第088話

 十一月十三日、月曜日。

 午後八時半、倖枝は一週間の仕事を終えた。

 気分は複雑だった。

 昨日の時点で、咲幸には寧々と飲みに行くと伝えている。念のため、寧々には月城の社長と飲みに行くからと、咲幸への口裏合わせを頼んでいる。

 ふたりを騙してもなお、これからのことに浮かれていた。

 十一月の夜は冷え込み、ニットのインナーとスーツのジャケットでは肌寒かった。そろそろ上着を用意しようと思いながら、倖枝は館に向けて自動車を走らせた。


「お疲れさまです、倖枝さん」


 館に着くと、舞夜が玄関で出迎えた。

 暗い赤色のブラウスと、ベージュのプリーツスカート。その上から猫のイラストが描かれたグレーのエプロンを纏い、長い髪は結んでいた。


「え……料理してんの?」


 倖枝は、料理自体は家政婦が用意すると勝手に思い込んでいた。だから、舞夜の格好に驚いた。


「しちゃいけませんか?」

「いけないというか、出来ないでしょ?」

「努力は報われるんです!」


 どうせなら、報われてから振る舞って欲しい。倖枝はそう思いながら、ダイニングへと案内された。

 クリームと牛乳の濃厚な香りが漂い、献立を理解した。

 部屋は暖かく、倖枝はスーツのジャケットを脱いだ。六人掛けの広いダイニングテーブルに座った。

 暖色の照明の下、テーブルの真ん中ではガラスのキャンドルホルダーに、小さな火が揺れていた。そして、クルミパンの入ったバスケットが置かれていた。

 ランチョンマットはふたつだけ敷かれ、貸し切りのレストランのようだと倖枝は思った。だが、家庭料理だと強く主張する香りに、現実に引き戻された。


「お待たせしました」


 やがて、ふたつの皿を持った舞夜が現れた。得意げな表情に、倖枝は嫌な予感がした。

 ランチョンマットに、底の深い皿が置かれた。やや茶色がかった白い液体からは湯気が上り、ニンジン、玉ねぎ、そして鶏肉が見えることから――やはり、クリームシチューだった。


「へぇ。意外と美味しそうじゃない」


 見た目と香りは、自宅で普段食べているものと同じだった。だから、市販のルウを使用したと倖枝は思った。


「いただきます」

「さあ、召し上がってください」


 外箱に書かれている通りに料理すれば、よほどのことが無い限り、失敗することは無い。安心した倖枝は香りに腹が鳴り、ランチョンマットに置かれた木製スプーンで手をつけた。

 すくい上げたスプーンの先端に――あり得ないほど小さいジャガイモが載っていた。

 改めて皿を見下ろすが、目視でジャガイモが確認できないことに、倖枝は気づいた。スプーンでようやく認識できたジャガイモは、切断面が見当たらなかった。


「あんた……メークイン使った?」


 小さく切ったというより煮崩れしたのだと、倖枝は察した。いくら料理に疎い倖枝といえど、煮込む料理にばれいしょのジャガイモが不向きとの知識は持っている。


「いえ、特にこだわりはありません。なんだか縮んだとは思ってましたけど……可愛くていいじゃないですか」


 舞夜はエプロンを脱ぎ、髪を解いた。そして、倖枝の正面の席に座ると、にっこりと微笑んだ。


「そういう可愛さは要らないのよ。シチューとかカレーとか作る時は、ジャガイモの品種にこだわりなさい」


 最低限の助言を漏らし、倖枝はスプーンを口に運んだ。

 ジャガイモを食べた気がしないが、クリームシチューの味自体は確かなものであった。


「でも、美味しいわ」


 外が寒かったこと、そして空腹から、スプーンが進んだ。大きさが不揃いのニンジンと鶏肉と共に味わった。

 倖枝は普段、この時間に帰宅しても、どちらかというと食欲は湧かない方であった。珍しく、がっつくように食べていると自覚した。

 咲幸が同じようにクリームシチューを作っても、こうなのだろうか。ふと、そのように思うが、結果は想像できなかった。


「それはよかったです。シチューのお代わりもあるんで、じゃんじゃん食べてください」


 舞夜からパンの入ったバスケットを差し出され、倖枝はひとつ手に取った。

 寒い夜に、温かいものを食べているからだろうか。倖枝は名前を忘れたが――ポトフに似た料理を御影歌夜から振る舞われたことを、思い出した。初めて食べたあの料理は、とても美味しかった。

