第087話

 十一月九日、木曜日。

 午前十時になり、倖枝はHF不動産販売を開けた。

 とはいえ、平日のこの時間に来店する客は居ない。狭い事務所でふたりの従業員と共に、休日明けのメール確認を行っていた。


「おっ。あそこの新築、工事終わったみたいです」


 高橋がその報告と共に所在地を言い、倖枝はどの物件かを理解した。やや古い住宅地に、以前から三棟並んだ建売住宅が工事を行っていたのを思い出した。


「そこの近くに中古も売りに出てるから、一緒に写真撮っておいて」


 夢子がパソコンの画面に目を落としたまま、高橋に指示を出した。

 物件情報をウェブサイトに掲載する場合、資料としての写真は自分達で撮影しないといけない。また、実際に現地に足を運び、気づいた点を営業文句として掲載する。

 この手の雑用業務は、三人の中での下っ端である高橋に任せることが多い。


「わかりました。任せてください」

「待って、高橋。それ、私が行くわ」


 しかし、今回は倖枝が名乗り出た。

 夢子は顔を上げ、高橋と驚いた表情を見合わせていた。


「え……。嬉野さん、どうしたんですか?」

「私だって、ほら……新築なんてしばらく見てないしね……。それに、高橋だって最近は忙しいでしょ?」

「まあ、そうですけど……。店長、あざーっす」


 倖枝が新築物件を実際に確かめたいのは本当だった。もっとも、営業のための確認は二の次だが。

 どこか釈然としない様子の夢子と高橋を横目に、倖枝は資料を用意すると店を出た。


 自動車を運転すること、約三十分。

 街外れ――やや古びた家屋が並ぶ住宅地の中、三棟の新築住宅が周辺景色から浮いていた。他所の店のノボリが立っていることも、少なからず関係している。

 倖枝は売主である建築会社に電話し、物件の現地確認の旨を伝えた。境界フェンスの隅にぶら下がっているキーボックスの解錠番号を聞き出した。

 鍵を手にすると、順に建物内へと入っていった。


 建売の新築――その中でも、俗に言う『パワービルダー』のものは、外観と同様に内装も簡素な意匠だった。

 良く言えば、無個性で落ち着きがあり、暮らしやすい。倖枝は過去より、その印象が強かった。

 しかし、もしも自分がこの家屋で実際に生活することを考えると――悪く言えば、安っぽい。床面積が約三十坪の二階建て家屋が、土地付きで約四千万円。買い手にしてみれば魅力的な値段であるが、相応の造りだと思った。外観と内装だけではなく、防音性や断熱性等の機能面も優れているとは言えないだろう。


 倖枝は、久々にこの手の建売住宅を確かめた。

 咲幸に遺すとしても、どうせならば良いものを遺したい。将来の価値に期待できないものを選びたくない。それに、ここでの暮らしの満足感は、きっと現在の賃貸と然程変わらない。

