第084話(後)
「へぇ。それじゃあ、お互いの教育論でも語りましょうか――あっ、カルーアミルクください」
舞人が空のロックグラスをバーテンダーに差し出し、お代わりを注文した。
また女々しいものを飲むのだなと、倖枝は嫌悪感が込み上げた。そして、その飲み物の意味を思い出し、さらに強くなった。舞人が知っているのかは分からないが、意図的のように感じた。
「私はただ、娘にはちゃんと大学出て、立派な大人になって欲しい――それだけです。そのためには、お金の不自由だけは絶対にさせません」
倖枝は正直に話した。教育論とは少し違うが、これが倖枝なりの育成方針だった。学の無い自分には、娘に教育を出来ない。放任主義ではあるが、環境面だけは惜しみなく整えることを考えていた。
「あくまでも、娘さんのためだと?」
「当たり前じゃないですか」
娘は自分のようにならないで欲しい。
いや、まともな人生を歩かさなければいけない。義務感の向かう先は、娘の幸せな未来だった。
「それは違いますね」
しかし、舞人からすぐさま否定された。
「
バーテンダーからアイスカフェラテのようなものが入ったロックグラスを受け取り、舞人が断言した。
確かにそれは的を得ていると、倖枝は思った。過程と結果――順番の問題であった。娘が幸せであれば、きっと自分も幸せなのだ。たとえ、エゴを押し付けようとも。
だが、その因果を『見返り』と呼ぶことに、倖枝は釈然としなかった。
「娘に見返りを求めて、何が悪いんですか? 投資してるんですから、何らかの利益があってもいいと思いますけど?」
倖枝はアドニスを飲んで気分を落ち着かせようとするも、舞人の小言に苛立っていた。
「すいません。悪いと言ったつもりは無いんです。そういうやり方もあるんだなというか……倖枝さんの考えが、どちらかというと一般的な家庭に近いですよね」
舞人は苦笑しながら言うが、倖枝には擁護どころか皮肉に聞こえた。倖枝の世帯が一般的な家庭からかけ離れていることを、舞人も知っているはずだ。
「それじゃあ……社長さんは、お子さん達に見返りを求めないんですか?」
「はい。そうですよ」
倖枝は嫌味のつもりで訊ねるが、舞人から笑顔で頷かれた。相変わらずの飄々とした様子に、調子が狂った。
「嬉野さん……僕はね、親父から莫大の財産を受け継いでいるんですよ。それはもう、ドン引きするぐらいに……」
月城の現当主とも言える人物なのだから、想像もつかないほどの資産を所有していることは、倖枝にも想像できた。
恵まれた環境に羨むぐらいだが、舞人の言い方から、重圧を感じているように聞こえた。確かに、責任感は計り知れないほどに大きいだろう。
「僕の代で食い潰すことも可能でした。でも、子供を持った以上は――百を貰ったなら最低限は百のまま次の世代に渡すことが、僕の使命だと思っています」
この場合、責任を果たすということはそうなるのだと、倖枝は納得した。贅沢な暮らしの一方で、とても長い時間その重圧に耐えなければいけないのは、気が遠くなりそうだと思った。
「
完結した、ひとつの理想論であった。まだ現実的であり、素晴らしいとさえ倖枝は思う。
「なるほど……。金持ちらしい考えですね」
しかし、共感できなかった。漏らした皮肉の通り、倖枝が舞人のように莫大な財産を所有していないからであった。
「別に、財産だけじゃありませんよ。子供に与えた愛情や思いやりも……僕に返すぐらいであれば、次の代に与えて欲しいです」
まあ、僕は愛情らしい愛情を与えていませんけどね。舞人はそう付け加え、苦笑した。
これが舞人の
倖枝はそれに対しても、共感できなかった。咲幸の次の代までが、倖枝の頭に無かったからであった。
咲幸が家庭を持つことは、何度も考えたことがある。自分を反面教師として新たな家庭を大切にして欲しいと、何度も願った。
それでも、頭の中での実像は、咲幸とふたりきりの家庭で線引されていた。咲幸とは相互関係で完結していた。