 そして現在、彼女の娘から手作り料理を振る舞われている。歌夜ほど料理の腕が優れているわけではないが、倖枝にとっては感慨深かった。

 もしも、舞夜が歌夜から料理を教わっていたならば――


「この前ね、誕生日の帰り……あんたのお父さんと、飲んだのよ」


 しかし、歌夜の姿はもうこの国に無い。代わりに倖枝の頭に浮かんだのは、舞人の方だった。

 報告を受けた舞夜は、特に驚く様子も無く、スプーンを動かしていた。この件を舞人から聞いているのかもしれないと、倖枝は思った。


「いきなりだけどさ……お父さんの教育方針、わかってる?」


 倖枝はクルミのパンを手で千切りながら、訊ねた。舞人と酒を飲み交わし、疑問に思ったことだった。


「まあ……理解しているつもりです」


 舞夜はシチューを食べながら、呟くように頷いた。

 特に何かを期待するわけでもなく、淡々とした様子に倖枝は見えた。


「お兄さんと一緒に、お父さんと同じぐらい稼げるなら――あんたは別に、家業いえを継がなくてもいいのよ」


 確かにあの夜、舞人から言質を取った。もしも家業以外の人生を歩むというならば、戸惑いながらも尊重すると舞人は言った。

 倖枝はこの事実を、舞夜に伝えたかった。きっと喜ぶと思っていた。


「……倖枝さんはわたしに、どうして欲しいんですか?」


 しかし、舞夜は一度スプーンを置き、呆れるように苦笑した。倖枝にとっては、予想外の反応だった。


「どうしてって……。あんたにも、夢があるんでしょ? 語学を勉強して世界を見て回りたいって言ってたけど……それ以外に」


 舞夜の下瞼がぴくりと動いた。

 金銭を稼ぐ手段ゆめが別にあるということが、図星なのか――もしくは、以前語った夢を覚えていたことが意外だったのか――倖枝はどちらかだと思った。


「倖枝さんに、わたしの何が分かるんですか?」


 舞夜は嘲笑った。乾いた笑みは、水面下で怒りを抑えているかのようだった。


「……わたしの母親でもないのに、無責任なこと言わないでください」


 そして、そう付け加え、再びスプーンを動かした。つい先程までは淑やかな食事風景だったが、打って変わって乱雑になった。

 心外な言葉を投げられ、倖枝は驚いた。舞夜の母親ではないが――少なからず、傷ついた。

 しかし、それ以上に、無責任だったと反省した。

 これは少女の人生を左右することだ。好きに煽って奮い立たせ、その後に関わらないのは、確かに責任感に欠けると思った。


「ごめんなさい……」


 ぽつりと謝るも、舞夜は気に留めることなく、怒りながら食事をしていた。

 しくじった――こちらに非があることを、倖枝は自覚した。楽しい食事のはずが、このような空気になってしまい、ひどく後悔した。現在すぐにでも、立ち去りたいぐらいであった。

 それでも倖枝は、この居心地の悪い中、シチューを食べ終えた。あれから舞夜と一言も交わしていない。シチューの味がしなかった。


「ごちそうさま。今日はありがとう……」


 倖枝はそっと立ち上がり、なんとか笑顔を作った。

 ジャケットを羽織り、鞄を持ったその時――正面の席の舞夜が、勢いよく立ち上がった。

 倖枝まで近づき倖枝の手を取ると、ダイニングの隣にあるリビングへと引っ張られた。そして、投げられたかのように乱暴に、倖枝はソファーに座らされた。

 姿勢が崩れそうになったので保とうとするが、すぐさま舞夜に押し倒された。


「わたしの方こそ、すいませんでした……。十八になったのに、大人気ない態度を取ってしまって……」


 ばつの悪そうな表情で見下され、倖枝は作ることなく純粋に微笑んだ。

 成人を迎えたとはいえ、高校生である舞夜は、倖枝にとってまだ少女だ。下手に大人ぶることはないと思った。感情的な言動に出ることは仕方ない。


「いいのよ、別に」


 倖枝は諭すように、舞夜の頭をそっと撫でた。

 身体を退いた舞夜は乱れた髪を直すと、倖枝を引き起こした。ソファーに並んで座り、改めて向き合った。


「倖枝さんの言う通り……わたしには、もうひとつ夢があります」


 舞夜は緊張した様子だが、はっきりと口にした。


「でも、すいません……。言えません」


 恥ずかしいからではない。口にすると揺らぐのだと――下唇を噛みしめる舞夜を見て、倖枝は思った。

 聞けないことが残念ではなかった。

 先程は軽率に訊ねたが、ここで知ってしまうと、少なからず責任を負うことになる。舞夜はそれに対し、躊躇しているようだった。


「別に、無理に言うことはないわ。ただね……もうあんまり猶予は無いんだから、後悔の無いように進路を決めなさいよ」


 これでいいんだ。当たり障りの無い台詞を残し、倖枝は立ち上がった。乱れたスーツのジャケットを正すと、早急に去ろうとした。

 ――やはり、舞夜とは距離を置かなければならない。

 気の迷いで食事、まして将来に関わることまで触れるべきではなかったと、倖枝は後悔した。


「お母さん!」


 その言葉と共に、倖枝はスーツの袖を掴まれた。

 振り返ると、ソファーに座ったままの舞夜が、怯えたような表情で見上げていた。

 いや、とても弱々しい藍色の瞳は――懇願していた。


「……おやすみなさい。寒くなってきたんだから、風邪だけはひかないようにね」


 倖枝は少しの間を置き『聞かなかったこと』にして、優しく微笑んだ。

 舞夜から脱力気味に手を離され、倖枝は館を出た。

 ――舞夜からあのように呼ばれたのは、いつ以来だろう。

 自動車に乗り込むや否や、エンジンを点けることなく、髪を掻きむしった。

 見上げた表情が、現在もなお脳裏に焼き付いていた。

 あの幼く見える顔は、間違いなく『娘』としての顔だった。随分久々に見たような気がした。

 そして、舞夜が倖枝に責任を負わせたくなかったわけではないと理解した。むしろ、責任を負って欲しいのだ。

 懇願の意図は、もうひとつのみちに進むための後押を求めていたのだ――母親さちえに。



(第33章『後押』 完)


次回 第34章『矜持』

倖枝はモデルハウスの販売価格を探る。

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