 その二点で否定した後に『客に売るための資料』としての写真を撮影した。

 ここは駅やスーパーマーケットから遠く、立地が悪い。倖枝の所感では、価格以外に褒めるところは見当たらなかった。


 新築の後、夢子に頼まれた中古物件の写真も撮影した。

 築二十年のそれよりは、先程の新築の方が相対的に良く見えた。倖枝は、もしも新築を案内することがあれば、敢えて先にこちら見せようと思った。

 四件の写真撮影を終え、倖枝は店に向けて自動車を走らせた。

 新築の建売には、あまり期待していなかった。それを確認するために、高橋の仕事を奪ったのだった。

 不動産を購入するにしても、選択肢から外れた。ならば、残りは――よほど優れた中古物件、もしくは注文住宅になる。


 店への帰路に舞人から預かっている分譲地があることを思い出し、倖枝は寄った。

 自動車から降り、分譲地の入口から眺めた。八区画中、三つに『成約済』の看板が立っていた。まだ設計中なのか、どれも工事は始まっていなかった。

 ここに在る建物はモデルハウスのみであり、それを含めると残りは半分の四区画となる。そう考えると早く売れていると、倖枝は感じた。

 モデルハウスの外観だけでも、先ほどまで眺めていた建売と、品質が全く違って見えた。価格が倍以上違うので、当然だ。倖枝は素直に良いと感じ、憧れから欲しいと思えた。


 ――それに、最後に販売する現地モデルハウスが、実は一番人気なんですよ。


 モデルハウスが注文住宅に比べ、割安で販売されることを、ふと思い出した。これも、ある意味で『新築の建売』なのだ。

 この分譲地の窓口を代行しているため、最後となる販売開始時期はHF不動産販売が最速で知ることが出来る。理論上、倖枝が絶対に買付を抑えることが可能だ。

 どの程度安くなるのかは分からないが――おそらく、銀行の融資を含め、倖枝が手を出せる範囲での限度額に近いだろう。遺産として申し分ない価値である。

 しかし、そのような条件が揃っているにも関わらず、倖枝は躊躇した。

 月城に関わりたくないという気持ちが大きかった。

 だから、別のハウスメーカーを考え、踵を返して自動車に乗り込んだ。

 このモデルハウスを購入する予算であれば、他所の有名ハウスメーカーで注文住宅を購入出来るかもしれない。相場を調べようと思いながら、倖枝は店に戻った。



   *



 午後七時半。倖枝はパソコンの電源を切ると、鞄を持って席を立った。


「それじゃあ、私は直帰だから……戸締まりよろしくね」

「わかりました、嬉野さん。お疲れさまです」


 ホワイトボードの予定表から『二十時 月城様』を消し、倖枝は店を出た。そして、舞夜の館へと向かった。

 インターホンを鳴らして門を開けて貰い、敷地内に自動車を駐車した。

 倖枝は自動車を降りると、館を見上げた。

 庭の所々に外灯が点くが、舞夜は面倒なのか、点けていなかった。月明かりに照らされた館は薄暗くも、その存在感は立派なものであった。改めて――倖枝には、とても築二十二年の建物とは思えなかった。最近は営業ではなく個人的な目線で物件を見ているが、この館が倖枝の中で最も優れた家屋であった。

 感心しながら、倖枝は館へと入った。


「いらっしゃいませ」


 玄関では部屋着姿の舞夜から、微笑みと共に出迎えられた。

 リビングに案内されると、テーブルにはティーポットとふたつのティーカップの載ったトレイが置かれていた。

 倖枝はそれを見て戸惑うも、舞夜とソファーに並んで座った。


「はい、これ」


 鞄から領収書と物件資料、そして古びた鍵を取り出し、ソファーのふたりの間に置いた。

 今日の昼間、舞夜の後見人として最後に購入した物件の決済を、倖枝は代理人として行った。その際に預かったものを買主である舞夜に渡し、仲介手数料を授受するのが今回の用件だ。


「いつも、ありがとうございます」


 信頼しているのだろう。舞夜は物件資料はおろか、領収書すら確認することなく、テーブル天板下の収納空間に一式を仕舞った。そして、代わりに銀行の封筒を取り出し、倖枝に手渡した。

 仲介手数料の入った封筒を、倖枝は受け取った。

 倖枝もまた、舞夜を信頼していた。これまで金額の過不足が一度も無いため、中身を確かめることなく、そのまま鞄に仕舞った――営業職として、あるまじき行為だが。


 用件が早々と済み、倖枝はもう帰宅したいところであった。しかし、隣の舞夜がティーカップに茶を注いでいるのを見ると、そういうわけにもいかないのだと察した。

 舞夜と距離を置こうとしていた時、舞夜の誕生日にあのような事件が起こった。倖枝は母親目線で舞夜を叱った。

 そう。舞夜を娘のように見てはいけない。それが出来ないのならば、離れるしかない。

 だから、最近は仕事以外の接触はなるべく避けていた。


「上手く淹れることが出来たのか、わかりませんけど……召し上がってください」

「ありがとう。頂くわ」


 倖枝はソーサーごとティーカップを持ち上げた。ワインのように赤い液体と、華やかで甘味のある香りは、ダージリンのオータムフラッシュだ――倖枝は知らないが。甘味の中に渋みも感じたのは淹れ方の問題ではなく、茶葉の特徴である。


