第085話

 十一月一日、水曜日。

 倖枝は休日を、のんびりと過ごしていた。いや、舞夜の誕生日を祝い、舞人と酒を飲んで以降――どこか、ぼんやりとしていた。

 母親として、咲幸に何を遺せるのだろうか。この思考が頭から離れなかった。

 舞人の教育方針が必ずとも正しいとは限らない。しかし、一理あると納得したのは事実であった。

 倖枝自身は気づいていないが、母親としての逃避、もしくは妥協点としてその思想を選んだに過ぎない。今さら母親として立ち回るよりは、舞人を真似る方が楽なのだ。

 咲幸に遺せるもの――これが見つかれば、母親として最低限の責任を果たせると思っていた。

 だが、そう簡単には見つからなかった。


 倖枝は昼寝から起きると、夕飯の買物と掃除を行い、洗濯物を取り入れた。休日の家事は、ほとんどを倖枝が担当していた。

 それから間もなく日が暮れ、咲幸が帰宅した。帰宅してすぐ、ジョギングに出かけた。

 咲幸は日課のように、毎日走っている。己の心身のためだと倖枝は理解しているが、継続しているのが偉いと思っていた。

 咲幸が走り、帰宅してシャワーで汗を流している間に、倖枝は夕飯の支度をした。今夜は回鍋肉だ。とはいえ、購入してきた素に豚バラ肉とキャベツを加え、炒めるだけだが。

 しばらくして、シャワーを浴びた咲幸がリビングに姿を現し、ふたりで食卓を囲った。


「これ、だいぶ味濃いね。ご飯が超進むよ」


 倖枝はむしろ塩っぱいぐらいだと思っていたが、咲幸には好評だった。若く、かつ汗を流して間もないからだろう。

 茶碗一杯の白米を平らげた咲幸は、悩んだ末にお代わりをした。身体を動かしているので、これぐらいでは悩むほど体格に支障が無いと、倖枝は思った。


 須藤寧々と話を合わせてまで咲幸に嘘をつき、倖枝はあの夜、月城舞人と酒を飲みに行った。運転代行を使用しての帰宅後から現在まで、咲幸から特に疑われることは無かった。倖枝にとっては良いことであるが、同時に後ろめたさが残っていた。

 だから、贖罪のつもりで――それを払拭する意味でも、倖枝はあの思考に頭を抱えていた。


「ねぇ、さっちゃん……」


 HF不動産販売おみせ、欲しい?

 そう訊ねようとしたが、咄嗟に思い留まった。

 咲幸に遺せるものとして真っ先に浮かんだのが、自分の店であった。微々たるものだが資本金を全て倖枝が出資したうえで、起業した。間違いなく自分が事業主だといえる。

 資本金の元手も含め、倖枝の不動産営業職としての経験が全て詰まったのが、HF不動産販売であった。とても小さな店だが、いわば倖枝の誇りとも言うべき存在だ。

 それは同時に――倖枝の人生にとって『負の遺産』でもあった。好き好んでこの仕事を始めたわけではなく、娘とのすれ違いが生じた。

 だから、咲幸には同じ仕事をさせたくなかった。

 出資者として、何もせずとも大きな利益が転がる制度も無い。もしも不慮の事故で倖枝がすぐに亡くなったとしても、咲幸に相続させれば間違いなく苦しめことになる。


「もう十一月ね……。このままだと、あっという間に年が明けそう。……受験、頑張りましょうね」


 倖枝は神妙な表情で話を振ったが、笑顔を作り、当たり障りのない言葉で誤魔化した。


「うん! 頑張るよ!」


 咲幸は白米を掻き込みながら、元気よく頷いた。

 おかしな態度と唐突な話に怪しまれずに済んだと、倖枝は胸を撫で下ろした。


 ――自分が死ぬ時のこと、考えたことありますか?


