第32章『遺産』

第084話(前)

 自動車から降り、にこやかに歩いてくる月城舞人を、倖枝は玄関の扉から半眼で眺めた。

 ベストまでを含んだグレーのスーツ。ネイビーのネクタイはよく見ると、蜂やハート、星等の小さな模様が散りばめられていた。一流企業の社長ともなると、遊び心のある柄を着こなすのだなと、倖枝は思った。

 折角、舞夜を諭し、ささやかながら誕生日を祝ったというのに――良い気分のまま帰れなかった。嫌な人物と帰りがけに出くわし、倖枝は不快な気分になった。

 おそらく、舞人もまた舞夜の誕生日を祝うために訪れたのだろう。かろうじてだが、時間が重ならなくて幸いだったと、倖枝は前向きに考えた。


「私はこれにて、失礼します……」


 とはいえ、倖枝はもう用件を済ませた。このような場所で、舞人と仕事の話も――まして、娘の誕生日を祝おうとしている足を止めるのは失礼だと理由を作り、立ち去ろうとした。


「ああっ、ちょっと待ってください。すぐに済ませますんで……どうです? 飲みに行きませんか?」


 しかし、すれ違い様に舞人から呼び止められた。

 娘の誕生日を短時間で祝うのは如何なものかと、倖枝は思う。それ以上に、酒を飲みに誘われたことで、身の毛がよだつような感覚に襲われた。


「すいません。娘を待たせていますので」


 倖枝は二つ返事で断ったつもりだった。

 今日は倖枝にとって週末であるため、いつもより帰宅が多少遅れても、咲幸からは怪しまれない。だが、咲幸には何の連絡も無いままやって来たので、早く帰宅しないといけないのは事実だ。夕飯の準備をして待っているだろう。

 丁度いい言い訳があって良かったと、倖枝は思った。


「――舞夜のことで、ちょっとお話がありまして」


 抑揚が上がった、強く、はっきりとした声だった。

 拒否を許さぬ意図と用件から、倖枝は立ち止まらざるを得なかった。

 振り返ると――振り返った舞人から、優しく微笑みかけられた。


「……本当に、ちょっとだけですからね」


 倖枝は念を押し、渋々頷いた。強引に押し通され、結局は逆らえないことに、腹が立っていた。


「ありがとうございます。すぐに追いかけますんで、先にこの店で待っていて貰えませんか? 雰囲気の良い素敵な所で、僕のお気に入りなんですよ」


 それに続いて舞人が指定した店は、あろうことかNACHTであった。倖枝は驚くも、平静を装った。

 おそらく、偶然ではない。お気に入りの店というのも嘘だ。きっと、何らかの方法で行きつけの店を調べ上げたのだろうと、倖枝は思った。生理的な嫌悪感が込み上げた。

 帰りに運転代行の手配をして貰えるという条件を付けられ、頷いた。


 館に入っていく舞人の背中を見送ると、倖枝は自分の自動車に乗り込んだ。

 時刻は午後九時半になろうとしていた。運転席で携帯電話を取り出し、メッセージアプリでまずは咲幸に『ごめん。須藤の社長さんと飲んでくるから、先に夕飯食べておいて』と伝えた。少しの間を置き、了解の旨を示すスタンプが返ってきた。咲幸の気持ちや表情を読み取れないことから、怪しまれている可能性を疑った。

 続いて、寧々との会話欄を開いた。『月城の社長さんと飲みに行くことになっちゃって、さっちゃんの言い訳に寧々さん使わせて貰ったから、何かあったら話合わせておいて』と正直に伝えた後、謝罪のスタンプを送信した。

 間髪入れず『マジで!? 咲幸ちゃんは任せておいて。また今度、話聞かせてね!』と、楽しそうな文面が返ってきた。そのように言われると、倖枝はあまりいい気はしなかった。

