第33章『後押』

第086話

 十一月五日、日曜日。

 繁忙日のこの日、HF不動産販売は夢子が物件案内に、高橋は分譲地窓口に、それぞれ朝から出ていた。倖枝ひとりが店の留守番をしていた。


「あの……すいません。ちょっといいですか?」


 午後十一時過ぎ、店に一組の男女――倖枝には若い夫婦のように見えた――が訪れた。

 この時間帯の来店予定は無い。そして、男性のたどたどしい様子から、倖枝は飛び込みの客だと理解した。

 飛び込み客は倖枝の経験上、計画性が無く、冷やかしであることが多い。また、この客は金を持っていないように見え、倖枝としてはあまり嬉しくない案件だった。


「いらっしゃいませ。本日は、どのようなご用件でしょうか?」

「えっと、家を探していまして……」

「かしこまりました。こちらにどうぞ」


 倖枝はふたりを店内の接客スペースに通し、顧客情報用紙とボールペンをテーブルに置いた。


「申し遅れました。私、店長の嬉野と申します。本日はご来店頂き、ありがとうございます。ひとまず、こちらのアンケート用紙にご記入願いたいのですが……先に、ご希望エリアを伺ってもよろしいでしょうか?」


 最低限の情報を聞き出すと、事務所の棚からその地域の物件資料をいくつか取り出し、コピーした。購入可能金額は分からないが、中古物件を多めに選んだ。

 そして、給湯室でインスタントドリップのホットコーヒーを二杯淹れ、テーブルに戻った。


「お待たせいたしました。アンケートにご記入頂き、ありがとうございます。拝見致します」


 倖枝はふたりの正面に座ると、書き終えている用紙を手に取った。


「すいません……。そもそもなんですけど、持家と賃貸はどっちがお得なんですか?」


 用紙に目を落とそうとした時、女性の方から口を挟まれた。

 記入している顧客情報によると、男性の方は三十三歳だった。女性も同年代のように、倖枝の目に映った。質問内容からも、おそらくは新婚の夫婦、もしくは結婚を控えた男女だろう。


「その手の質問につきましては、一概にはお答えできません。選択肢の詳しい内容によって答えが変わってくるため、必ずしも正しいとは言えないからです」


 倖枝は、過去より使い古している回答を口にした。

 この質問は倖枝に限らず――売買、賃貸を問わず、不動産屋ではよく受ける。だから、倖枝は以前勤めていたチェーン店で、新人研修の時より『定型回答』を叩き込まれていた。


「ただ、私個人の意見としましては……持家ですと、お金を払い終えた時点で資産になります。長い目で見ますと、お子様に資産を遺せるのが持家の強みだと思います」


 この夫婦におそらく子供がまだ居ないという体で、倖枝は定型回答を続けた。

 持家と賃貸の比較は、実際どちらも一長一短である。持家を資産として手に入れたとしても、固定資産税や改修費等の維持費は必要となる。また、相続の頃には建物の価値は、減価償却済みであることが多い。

 それでも、不動産売買業者として、嘘でない範囲で利点を告げるしかなかった。顧客に対し『子供』を出せば、揺らぐことが多いのだ。

 この台詞を、倖枝は過去より何度使用してきたのか分からない。笑顔で躊躇なく話すのは、とうに慣れている。

 しかし、現在改めて口にして――倖枝は、胸に何かがつっかえたような気分だった。


「ローンを早く払い終えるためにも、早く買った方がいいって、よく言いますよね」


 男性は、倖枝が用意した物件資料に勝手に触れていた。

 彼の言う通り、それも不動産売買営業の常套句のひとつだ。毎月の賃料を融資の返済に充てるのは間違っていないと、倖枝も思う。

 倖枝は、用紙に書かれた資金と年収の欄に、さり気なく目を落とした。


「ですが……そこまで急く必要はあるのかと、私は思います。基本的には、時間が経つと資金も融資可能額も増えるわけですから……早々と妥協することは無いと思います」


 辛辣ではあるが、この男に必要な言葉を与えた。

 倖枝は、客の買物に対する満足度を、過去よりあまり考えていない。客が欲しいと思うのであれば、不利点をなるべく避けて尊重する。無慈悲ながらも、自分の売上を第一に考えてきた。

 しかし、それは客に購入可能な財力があればの話だ。

 今回、倖枝はその点で足を切った。営業に値しないと考えた。

 もっとも、現実的に生活可能な中古物件を紹介することは可能だ。だが、それを買わせる営業努力や、いくつもの銀行に融資を申し込むこと等――労力に対して割に合わない結果が見えていた。

 倖枝は多忙な身であるため、覚悟が見受けられない客に対し、そこまで親身になれなかった。


「かといって、ずっと貯めて待つのも明らかな損ですので……買い時と言いますか、タイミングの問題ですね」


 苦笑しながら、自分の言葉を擁護した。

 経済面について、もっと厳しい言葉を使うことも可能だが、酷だと思い我慢した。完全に心を折ってはいけない。数年後に再度訪れること、もしくはどちらかの親に援助を求めることを期待した。


