第17章『強さ』

第043話

 二月二十二日、水曜日。

 倖枝は昼食後に昼寝をし、午後二時過ぎに自動車でスーパーマーケットへと出かけた。休日ぐらいは咲幸に代わり、夕飯を作ろうと思っていた。

 二月も終わりが見えてきたとはいえ、寒波が停滞しているせいで、まだ寒い日が続いていた。


 倖枝は特に献立を決めていないままやって来たが、やはり温かいもの――鍋料理を食べたいと思った。

 鍋スープの並んだ棚に向かい、どれにしようか悩んだ。ここ最近も鍋料理が続いていたため、それぞれどのような味だったのかを思い出した。

 しかし、ふと頭に浮かんだのは――三月になればすぐ、咲幸の学年末試験だということだった。もうじき試験準備期間に入り、放課後は部活動も無く帰宅する。

 試験勉強に取り組む咲幸には、体力をつけて貰いたい。かつ、直近で使用していない鍋スープ。

 そのふたつで考えた結果、悩むことなく、とあるスープを手に取った。

 そして、それに合う食材を買い込み、倖枝は帰宅した。


 午後五時半頃、倖枝は食材を切り、夕飯の支度をした。しかし、すぐに鍋で煮込むことはなく、ラップをかけて冷蔵庫に戻した。

 エプロンを脱ぐと、自動車で咲幸の学校へと向かった。

 二日前の大雪は仕事が重なり憂鬱だったが、結果的には良かった。月城舞夜が指輪を失くした件もだが――休日である昨日と今日は、自動車で咲幸の送迎が出来た。

 雪が降ったのは一昨日の一日だけだった。しかし、路面に積もった雪がすぐに溶けるわけもなく、現在も歩道の隅に、黒く汚れた塊として残っていた。

 咲幸はクロスバイクで通学すると言ったが、母親としては不安のため見送れなかった。


 午後六時過ぎ。すっかり暗くなった中、学校近くに自動車を駐めた。

 ハザードランプを点けてしばらく待っていると、部活動を終えた咲幸が姿を現した。手には、ピンク色の羊革手袋――舞夜からの誕生日プレゼントを着けていた。

 咲幸の隣には、背の高いショートボブの少女、風見波瑠も居た。

 咲幸と同じ陸上部なので不思議な光景ではないが、またかと倖枝は思った。


「ママ、お待たせ」


 助手席に乗り込む咲幸の背後で、波瑠が頭を下げて会釈していた。倖枝には、わざとらしい態度に見えた。


「波瑠ちゃんも乗りなさい。送ってあげるわ」

「マジですか? 今日もありがとうございます」


 波瑠が苦笑しながら後部座席に乗り込み、咲幸は自動車を走らせた。

 波瑠を送るのは、昨日に続き二日連続だった。今日は、送って貰えることを狙ったかのように見えた。

 とはいえ、学校での咲幸と舞夜の監視を頼んでいるので、無下に出来なかった。倖枝にとって、一応は味方だった。


「さっちゃん、その手袋どう?」

「すっごい温かいよ」

「そう……。流石は月城さん、良いのくれたのね」


 咲幸がどう感じたのか分からないが、倖枝としてはわざとらしい会話を交わしたと思った。

 波瑠への牽制のつもりだった。


 ――咲幸には、もっと相応しい人が居ると思ってるんで。


 波瑠は、咲幸と舞夜の関係が上手くいくことを望んでいない。その意味では、倖枝にとって現在は敵だった。

 倖枝はふと、ルームミラーで後部座席を見た。波瑠は涼しい表情を浮かべ、特に動揺している様子は無かった。

 咲幸が舞夜と再び寄りを戻したことも、咲幸の手袋が何であるのかも、波瑠は知っているはずだ。

 それでいて、何を考えているのか――それが分からぬまま、波瑠を自宅まで送った。


 帰宅するとすぐ、咲幸は風呂に入った。

 その間に、咲幸は夕飯の支度をした。ダイニングテーブルにカセットコンロを置き、鍋に火を着けた。市販のスープが煮立つと、切っておいた具材を入れてさらに煮た。


「うわっ、凄い匂いだね」


 風呂から上がりこの部屋に入ってきたから、なおそう思うのだろう。咲幸は、表情をしかめていた。


「もうすぐ試験だもの。さっちゃんにスタミナつけて貰おうと思ってね!」


 倖枝が用意したのは、豚骨醤油味の鍋だった。普段は滅多に使用しないスープを選んだ。

 豚バラ肉の他、もやしとキャベツとニラ――そして、スープ自体にも含まれているらしいが、さらにニンニクを一個丸ごとすり下ろした。そのせいで、鍋を煮込むと共に悪臭が立ち上っていた。