 確かに、倖枝はそれまで考えたことが無かった。現在、初めて想像した。

 交通事故の被害等、回避不能の事象で突然死ぬ確率は限りなくゼロに近い。しかし、たとえどれほど元気であろうと、決してゼロでは無いのだ。

 その時、残された咲幸に何を遺せるのか――そのように考えると、恐怖が込み上げた。舞人の気持ちが、ようやく理解できたような気がした。


 倖枝は食後、片付けまでを行った。

 済んだ時には咲幸の姿がリビングに無く、自室で勉強をしているのだと思った。

 秋も深まり、夜になると冷え込む。倖枝は咲幸を応援しようと、湯を沸かした。そして、マグカップにティーバッグのルイボスティーを淹れた。ノンカフェインのものだ。

 出涸らしで自分の分を入れている間、マグカップを手に、咲幸の部屋の扉をノックした。


「さっちゃん、お茶淹れたわよ」


 扉を開けると、咲幸はやはり机で勉強をしていた。

 スウェットパンツを履き、キャミソールの上からフード付きのパーカーを羽織るといった格好だった。

 ポニーテールの髪型と、はだけたパーカーの後ろ姿から――耳裏から肩までの首筋が、倖枝の目に留まった。

 それは倖枝に、艶めかしい印象を与えた。


「ママ……ありがとう」


 咲幸は振り返り、倖枝からマグカップを受け取った。

 用が済み、勉強の邪魔をせまいと、倖枝はこのまま部屋を出ていくはずだった。だが、倖枝は椅子に座る咲幸の背後に立った。


「……肩、揉んであげるわね」


 咲幸の両肩に両手を置き、言葉通り揉んだ。

 硬い肩は確かに凝りが酷く、この行動は何らおかしいことでは無かった。


「わぁ……。気持ちいいよ」


 脱力気味な咲幸の声を聞きながら、倖枝はぼんやりと肩を揉んでいた。

 二分ほどした後、茶を淹れているのをふと思い出し、我に返った。


「べ……勉強、頑張ってね」

「うん。ありがとう」


 倖枝は慌てて咲幸の部屋を飛び出し、マグカップからティーバッグを取り出した。

 リビングのソファーに座り、茶を飲んだ。ただでさえ出涸らしなのに長時間放置したこともあり、苦かった。

 倖枝は陰鬱な気分で、己の行動を反省した。



   *



 十一月二日、木曜日。

 倖枝は午前の内、仕事で銀行を訪れた。不動産購入を考える顧客の融資申込書を持参したのであった。

 融資審査部には、前髪をピンで上げた小柄な女性が居た。


「二階堂さん、お世話になっています。これ、受け取ってください」


 二階堂灯はむくりと顔を上げた。眼鏡越しに今日も不機嫌な表情をしていると、倖枝は思った。


「誰かと思えば、店長さんじゃないですか。わざわざ珍しいですね」


 小言を漏らしながら灯は書類を受け取り、中身をざっと確認した。

 倖枝としても、最後にここを訪れたのがいつなのか、思い出せないぐらいであった。顧客から融資申込みを預かることはあるが、夢子もしくは高橋に持って行かせることが多い。


「で――何の用ですか?」


 特に不備は無かったのか、書類を置いた灯から気だるそうに訊ねられた。

 そう。倖枝は申込書を渡すためだけに訪れたわけではない。別の主用があるのだ。


「私も歳ですから、そろそろ資産運用を考えようと思うんですよ。でも、金融資産は全くの素人なんで……良いファイナンシャルプランナーFPさん、紹介して貰えません?」


 咲幸に何が遺せるのか。いくら悩んでも、金銭以外に何も浮かばなかった。

 しかし、昨今の世情を見るに、金銭をそのまま所持しておくのは心許なかった。同等の価値がある何か――金融資産であれば利回りも見込めると思い、相談に訪れたのであった。


「はい? まあ、別に構いませんけど……。というか、春名さんに話したんですか? あの人、確か……元々はFP志望だったんでしょ?」

「え? そうなんですか?」


 倖枝は素直に驚いた。夢子とは長年の付き合いだが、そのような話は初耳だった。

 夢子と同世代であり、仕事外でも付き合いのある灯が知っていても、おかしくはない。


「とはいっても、春名も素人でしょ? 出来ればプロの人がいいんですけど……」


 夢子は自分より頭が良いと、倖枝は思っている。しかし、おそらくFPとしての実績が無いため、そのような話を持ち出すのは少々不安であった。


「そういうことでしたら、考えます……。ただ、そもそも……私も本職ではないんで、意見できる立場じゃありませんけど……今後の資産についてなら、ひとつだけいいですか?」


 倖枝は灯から、呆れるような視線を向けられた。白けたそれは、どうしてここに来たんですか、とでも言われているようだった。

 どうぞと、倖枝は頷いた。


「店長さんの場合、とりあえずお家でも買えばよくないですか?」



(第32章『遺産』 完)


次回 第33章『後押』

倖枝は咲幸に何を遺すのかを考える。

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