 こうしてひとまず、咲幸に手を打った。後になり、舞人と仕事の付き合いで酒を飲みに行くと咲幸に話せば、理解して貰えるだろうかと思った。

 いや、たとえ仕事であろうと――月城の人間と、まして男と酒を飲みに行くのは良く思われない気がした。



   *



 午後十時頃、倖枝はNACHTの扉を開けた。

 世間は平日ということもあり、店内は相変わらず人気が無かった。


「そうね……。ジントニックで」


 倖枝はカウンター席に腰掛けると、バーテンダーの男性に現在の気分で注文した。

 やがて、ライムの飾られたグラスが差し出された。一口飲むと、甘さとライムの酸味、そしてジンの香りから、さっぱりとした味わいだった。

 時間帯から運転中は空腹感を覚えていたが、この薄暗い空間に入ると、忘れていた。


 あれは確か、去年の十一月に入ってすぐだった――もう一年近くになるのだと、倖枝はグラスのライムを揺らしながら思い出した。

 ちょうど右隣の席に、赤いドレスを着た長い黒髪の女性が座っていた。

 まさか娘の同級生だとは思わなかった。それから彼女と疑似的な母娘関係になることも、後見人を任されることも、当時は思いもしなかった。

 倖枝はバーでひとり、懐かしさに浸りながら酒を楽しんだ。週末の夜更けとしては、居心地が良かった。

 当初の目的も忘れ、グラスを空にした頃――扉が開き、月城舞人が姿を現した。


「お待たせしました。……あっ、僕はオールドファッションドで」


 倖枝の左隣に座るなり、そう注文した。

 また凄いものを飲むのだなと倖枝は思いながら、隣の存在に居心地を悪くした。


「嬉野さん、お代わりどうですか?」

「それじゃあ……アドニス」


 倖枝はまだ酔いが回らず冷静だったため、舞人を意識して注文した。

 しばらくして、ロックグラスとカクテルグラスがバーテンダーから差し出された。倖枝はカクテルグラスを受け取った。

 共に琥珀色の飲み物であるが『意味ことば』は正反対であることを、少なくとも倖枝は理解していた。


「娘の誕生日を祝って」


 舞人の言葉で、乾杯した。

 共に舞夜の誕生日を祝うのは構わない。しかし、これでは舞人とまるで夫婦のようだと倖枝は思い、不快だった。あくまでも下座から、舞人の笑みと共にロックグラスの乾杯を受けた。

 この時間なのにも関わらず、舞人の髪はまだオールバックにきちんとセットされていた。几帳面なのだと思った。

 倖枝は、自分の行きつけのバーで男と過ごすのは初めてだった。やはり、いい気がしなかった。入って欲しくない領域にまで、無理やり押し入られた気分だった。


「昨日のこと、娘から聞きました……。ご迷惑をかけて、すいませんでした」


 その謝罪が――舞夜がわざわざ話したことも含め、倖枝は意外だった。

 どの時期に舞夜が話したのか、分からない。この場が謝罪のために設けられたものなら、舞人と館で出会うより以前ということになる。おそらく、昨日の時点で舞夜が律儀に報告したのだろうと、倖枝は思った。


「私こそ……黙っていて、すいませんでした」


 責任追及を恐れて隠していたが、知られてしまっては仕方ないので、倖枝も謝罪した。


「いえいえ。ベストな対応をしてくださり、感謝していますよ。……こっちから特に動かなくて済みましたので」


 舞人がロックグラスに入ったスライスオレンジとスライスレモン、そしてチェリーをマドラーで弄んだ。沈んだ角砂糖を溶かしているようには、倖枝には見えなかった。

 月城という苗字は珍しいと、倖枝は思う。あのコンビニ店員が、万引き犯を月城住建の関係者、まして社長令嬢だと疑わなかったのが幸いだった。実際、どの程度把握していたのか分からない。素直に非を認めて謝罪したが、もしも抗戦の意思を見せていたら――場合によっては、警察への通報より、身分を棚に上げて脅迫じみた要求を出した可能性があり得た。店員の人柄によっては、最初からそうしていた可能性もあり得た。

 そして、そうなっていた場合、舞人は手段を選ばず『月城の汚点』を消しにかかっていただろう。

 倖枝は現在になりそのような想定をし、確かに最善の行動を取ったと安心した。


「娘さんのこと……叱ったんですか?」


 結果としては良かった。しかし、この人物は父親として『原因』を把握しているのだろうかと、倖枝は疑問だった。


「まあ、口頭で注意ぐらいは……。あれももう成人おとなですから、自分の頭で考えられないほどバカじゃないですよ」


 やはり、根本の部分を把握していなかった。おそらく、その気が無いのだろうと倖枝は思った。

 倖枝はカクテルグラスのアドニスを一口飲んだ。シェリーの風味にスイートベルモットの甘みとオレンジビターズの爽やかさが加わり、上品な口当たりだった。

 気持ちを落ち着かせた。


「あの子は、未成年こどもの内に親から叱られたくて……わざとあんなバカな真似をしたんですよ」

「なるほど……。構って欲しかったんですね」

「……そんな感じです」


 倖枝は、承認欲求の類とは少し違う気がした。釈然としないが、他に表現する言葉が浮かばないため、頷いた。

 舞人には舞夜の真意を黙っていようと思っていた。しかし、この場の雰囲気で酒も入ったこともあり、喋っていた。

 いや、彼こそが親権を有している保護者だからこそ、知って欲しかった。


「私はあくまでも後見人でしたので、あの子の教育には口を挟みません。社長さんの仰る通り、娘さんはいい歳ですからね」


 やはり、酒が入っているからだろう。倖枝は遠回しに、舞人を非難した。

 すると、舞人は手持ちの酒を煽った。割とアルコール度数の高いカクテルなので、倖枝は隣で驚いた。


「僕は自分のこと、クズな父親だと思ってます」


 空にしたロックグラスをカウンターテーブルに置き、舞人が微笑んだ。

 まだ飲み干した直後だが、舞人の顔色に変化が無いように倖枝には見えた。しかし、自虐に走り出したことから、悪酔いに警戒した。


「私だって、そりゃ……母親として最悪ですよ」


 倖枝は苛立ちながらも、舞人の欲しいであろう言葉を口にした。

 これに関しては以前から自覚しているので、躊躇は無かった。親としては舞人と同程度か、それより酷いと思う。競う気は無いが。

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