある者として、親から決められたものだった。避けられない未来だった。
「この子も結局は……御影様と同じで、敷かれたレールを歩くことしか出来ないんですよ」
「違うわ! この子は他所に嫁ぐための令嬢か、家業の経営か、ふたつの選択肢があったわ!」
「……そうなの? 舞夜ちゃん」
倖枝は、否定する歌夜を見た後、舞夜に視線を送った。
「わたしにそんな選択肢なんて、ありませんでした。確かに、最初はただの遊びで始めたマネーゲームですけど……家業を継がされることになったのは、お父様のご意向です」
舞夜は首を横に振って、そう答えた。
これも事前に、倖枝が舞夜から聞いていた話だった。歌夜がひどく勘違いしているため、すれ違いの原因になっているのかもしれないと思った。
「わたしがお母様のように成って欲しかったのなら、そう育てればよかったじゃないですか! わたしがお母様の意に反するなら、叱ってくれたらよかったじゃないですか! 失敗したからって、投げ出さないでください!」
次は舞夜が、訴えかけるように言った。
選択の主導権は、あくまで父親側にあっただろう。どの道、歌夜が口を挟んだところで結果が変わることは無かったと、倖枝は思う。
それでも、歌夜は母親として、口を挟むことなく逃げ出したのだ。その結果、このような歪みが生じた。
「わたしはお母様を尊敬して慕っていたのに! お母様のような気品ある女性になりたいと思っていたのに!」
これは舞夜が、母娘関係が壊れて以降、伝えられなかった気持ちだった。
こうして、ふたりはようやく腹を割って本音を話せた。
見るに堪えない光景だが、これがせめてもの『落とし所』なのだと倖枝は思った。修復できない現在となっては、後腐れの無いよう吐き出すしかなかった。
「今さらそんなこと言われても――私は絶対に謝らない! 私は、自分の行いが間違いだとは思わない!」
歌夜は何かに怯えるような表情で、舞夜の訴えを退けた。
同じ母親として、娘の前で過ちを認めたくない気持ちは、倖枝にも理解出来た。頑固なのではない。あくまでも、親としての威厳を崩したくないのだ。
「あんたね……」
倖枝は中立な位置に改めて立ち、最後までふたりを見届けるつもりだった。
しかし、ここにきて歌夜への同族嫌悪が込み上げた――実際はそれだけではなかったが、自分の本意には気づかなかった。
ふたりの中心に居た倖枝は、舞夜の背後へと歩いた。
「これでもう、本当に終わりなのよ!? あんたはもう、この国から居なくなるのよ!? それなのに、どうしてそれしか言えないのよ!?」
椅子に座る舞夜の両肩に手を置いた。ここに歌夜を連れてきたように――やはり、舞夜の側につくことを、倖枝は選んだ。
大切な顧客と敵対することは間違っている。それを理解したうえでも、どうしても許せなかった。
「ここに来る前、私に言ったあの言葉――この子にこそ必要なのに、どうしてそれが言えないのよ!?」
――泣いても笑っても、一度きりの人生ですもの……。どうせなら、後悔の無いよう好きに生きて、楽しみましょう。
倖枝は、この言葉が忘れられなかった。
何もかもから開放された歌夜だからこそ、言えた内容だった。
舞夜に言ったところで、真似できるわけも無かった。それでも、気持ちだけでも自由に生きて欲しいと――母親として
「放っておいてよ! 貴方には関係ないはずでしょ!? 私にはもう、この子はどうだっていいのよ!」
だが、倖枝の気持ちは歌夜には伝わらなかった。
それが悔しくて、倖枝は舞夜の肩を強く握った。
「この子はあんたが思うより、ずっと良い子よ!」
舞夜と出会って、まだ三ヶ月ほどしか経っていない。そんな浅い時間で何を言っているんだろうと倖枝は思うが、込み上げる感情を抑えられなかった。
「この子は私の誇りです! 私の自慢の娘です!」
瞳の奥が熱かった。溢れ出るものを堪えず、言葉と共にそのまま流した。
――舞夜が実の母親に受け入れて貰えないことが、たまらなく悔しかった。
舞夜は椅子から立ち上がると、倖枝の手をそっと退けて振り返った。
「わたしのために
舞夜の瞳に自分の泣き顔が映っているのが、倖枝には見えた。とても格好悪い姿だった。
だから――改めて見る藍色の瞳は、初めて会った時のことを思い出させた。汚く濁った水槽を彷彿とさせた。
にっこりと無邪気に笑う
「お母様から何を言われても、わたしはもがいてみせます! 沈んでたまるもんですか!」
舞夜は歌夜に再度向き合うと、威勢よく宣言した。
倖枝はふと、ベッドに置いてあるクラゲのぬいぐるみが目に入った。
――狭い水槽の中で飼われているクラゲは、本当に幸せなのだろうか?
かつて、水族館へ行った時のことを思い出した。当時は、もがかず沈んでいることに、倖枝は自分を重ねた。
舞夜もまた、クラゲの生き方に自分を重ねていたのだと、現在になってようやく分かった。
抗うという少女の
「お母様がわたしとの思い出を捨てるなら、わたしが拾います! わたしにとっての大切な思い出を、誰にも渡しません!」
舞夜の右手には、小指に黒猫の指輪が嵌っていた。
失くした時は、ふたりで必死に探した。少女にとってこれがどれほど思い入れがあるものなのか、倖枝は理解していた。
そして、舞夜が言うには、母親との思い出があるのは指輪だけではなく――
舞夜は倖枝に振り返った。倖枝には、落ち着いた表情に見えた。
だから、それは決して感情的な発言ではないように思えた。
「四億九千八百万円――わたしが、この館を買います」
(第17章『強さ』 完)
(第2部 完)
https://note.com/htjdmtr/n/n72ce5697b5c4
次回 【幕間】第18章『御影歌夜』
歌夜は舞夜と、売買契約を締結する。
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