「なるほど……。もう少し、考えてみます」


 倖枝の意図を理解したのだろう。男はやや不機嫌そうな表情で、立ち上がった。

 コピーした物件資料を入れた大型封筒を渡し、倖枝はふたりを見送った。

 その後、テーブルを片付けながら、あれでも言い過ぎたと反省した。

 以前であれば、更に言葉を選んでいたと思った。制御できなかったのは、中途半端な気持ちで訪れたことに対し、とても腹を立てていたのだった。

 ――自分もまた、中途半端な気持ちで迷っているのだから。

 顧客情報用紙をシュレッダーに入れるも、倖枝の気分は晴れなかった。



   *



 午後九時、倖枝は仕事から帰宅した。


「おかえり、ママ」


 咲幸が夕飯の支度をして待っていた。今夜はしいたけ、しめじ、エリンギ――きのこ類のしょうゆパスタだった。

 ふたりで夕飯を食べ、倖枝は片付けまでを行った。

 咲幸は、リビングのソファーでテレビを観ながら寛いでいた。今日は日曜日なので、夜は勉強に根詰めず休んでいるのだと、倖枝は思った。

 ホットコーヒーを二杯淹れ、リビングに向かった。咲幸の隣に腰掛けた。


「ねぇ。さっちゃんはさ……もっと広い所で暮らしたいって、思ったことない?」


 倖枝はマグカップを咲幸に渡し、ふと訊ねた。


「え? なに? 引っ越すの?」


 咲幸はきょとんとしながら、マグカップを受け取った。

 確かに、唐突すぎる質問だったと、倖枝は思った。


「引っ越さないわ。もしもの話よ……。マンションじゃなくて、一戸建てのお家に住みたいとは思わない?」

「うーん……。サユは別に、この部屋で全然満足だけど……。広さよりも、駅に近かったりとか、近くにコンビニがあったりとか……そっちの方が大事だよ」


 そのような意図で訊ねたのではない。話が少し噛み合わないが、咲幸に戸建て住宅にこだわりが無いことを、倖枝は理解した。


「ていうかさ……。四人だった時はまだ良かったけど……おじいちゃん居なくなったら、三人でも広かったじゃん」


 かつて、倖枝と咲幸、そして倖枝の両親と四人で暮らしていた時のことを引き合いに出された。倖枝と咲幸は、その生活の方が長い。

 4DKの戸建て住宅は、四人で生活する分には丁度良かった。だが、倖枝の父親が亡くなり三人に減った途端、倖枝も妙に広く感じた。ふたりだと、尚更であろう。


「――まさか、家族が増える、なんてことないよね? もしかして、誰かと結婚するの?」


 咲幸はテーブルにマグカップを置き、倖枝に向き直った。睨みはしないが、訴えかけるような強い瞳で倖枝を見上げた。

 咲幸が質問の意図をこう捉えるのは仕方ないと、倖枝は思った。

 だが、たとえ勘違いだとしても――咲幸から結婚を歓迎されないことが、意外だった。勿論、現在の倖枝は結婚を考えてはいないが。

 いや、もしかすれば時期の問題かもしれない。この時期で結婚となれば、咲幸は相手が月城だと思っているだろう。

 その可能性であると倖枝は納得すると同時、まだ咲幸から月城絡みで警戒されていることが、心苦しかった。僅かながらも拒絶の意思を向けられると、あの時のような陰鬱な気分が込み上げそうになった。

 たとえ冗談だとしても踏み込んではいけない領域なのだと、再確認した。


「違うわよ。そうじゃないの」


 倖枝は流されそうになる感情を食い止め、咲幸に苦笑して見せた。


「正直に話すとね……家を買おうかなって、ちょっと思っただけよ」


 出来れば伏せておきたかったが、ここまで疑われたなら話さざるを得なかった。


 ――店長さんの場合、とりあえずお家でも買えばよくないですか?


 二階堂灯に相談した日、彼女から呆れるように提言され、倖枝は驚いた。

 灯台下暗しだった。不動産を扱う身でありながら、資産価値があるものとして頭に浮かばなかったのだ。客への営業文句を、これまで一度たりとも自分の視点で考えたことが無かった。


「え? 買うの?」


 咲幸は先程までの表情から一変して、ぽかんと驚いていた。

 購入そのものに対しての反応ではないと、倖枝は思う。自動車を購入したばかりであり、さらに不動産をもとななれば――大学受験を控え、学費や今後の生活費等の金銭面で心配されているような気がした。

 これは予想できたことであった。だから、咲幸には伏せていた。

 とはいえ、もしも購入するならば、銀行からの融資を考える。負債ローンの額はわからないが、おそらく学費の出費との両立は可能であり、非現実的な話ではなかった。


「ううん、買わないわよ。さっちゃんの意見を聞いてみたかっただけ」


 倖枝はこの場を一度、水に流した。

 しかし、内心では否定しているわけではない。かといって肯定しているわけでもなく、保留状態だった。口にしたのは、咲幸に余計な心配をかけまいとの気遣いだった。

 ――咲幸に遺すための資産として購入を考えていることは、決して言えなかった。


「そうなんだ……。サユは、ママと一緒に暮らせるなら、どこだっていいよ」


 テーブルからマグカップを取った咲幸から、子供のように無邪気な笑顔を向けられた。

 不動産の購入自体には、まだ迷いがある。だが、母として娘に何も出来ないならば、せめて親として子に何かを遺さねばいけないという気持ちは確かだった。

 いや、倖枝自身は気づいていないが、本心としては購入側に傾いていた。

 咲幸に話したのは――咲幸からの後押が欲しかったことにも、倖枝は気づいていなかった。

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