「うん。すっごく美味しい」


 世辞ではなく、本音だった。

 これを飲んで早く退散しようとしていたが、紅茶の味、そしてリビングの雰囲気から、倖枝は寛いでいた。


「それはよかったです。家政婦さんから、いろいろ教わったんですよ」


 淹れ方の努力をしたのだろう。まるで、褒められた子供のように――舞夜は無邪気に微笑みながら、自身も紅茶を口にした。

 ふと、テーブルに置かれていたひとつのボールペンが、倖枝の目に留まった。白と緑のそれは、舞夜の誕生日に贈ったものだった。


「それ、書き心地どう?」

「はい! とっても良いですよ!」


 舞夜に満足して貰えているようで、倖枝は安心した。

 あそこまで高級なボールペンに触れたことが無いため、実際どのように違うのか気になっていた。しかし、贈り主として触らせて貰うことは恥ずかしいため、言えずにいた。


「でも、どうせなら家に置いておくんじゃなくて、携帯しなさいよ」


 倖枝は代わりに、そのために与えた旨を、再度伝えた。


高校がっこうでボールペン使うことは、あまり無いですので……」


 確かに、舞夜の言う通りだと思った。咲幸の勉強する姿を見ていても、シャープペンシルの他、赤のボールペンや蛍光マーカーを使用することが多い。

 まだ自宅の方が、使用する機会は多いだろう。


「卒業してから、ちゃんと持ち歩きますよ」


 成人として舞夜が活躍すると倖枝は思うが、具体的な姿までは想像できなかった。

 いや――誕生日の夜、舞人とバーで話したことが、倖枝の頭を遮った。

 そもそも、舞夜の進路はどうなっているのだろうが。舞夜自身は、何を望んでいるのだろうか。

 それが気になるも、倖枝は訊ねられなかった。

 躊躇していると、舞夜がティーカップをテーブルに置き、倖枝の肩にもたれ掛かった。もう風呂に入ったのか、シャンプーの良い香り――シトラスとラベンダーが合わさったもの――が倖枝の鼻をくすぐった。


「……なーんか最近、倖枝さん連れなくないですか?」


 舞夜は顔を見上げないので、どのような表情なのか倖枝は分からない。ただ、ぽつりと呟くような声に、ぎくりとなった。

 露骨に避けていることが、本人にはわかっているようだった。


「だって……受験生は大事な時期でしょ?」


 倖枝は平静を装い、咄嗟に浮かんだ言い訳うそで誤魔化した。

 舞夜は倖枝の肩から身体を起こすと、半眼の視線を倖枝に向けた。


「わたし達、付き合ってるんですよね? お家デートでもいいんですけど……」


 舞夜と別れなければいけない倖枝にとっては『お家デートすら』無理だった。しかし、その話をやはり今日も切り出せずに居た。


「わかったわよ。いつ遊びに来ればいいのよ?」


 倖枝は仕方なく、開き直るように訊ねた。

 降参を受け止めた舞夜は、にんまりと笑った。


「次の月曜日で構いません。お仕事終わってから、ここでディナーにしましょう」


 月曜の夜なら、普段から寧々と飲みに行くことが多いので、咲幸を誤魔化せる。真っ先に浮かんだことがそれであり、倖枝は自己嫌悪が込み上げた。


「りょーかい。……美味しいもの、期待してるからね?」


 しかし、舞夜とふたりで過ごす時間が嫌というわけではなかった。むしろ――

 そう。これはあくまでも、別れるためだ。自然消滅への下準備だ。

 倖枝は、舞夜に微笑む自分自身に、苦しい言い訳を聞かせた。

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