第083話
十月二十三日、月曜日。
倖枝は朝の支度に自室のクローゼットを開けると、小さなギフトバッグが目に映った。咲幸から隠していた――舞夜への誕生日プレゼントだった。
今日が舞夜の誕生日であることを思い出した。
一晩経って頭は冷えていたが、嫌な気分が込み上げた。それでも、ギフトバッグを持って自宅を出た。自動車の後部座席に置くと、店に向かって走らせた。
昨日は夕方に店へと戻ってからも、舞夜の万引き事件に対し、誰にも話せないまま内心で怒っていた。しかし、時間と共に熱が下がり、就寝の頃にはある悩みが浮かんでいた。
――舞夜の父親である月城舞人に話すか、否か。
そもそも、本来であればコンビニから電話を受けるのも、赴くのも、保護者である舞人の役目だ。受けた電話を舞人に流すことが、本来の正しい対応だったと、倖枝は反省した。
しかし、舞夜が連絡先として倖枝を選んだことも、倖枝が一目散に駆けつけ叱ったことも――ふたりの意図が結果的には合致していたことに、後になって気づいた。
そして、舞夜の動機にも気づいた。自動車を降りる際、おそらく否定するために何かを言おうとした。
そう。ストレス解消からのスリルを求めたのではない。もっと単純な理由で万引きに及んだ。
それらを理解したからこそ、舞人に伝えることを躊躇していた。
舞夜の娘が万引きを働いたことは事実だが、原因には倖枝も少なからず関係しているのだ。正直に話せるはずが無かった。
それに、昨日時点ではまだ、倖枝は舞夜の未成年後見人である。舞人から不動産取引の同意と代理だけを承ったが、体としては『未成年者の監護養育』も含まれる。原因を話せないにしても、舞夜が非行に走ったことについて、責任を問われる可能性があった。
舞人への報告。そして今日、舞夜の誕生日をどうするのか――ふたつのことに悩みながら、倖枝は出勤した。
*
午後八時半。どちらの悩みも晴れないまま、倖枝は一日の仕事を終えた。
店を閉めると、秋の涼しい夜風を受けながら自動車へと向かった。
薄暗い車内で、後部座席のギフトバッグが見えた。
現在も、舞夜に対しての怒りはある。しかし、舞夜のためを思ってこの贈物を用意したことは事実だ。
何も、舞夜の誕生日を盛大に祝わなくてもいい。今日この日に、これを手渡すだけでいい。
――そうでなければ、きっと後悔すると思った。
悩むよりは行動に移す。その気持ちで倖枝は自動車に乗り込み、館へと走った。
暗い森の中、大きな館が静かに佇んでいた。
玄関や部屋に灯りが点いているが、事前に連絡をしていないので、舞夜が居るのか分からない。誕生日なので実家に帰っている可能性もある。
居て欲しいと思いながら、インターホンを押した。
『……はい』
「私よ。ちょっといいかしら?」
インターホン越しに舞夜の声が聞こえ、倖枝は安心した。
門が開くと、自動車を敷地内に駐車し、玄関の扉を開いた。
この時間は家政婦が居ないため、舞夜が出迎えた。チャコールのフード付きワンピースの部屋着に、白い編み込みカーディガンを羽織っていた。そして、長い髪の毛を、ヘアバンドでまとめていた。
「こんばんは。……悪いわね、こんな時間にお邪魔して」
「いいですよ……。上がってください」
舞夜は昨日のように無気力では無かった。だが、昨日の一件を引きずっていることは確かで、どこか居心地が悪そうに倖枝には見えた。
リビングに案内された。舞夜がキッチンに向かおうとしたので、倖枝は呼び止めた。茶を貰う気分では無かった。
舞夜をソファーに座らせ、倖枝も隣に座った。鞄とギフトバッグを、ソファーの隣に置いた。
贈物を渡して帰るつもりだった。しかし、舞夜の様子を見ると、諭さなければいけないと思った。
「十八のお誕生日、おめでとう。これであんたも、
倖枝は言葉にするが、そのような実感が無かった。隣に座るのは、か弱い少女に見えた。
清々したと言わんとばかりの口調に、舞夜は俯いていた。
「これから先……私があんたの人生にどれだけ関われるのか、わからない……。それでも、私の目が届く内は……もしも、あんたが間違ったことをしたら……正してあげる」
倖枝は舞夜をじっと見据えながら――彼女の両手に手を伸ばし、そっと握った。
舞夜が顔を上げた。瞳は潤み、唇が震えていた。
「叱って欲しいなら――回りくどい真似をしないで、素直に言いなさいよ」
舞夜が万引きをした狙いは、それだった。舞人ではなく、わざわざ倖枝に連絡した理由は、それだった。
意図的に、店員に捕まったのだ。
倖枝は思い返すと、擬似的な母娘関係の時、舞夜を叱ったことは無かった。御影歌夜も――あのような性格なら、怒ることはあっても叱ることは無かっただろう。
どうしてかは分からないが、舞夜はきっと、それが欲しかった。だから、未成年で居る内に、実に愚かな真似をした。
「ごめんなさい……」