愛情を与えれば愛情が返ってくると思っていた。ずっと続くと思っていた。ずっと続いて欲しいと願っていた。
確かに『見返り』を求めていたと、倖枝はようやく納得した。
そう。いつか現れるであろう咲幸の子供、倖枝にとって孫となる存在は、ふたりに付け入る隙が無かった。倖枝は考えているようで、考えていなかった。
改めて想像するが、遠い未来に孫が誕生したとしても――自分に抱く資格があるのだろうかと、倖枝は思う。やはり、娘と同様に孫に対しても負い目を感じるだろう。
ならば。
「嬉野さんは……自分が死ぬ時のこと、考えたことありますか?」
カルーアミルクを飲みながら、舞人が訊ねた。
「いえ。まだ死ぬつもりは無いんで、そういうのは考えたことないです」
倖枝はまだ三十五という齢であり、毎年受診している健康診断も――どちらかというと健康寄りである。
咲幸を受取人にして一応は生命保険に加入しているが、安心を感じることさえ無かった。死の恐怖はこれまで一度たりとも感じたことは無かった。
「僕はですね、もし現在死んだら何を遺せるんだろうって……いっつも不安なんですよ。結構な頻度で、弁護士に預ける遺書を更新しています」
大企業の社長であれば、生前の財産分与を考えるのは当然である。
しかし、倖枝は――月城舞人という男の『弱さ』を初めて垣間見たような気がした。飄々とした掴みどころの無い男が、現在は小さな背中でカウンター席に座り、酒を飲んでいるように見えた。
「
抽象的だが言動が一貫しているため、倖枝には芯を感じ取れた。
確かに、子供に見返りを求めていない。その分を、子供の未来に宛がっている。ずっと先までを見据えている。
これが正しいのか間違っているのか、倖枝には分からない。
「社長さんは、立派だと思いますよ」
ただ、倖枝はそれが羨ましいため、肯定した。
たったひとりの娘に対して何も出来ない自分と比べれば、同じ放任主義でも舞人が優れているように感じた。
「ありがとうございます」
いつもと変わらない舞人の胡散臭い笑顔が、倖枝はなんだか照れくさそうに見えた。
確かに、舞人の考えを聞いた時は、共感できなかった。しかし、現在――倖枝は咲幸に何を遺せるのだろうと、少なからず思考を巡らせていた。
その答えが浮かぶことは無かった。それよりも、ある疑問が浮かんだ。
「社長さんのその考えだと……娘さんが必ずしも
「ええ。その通りです――兄とふたりで僕と同等、もしくはそれ以上に稼げるなら、ぶっちゃけ手段は問いません」
倖枝の思った通りだった。『財産を受け継ぎ、それをそのまま次の世代に引き渡す』だけならば、過程にこだわる必要は無いのだ。もっとも、それを遂行するためには素直に家業を継ぐのことが、最も楽だろうが。
――わたしは、出来るなら語学を勉強したいです。たぶんこの世界はわたしが思うよりずっと広いんで、見て回りたいです。
倖枝は舞夜の夢を、一度だけ訊いたことがある。だが、それは『稼ぎ』にならない。
「もしも、娘さんが別の
だから、舞夜の夢はもうひとつあるような気がした。
「……その時は、素直に尊重しますよ」
舞人はカルーアミルクを一口飲み、少しの間を置いて――頷いた。
戸惑いがあるように、倖枝には見えた。おそらく、そのようなことを想定したことが無いのだろう。確かに、現実味の無い
「舞夜が何か言ってました?」
「さあ……どうでしょうね」
倖枝は思わせぶりに躱しながら、カクテルグラスを揺らした。
たとえはったりだろうと――いつか訪れるかもしれないその時のため、この場は有耶無耶にしておくのが得策だと判断した。互いに酒が入っているが、ひとまず言質を抑えたことが、倖枝にとって大きな収穫だった。
「でも、あの子はきっと、社長さんから離れないと思いますよ。……優しいんで」
とはいえ、倖枝の目からはそう見えていた。
