第044話

 二月二十三日、木曜日。

 まだ寒い日が続いているが、先日の雪はもう跡形も無かった。休日が明け、通常通り業務を執り行えた。


 倖枝は出勤してメールを確認すると、嬉しい知らせが舞い込んできた。

 御影邸の件で保留状態だった買手のひとり――御影歌夜から紹介された投資家のひとりが、購入の意思を示したのだ。

 早速、電話で確認したところ、一億五千万円分は銀行から融資を受けるらしい。自分で手続きを行うとのことなので、前回のように審査が通過しない状況にはならないだろうと倖枝は願った。

 金銭面ではまだ保留だが、一応は『商談中』となった。しかし、歌夜にすぐ連絡をしなかった。それどころか、倖枝の気分は特別上がることもなく、落ち着いていた。

 午後三時を回った頃、倖枝はようやく歌夜に電話した。


「こんにちは、御影様。お世話になっております」

『あら、嬉野さん。どうしたの?』

「お預かりしている館のことで、いくつかご報告がありまして……。よろしければ、現在からお伺いしてもよろしいでしょうか?」


 倖枝は店長席で電話をしながら、自分の机で仕事をしている春名夢子を眺めていた。

 先日の雪の日、夢子には御影邸の件で嘘をついている。もしも電話越しで雪の話になれば厄介だと、警戒していた。

 視線に気づいた夢子は、眠そうな表情で首を傾げた。


『ええ。構わないわよ』

「ありがとうございます。それでは、参ります」


 危惧していたことにはならずに済んだ。倖枝は夢子に微笑んだ。


「というわけだから、ちょっと行ってくるわね、春名」

「了解です」

「帰りは、そうね……」


 倖枝は準備をすると立ち上がり、壁のホワイトボードに帰社予定の時間を『十七時半』と書いた。

 買手がついたことを報告するだけならば、普通はこれだけ遅くはならない。夢子からこの時間に触れられる前に、倖枝は店を出て自動車を走らせた。


 いつもの駅前のコインパーキングに駐車した。

 査定の報告で初めて訪れてから、もう三ヶ月になる。倖枝にとっては、あっという間だった。

 歌夜のことは、最初はいけ好かない顧客だったが、次第に友人のような間柄へとなっていた。そのような変化を振り返りながら、歌夜の部屋を訪れた。


「突然申し訳ありません、御影様」

「外はまだ寒いでしょ。さあ、入って」


 歌夜から温かな笑顔で迎えられた。

 リビングに通されると、歌夜がキッチンからティーカップの載ったトレイを運んできた。匂いから、紅茶だと倖枝は分かった。

 テーブルにトレイが置かれ、紅茶を差し出されたが、倖枝はまだ手をつけなかった。歌夜がソファーに座るのを確かめると、ラグマットに正座した。


報告はなしって、なに?」

「はい。まずはですね――御影様の館に、買手がつきました」


 倖枝は、今朝電話で購入意思を確かめたこと、そして金銭面で滞っていることを歌夜に話した。


「どうやらローンを組める見込みがありそうなので、流石に前回のようにはならないかと思います。ほぼ決まったと思って頂いて、構いません」

「そう……。それはよかったわ」


 歌夜は特に喜ぶ素振りを見せることもなく、紅茶を一口飲んだ。

 本来なら帰り際によばれるが、倖枝も一口飲んだ――落ち着くためだった。


「これで、春にはこの国を離れられますね」


 仲の良い間柄とはいえ、ふたりの『終わり』に触れることは、これまで無かった。

 倖枝は歌夜を真っ直ぐ見つめ、微笑んだ。


「四億九千八百万――そこから手数料が引かれますが、御影様は大金を手にされます。それを元金に、何かなされる予定はあるのですか? それとも、安定した生活を望みますか?」