それが正しいと肯定するように、舞夜はぼろぼろと涙を流した。
倖枝は舞夜を抱きしめ、優しく頭を撫でた。
「私に謝って、どうすんのよ。あんたが誰かに迷惑かけたなら、どこにだって迎えに行ってあげるわよ。だから……私じゃなくて、自分自身を大事にしなさい」
昨日、倖枝は恥をかかされたとは思わなかった。怒ったのは、舞夜が前科の付く可能性のある行動に、軽率に出たからであった。
そして、連絡を受けて、舞人の存在を忘れるほど慌てて駆けつけたことといい――明らかに『母』として立ち回っていた。
舞夜との母娘関係は終わった。舞夜を娘と見ないと決めた。
しかし、舞夜が倖枝に叱責を求めたように、倖枝もまた無意識にそのように動いていた。
「あんたもう、自分で責任取らなきゃいけないのよ? よく考えて、責任ある行動を取りなさいよ?」
ありきたりな言葉だと、倖枝は思った。未成年の頃、そのように言われても、何も響かなかった。
――腹に小さな命を授かるまでは。
だからこそ、この少女には、自分と同じような過ちを犯して欲しくなかった。舞夜に必要な言葉であった。
「はい! わかりました!」
舞夜が涙声で頷くのを聞くと、倖枝は舞夜を離し、ギフトバッグを取り出した。
「わかったなら、結構……。はい、これ――私からの誕生日プレゼントよ」
舞夜はゴシゴシを涙を拭き、倖枝から受け取った。
嗚咽を漏らしながらも、ギフトバッグから暗い金色の小さな化粧箱を取り出した。
化粧箱のリボンを解くと、中にはボールペンが入っていた。
グリップ部分は、真珠を彷彿とさせるクリームがかった白色。そして、クリップ部分は美しいセルロースアセテートの、明るい緑色のストライプ。クリップが特徴的で、まるでペリカンのくちばしのような形状をしていた。
倖枝は舞夜の誕生日プレゼントとして、上品な雰囲気の高級ボールペンを贈った。
「安物のボールペンなんか、欲しがっちゃダメよ? 外で使ってたら、恥ずかしいんだからね」
そう。倖枝が十八歳で働き始めた頃、服装や腕時計等の外観には気を遣ったが、ボールペンは百円のものを使用していた。誰かに笑われたり、注意を受けたりしたわけではない。しかし、周囲と比べそれに気づいた時、倖枝は酷く恥ずかしかった。
倖枝はその経験から、成人を迎えた舞夜に、これを選んだ。この館で契約書に記名する際は、高級そうなものを使用しているのを知っていた。しかし、外ではどうなのか分からなかった。
「ありがとうございます! 大切にします!」
舞夜は化粧箱を両手で抱きしめながら、瞼を強く閉じて泣いていた。昨日の行動をとても反省しているように、倖枝には見えた。
この贈物は偶然にも、安物のボールペンを万引きした行為に対する皮肉となった。『Maya』と名入れされていることから、昨日すぐに用意したのではないと、舞夜も分かるだろうと思った。
「改めて、誕生日おめでとう……。素敵な一年になるといいわね」
倖枝は、泣きじゃくる舞夜の涙を指先で拭いながら、優しく微笑んだ。
――このボールペンのメーカーが、偶然にも御影歌夜の祖国のものであることを、倖枝は知らない。
製品シリーズの名前は『優れもの』を意味する。
そして、芯をノックする天冠部分には、メーカーの印章である『子に餌を与えるペリカン』が描かれていた。
ペリカンは動物の中でも、特に子を大切にすることから『母性』の象徴であることも、倖枝は知らなかった。
しばらくして舞夜が泣き止むと、倖枝は鞄を持って立ち上がった。
本心では、折角の誕生日を祝いたかった。しかし、再び『娘』として見たことを自覚した以上、離れなければいけないと思った。
「それじゃあ、また来るわね。おやすみなさい」
「わざわざ、ありがとうございました。お気をつけて、お帰りください」
ソファーから立ち上がった舞夜から、礼儀正しく――余所余所しいほどに、頭を下げられた。
充分に反省していることを理解して、倖枝は館を出た。
玄関の扉を開けると、暗い森の中、光が眩しかった。
自動車のヘッドライトだった。倖枝の自動車の隣に、一台が駐車しようとしているのが見えた。
街中でよく見る車種だが、ここへ訪れる運転手は、倖枝はひとりしか思い浮かばなかった。
「これはこれは、嬉野さんじゃないですか。こんばんは。こんな所で会うなんて……お久しぶりです」
駐車を終えて、運転席からスーツ姿の男性が降りてきた。やはり、倖枝の思った通りの人物だった。
爽やかな笑顔は相変わらず胡散臭いと、倖枝は思った。露骨に嫌な表情で、会釈した。
「こんばんは。お世話になっております、社長さん……」
帰宅しようとした倖枝の前に、月城舞人が現れた。
(第31章『成人(前)』 完)
次回 第32章『遺産』
倖枝は舞人とバーで酒を飲む。
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