「まあ、美味しそうではあるんだけど……」


 咲幸が苦笑しながら席につくと、倖枝はコンロの火を弱め、小皿に盛って渡した。


「あれ? 思ったよりはイケるかも」

「そうね。あのラーメン、こんな感じなんだ……。さっちゃんは、食べに行ったことある?」

「ないよ。流石に、あそこはハードル高すぎ」


 スープのパッケージには、有名なラーメンをモデルにしていると書かれていた。倖枝もかろうじて存在を知っているラーメン屋だが、店の雰囲気から女性は入り難かった。


「美味しいんだけど……お腹壊すかも」

「ごめんなさい、さっちゃん! 無理に食べなくてもいいからね!」


 この家庭では、普段からニンニクを大量に食べる機会が無いので、子供の胃には刺激が強かったようだ。

 咲幸のためと張り切ったが、そこまで考えていなかったため、倖枝は反省した。

 とはいえ、ちょうど二等分ぐらいの量を、ふたりで平らげた。締めに乾麺を煮込み、さらにふたりで食べた。

 倖枝としては味の満足感の他、なんだか元気が出たような気がした。


「ありがとう、ママ。なんか目が覚めたから、勉強頑張れるよ」

「どういたしまして。でも、その前に薬あげるから飲みなさい……口臭ケアの」


 満足感を味わった後、口内に残るニンニク臭への背徳感が湧いてきた。間違いなく歯磨きでどうにかなる程度ではなく、口臭対策の錠剤を普段より多めに胃へ送らなければいけなかった。

 倖枝は仕事の鞄から薬を持ってくると、咲幸とふたりで飲んだ。薬が効き、明日の営業職しごとに支障が無いことを願った。


 倖枝が夕飯の片付けをしている間、咲幸はリビングで温かい緑茶を片手に一休みした。倖枝の片付けが終わる頃には、勉強のため自室に入った。

 試験準備期間には、まだ時間がある。しかし、こうして早めに追い込み、料理で応援して良かったと、倖枝は思った。母親らしい行動だった。

 咲幸の勉強の邪魔をしてはいけないため、倖枝はリビングでくつろぐことなく、自室に移った。ベッドに腰掛け、携帯電話で勉強の応援方法を調べた。

 その後、風呂から出て就寝の準備が済んだ頃には、午後十一時を過ぎていた。

 咲幸の部屋からは、まだ光が漏れていた。この時間なので、倖枝は温かいカフェインレスの飲み物を淹れようかと思ったところ――扉が開いた。


「ママ、もう寝る?」

「ええ、そろそろね」

「ねぇ……。寒いから、一緒に寝てもいい?」


 顔を覗き込む咲幸から、訊ねられた。

 寒波の影響で確かに冷え込んでいるので、その理由に倖枝は納得した。だが、それよりも勉強を頑張る娘に褒美を与える意味で、肯定しなければいけないと思った。


「わかったわ。準備してらっしゃい」

「ありがとう!」


 咲幸の意図は理解していた。それでも、バレンタインのデート以来――こうして求められることに、以前ほど嫌悪感は湧かなかった。

 不思議だと思いながらベッドに横になっていると、咲幸が部屋にやって来た。


「前から思ってたんだけど、これ綺麗だよね」


 咲幸は、サイドテーブルに飾っている、ガラス製の天使の置物に触れた。


「……この前行った結婚式で貰ったのよ」


 月城舞夜からのクリスマスプレゼントとは言えるわけもなく、倖枝は適当に嘘をついた。

 その置物はもはや倖枝の日常にすっかり溶け込んでいたが、改めて舞夜の存在を思い出させた。

 脳裏に浮かんだ舞夜の顔から――倖枝の中で、恐怖に似た感情が込み上げた。

 自身の言動に後悔は無かった。しかし、真正面から向き合うには心が押し潰されそうだった。

 だから、倖枝は咲幸を受け入れた。ベッドに入ってきた娘を、抱きしめた。


「ママ? どうしたの?」


 咲幸の望み通りの行動だろうが、これまでの倖枝の態度から、咲幸にしてみれば意外なのだろう。戸惑うのは仕方が無いと、倖枝は思った。


「……なんでもないわ」


 腕の中の温もりが、ただ愛おしかった。

 娘としてなのか、女としてなのか――どちらで接しているのか、倖枝自身わからなかった。

 この少女には格好悪い姿を見られている。この少女は優しくしてくれる。それだけの理由で充分だった。

 年端もいかない自身の娘に『弱さ』を預け、安らぎを得ていた。

 そう――辛い現実と向き合うために。涙を流さないために。


「あはは……。なんか変なの」


 小さく笑う咲幸から、倖枝は乱れた髪を整えられた。髪が退き、ベッドの中で向き合い――目が合った。

 恥ずかしさから目を逸らすが、咲幸に頬を触れられ、逃れられなかった。


「可愛いよ――倖枝」


 倖枝は、大人びた顔に見える娘からキスをされた。唇に柔らかな感触が伝わった。

 やはり、以前に比べ嫌悪感は無かった。それどころか、ぼんやりと微睡むように――嬉しさすら感じていた。


「ママ、やっぱりまだニンニク臭いよ」


 しかし、咲幸に表情をしかめられ、倖枝は我に返った。


「え……ほんと?」


 自分の手を口にやり、息を吹きかけた。手から返った匂いは自分では分からず、倖枝は困惑した。

 その様子を見た咲幸は、けらけらと笑った。


「明日の朝、また薬飲んでね。口の匂いで笑われたら、サユやだよ?」

「そうね……。牛乳も効果的らしいから、温めて飲むわ」


 先ほどまでの雰囲気から打って変わり、ふたりで笑いあった。

 倖枝は笑顔を浮かべたまま、娘と一体何をしたのだろうと、内心では戸惑っていた。焦る様子を悟られたくないため、サイドテーブルのリモコンで部屋の灯りを消した。


「おやすみ、ママ」


 とても冷える夜。行き過ぎた面もあったと倖枝は思ったが、それでも狭いベッドに伝わる娘の温もりは、心地よかった。

 今夜は酒を飲んでいないにも関わらず、ぐっすりと眠れた。万全の精神状態で、明日に臨めた。

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