 意地悪な質問をしている自覚は、倖枝にあった。売却後の生活に興味が無いわけではないが、実のところどうでもよかった。

 偶然にも、今日買手が現れた。しかし、それが無くともこうして追いやるつもりだった。

 倖枝はただ、歌夜に『終わり』が近いのだと意識させたかった。


「……嬉野さんは、子供の頃に何か夢があった? 将来なりたかったものよ」


 歌夜は戸惑う表情を一瞬見せるも、すぐに落ち着き、そう切り出した。


「夢、ですか? そうですね……。ありきたりですけど、お花屋さんとかケーキ屋さんとか考えてた時期はありました」


 倖枝は恥ずかしそうに苦笑しながら、正直に答えた。幼稚園から小学生低学年あたりの、バカげた夢だった。

 自分の幼少期を振り返り――歌夜はどうだったのかと、ふと思った。

 よその名家に嫁ぐための令嬢として育てられた彼女は、幼少からバカげた夢を持つことすら許されなかったのだろうか。


「女の子らしくて、いいじゃない……。私はね、嬉野さん……服屋さんになりたかったのよ」


 歌夜は、なんだか子供じみた無邪気な笑みを浮かべた。


「採寸して、お洋服を作って……どちらかというと、仕立て屋さんかしらね。そういうのに憧れたことがあったわ」


 遠い昔の夢を語る歌夜が、倖枝はひどく痛々しく見えた。

 いくら落ちぶれた名家とはいえ、ひとり娘に仕立ての勉強をさせる金銭的な余裕はあったはずだ。歌夜は感性も良いため、ファッションデザイナーに成る可能性も充分にあったと思った。


「今さらそういうのは無理だと思うけど……服を卸して販売するお店を持ちたいなって、漠然と思ってるのよ」

「まあ、素敵ですね」


 海外の地で服屋を開いている歌夜の姿が、倖枝は安易に想像できた。

 金銭の価値は国によって変わるが、それでも店の経営と贅沢な暮らしを両立させるには充分足りると思った。


「私、現在はパスポートを持ってない身ですけど、いずれお邪魔したいと思います。応援しますよ、御影様」


 それは営業職としての当たり障りの無い言葉ではなく、倖枝の本心だった。

 ――くだらない理由から家庭を捨てた女性がそのような道へ進むことを、倖枝は肯定した。否定できる立場ではなかった。


「ふふっ、ありがとう。とはいっても、まだ形が何も無い状態だから、話半分で聞いておいてね……。嬉野さんは、自分のお店持ちたいって考えたことはない? 結構な手数料が入るじゃない?」


 確かに、御影邸の売買が成立したならば、税込みで約千六百万円の仲介手数料を歌夜から――さらに、見込み通り両手で仲介したならば、売主と買主の双方から合計で倍の金額が得られる。


「ここだけの話ですが……私に入る歩合は、たったの一割だけなんですよ。ほとんどが会社に持っていかれます」


 倖枝は、世知辛い現実に苦笑した。

 正確には営業としての歩合が一割の他、店長として店舗内の歩合が三パーセント入る。それでも、たったそれだけであり、過去より納得していなかった。


「あらあら、横暴な会社ねぇ」

「どこの会社も、似たような感じらしいですけどね。まあ、開業自体にそんなにお金はかかりませんので……御影様の仰る通り、そろそろ独立してもいいのかもしれません」


 チェーン店の銘柄と社会的信頼、そして膨大な顧客情報は確かに魅力的だと倖枝は思っていた。しかし、それらの価値は手数料の九割近くに相応しいのか疑問に思った頃、店長へと就任した。