以前から渋々ながらも継ぐ意思はあり、大学で経営を学ぶために現在も受験勉強に励んでいることを知っている。
そして、舞夜という少女の優しさは、誰よりも理解している自信があった。親を裏切るとは思えなかった。
「だから……
倖枝は舞人の顔を覗き込みながら、にんまりと笑った。
なにが、見返りを求めていない、だ。結局のところ、外堀を埋めて
内心でそのような愚痴を漏らし、美談に少しでも感心したことに倖枝は後悔した。
「ははっ。それはよかったです」
上機嫌に酒を飲む舞人を横目に、倖枝は大きく逸れた話を戻そうとした。
「娘さんが叱られたかったのは、親の愛情に飢えているからじゃないでしょうか。社長さんの教育が間違っているとは思いませんけど……もうちょっと向き合ってあげてはどうでしょう?」
舞夜の万引きに関して詳しい動機は分からないが、倖枝はそのように推察した。
舞人の教育方針は理解できる。しかし、過度の放任主義であると思う。
そもそも、舞夜がそれを理解しているのか疑問であった。理解していたとしても、あのような真似に出たのは、何かが不足していたのだろう。
「そうですね……。ここ最近は一緒に食事をすることも無かったんで、そう言われても仕方ありません。もう成人ですが、父親として意識してみます」
舞夜があの館でひとりで暮らすようになってから、舞人は何度訪れたのだろうか。回数としては自分より少ないのではないかと、倖枝は疑った。
「なんだかんだ言って『彼女』は上手くやってくれてたんだなって……現在になって思います。あまり考えたくはないですが……母親が居ないことが、今回みたいな弊害になったのかもしれませんね」
カウンターテーブルの正面にある酒棚を眺めながら、舞人は漏らした。
御影歌夜のことを言っているのだと、倖枝は理解した。
月城の跡継ぎとして扱うまでは、歌夜が舞夜を他所へ嫁ぐための令嬢として育てていた。彼女も決して『良い母親』ではなかったが、それでも功績は大きかったと、倖枝は思った。
「そうだ――後見人のお役目、ご苦労さまでした。おかげさまで、助かりましたよ」
この流れで後見人の話題を振ってくることが、倖枝にはいやらしく感じた。
「私には、御影さんの代わりは務まりませんでしたよ」
遠回しに、そのように言われていると思った。
倖枝は、舞人から後見人を任された意図が未だに分からない。しかし、その期待も少なからず含まれているような気がした。
「いえいえ。仕事でもプライベートでも、娘と仲良くしてくださって、ありがとうございます。遅くなりましたけど……あのような誕生日プレゼントまで頂いて、とっても喜んでいましたよ」
入れ違いで舞人が誕生日を祝いに訪れた際、舞夜が報告したのだろう。貰ったものを伝えるのは当たり前のことだが、倖枝は恥ずかしかった。
「私こそ、娘さんにはとてもお世話になっていますので」
自分の誕生日にあのような高価なものを貰ったことは、言えなかった。あくまでも、仕事の上客として世話になっている体で頷いた。
「これからも、仲良くしてやってください」
舞人から、舞夜の父親として促された。
かつてこの男から舞夜の未成年後見人を引き受けた時は、別の狙いが有ることを勘ぐった。しかし、こうして終えると、結果的には何も無かったと言える。
それでも、倖枝は拍子抜けしたわけではなかった。
舞夜と距離を置こうと決めた現在――離れるまでは、気が抜けなかった。
そう。舞夜にも、この父娘にも、これ以上深く関わってはいけない。自分の家庭すらままならないのに、他所の家庭事情、まして他人の娘を母親目線で見るなど、あってはならないのだ。
「はい。可能な限りは……」
倖枝はアドニスを飲み干し、当たり障りの無い返事をした。
これからは仕事上の関係として付き合っていこうと、自分に対し念を押した。
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