 現在は役職の基本給と店舗の歩合が主だった収入となっている。だが、こうして営業として活動すると、やはり腑に落ちなかった。

 会社の後ろ盾が無くとも、現在の自分なら独立した方が稼げるのではないだろうか――街で空きテナントの賃貸募集を見かけると、そう考えることがあった。


「人生は、一度きり……」


 ふと、歌夜がぽつりと漏らした。


「泣いても笑っても、一度きりの人生ですもの……。どうせなら、後悔の無いよう好きに生きて、楽しみましょう」


 良い言葉だと、倖枝は思った。

 ――しかし、それは肯定できなかった。

 歌夜の、好きに生きられなかった身分は理解できる。倖枝としても、好きに生きれるならそうしたい。だが、倖枝も歌夜もそれが許される立場ではなかった。

 一度きりの人生だからこそ、背負うものがあるからこそ、逃げてはいけない。最低限の責任は果たさねばならない。

 そう。たとえ既に終わっているにしても、己の手で確かに幕を下ろさなければならないのだ。


「話を戻しますが……もうひとつの報告です。どうも、先日の雪で屋根がやられたんでしょうか……。あの館で、雨漏りしてる箇所がありまして……」


 倖枝は、途切れさせながらも言葉を紡いだ。

 言い難い内容だからではない。このような嘘を信じて貰えるのか、自信が無かった。


「えっ、本当に? やっぱり、修理して引き渡さないといけないの?」

「そのような義務はありませんが……こちらが修理して提示金額の満額を頂くのが、トラブルや後腐れが無いと思います」


 ひとまず、この嘘を信じて貰えたようだった。後ろめたさはあるものの、倖枝は安心した。


「すいません。写真が無いので……業者に修理を頼むにしても、御影様に一度現地を見て頂きたいのですが……。行きたくないのは、重々承知しております」


 この提案を持ち出したのは、賭けだった。

 写真を撮ってこいと言われたなら、写真では分かりにくいと返す。修理に関して費用持ちで丸投げされたなら、責任は持てないと返す。

 倖枝は事前に様々な返答を考えてきたが、それでも歌夜が強固として行かない可能性が大きいと睨んでいた。

 とはいえ、どうしても歌夜を連れ出さねばならなかった。真っ直ぐな視線を向け、訴えかけた。


「……わかったわ。行きましょう」


 歌夜はやはり乗り気ではないが、悩んだ末、渋々頷いた。

 どうにか、歌夜を御影邸へ連れ出すことに成功した。


 倖枝は自身の自動車を運転した。助手席の歌夜は、まるで何かに怯えるように、曇った表情を浮かべていた。

 やがて、森に入り私道を抜け――御影邸へと到着した。倖枝は雪が溶けて以降初めて訪れたが、門から見える大きな館も広い庭も、雪による被害は何も無かった。


「……」

「入りましょう、御影様」


 歌夜は、どこか遠くを見るような瞳を館に向けていた。

 時刻は午後四時。倖枝は歌夜を促すと、門と玄関扉を抜け、館の屋内へと連れ込んだ。持参したスリッパを玄関に二足並べ、履き替えた。まるで、内見の客を案内しているかのようだった。

 玄関からすぐ、螺旋階段を上がった。歌夜は空き家になったかつての住居を見回すことなく、黙って付いてきた。


「確か、この部屋だったかと……」


 わざとらしい演技だと思いながら、倖枝は二階の一番端の部屋へと連れてきた。やはり、この部屋のみ扉が閉まっていた。

 歌夜が険しい表情を浮かべるが、扉を開けた。

 夕陽の差し込む部屋で――まだ家具が置かれているこの部屋で、学習机の椅子に、学生服姿の少女が座っていた。


「ようこそ、お母様」


 以前のパーティーのように敵意を向けることなく、少女は明るく微笑みかけた。


「舞夜――どうして貴方がここに居るの!? この部屋は何なの!?」


 昂った声と共に入り口で立ち尽くす歌夜をよそに、倖枝は部屋に入った。

 月城舞夜の隣ではなく、ふたりの中間の位置で立ち止まり、歌夜へと振り返った。


「御影様……どうか、娘さんの話を聞いてあげてください」


 倖枝は、ふたつの藍色の双眸に挟まれ――その中心に立っていた。

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