第34章『矜持』

第089話

 十一月十四日、火曜日。

 午後四時を回った頃、倖枝は自宅を出て自動車に乗った。咲幸の学校に向かった。

 学校からやや離れた所に駐車し、咲幸が来るのを車内で待った。

 今週の土曜日が文化祭だと咲幸が言っていたのを、倖枝は思い出した。現在は準備期間となる。学生にとってはきっと楽しい期間だろうが、私立の進学校に於いて、三年生はクラスの出し物は無い。倖枝は可愛そうだと思う反面、学校側の意図に賛成していた。

 よって、この時間に校門から出てくる学生は、三年生が多いことになる。


 倖枝は、舞夜の存在に警戒していた。昨日の一件で――どちらかというと、会いたくなかった。

 母親から自分の夢を後押して欲しい。舞夜の願いを知った現在、どのような表情で会えばいいのか、わからなかった。

 もっとも、舞夜と会っているところを咲幸に見られては絶対にいけないため、その意味でも警戒していたが。

 しばらくして――舞夜の顔を見るより早く、咲幸が姿を現した。

 咲幸の隣には、風見波瑠が居た。久々に彼女を見て、倖枝はその存在を思い出した。怪訝な表情を向けられるが、最早どうでもいいため、相手にしなかった。


「お待たせ、ママ」

「お疲れさま。それじゃあ、行きましょうか」


 咲幸が助手席に乗り込みシートベルトを締めるのを確認すると、倖枝は自動車を走らせた。

 今日はこれから、咲幸の気分転換を兼ね、ショッピングモールで買い物をすることになっている。主に咲幸の衣服であり、外食までを済ませて帰宅する寸法だ。このようなかたちだが、倖枝なりに娘の受験を応援しているつもりだった。

 信号が赤になり、倖枝は自動車を停車させた。

 ふと、視界の隅で、住宅工事が行われているのが見えた。骨組みが行われている一方で、基礎工事済が続いて並んでいることから、一帯の建売販売なのだと理解した。

 成約済みなのか、もしくはモデルハウスなのか――一番端の一棟だけ、既に完成しているようだった。倖枝がこれまでの仕事で散々見てきた、パワービルダー系の安い外観に映った。


「ママ、青になったよ」


 助手席の咲幸からそう言われ、倖枝は慌ててアクセルを踏んだ。


「お家見てたの? 休みの日ぐらい、お仕事忘れたらいいのに」

「ええ……そうね……」


 咲幸の目にはそう映っていたのだと理解し、倖枝は苦笑した。

 あの手の安い建売住宅は、咲幸に遺すべきものではないとして、候補から外していた。しかし、家屋となれば、自然と目で追っていた。以前から仕事柄眺めることは多かったが、さらに注視していた。

 そして現在、咲幸がすぐ隣に居るから――咲幸と共に物件を確かめたことが無いと気づいた。

 咲幸に住宅のこだわりは無い。しかし、実際に新築の一軒家を見せると、どう感じるのだろうか。一度、咲幸をどこかのモデルハウスに連れて行きたいと、倖枝は思った。


 ショッピングモールに到着後、ふたりは衣服の量販店に入った。

 時期として、秋物は割安になると共に規模が縮小し、冬物商品が多く並んでいた。


「わぁ。ママ、これ可愛いよ」


 咲幸はブラウンのサーキュラースカートを手に取った。

 厚い生地なので確かに冬物だが、膝丈ほどの長さなので、倖枝は快く思わなかった。娘がストッキングやタイツを履かないことを知っているからでもある。


「そんなの履いて、風邪ひいたらどうするの? ほら、暖パンあるわよ」


 倖枝は裏起毛のスキニーデニムを指さした。


「えー。サユ、足短いから、そういうの似合わないよ」

「似合う似合わないより、機能性よ。だいたい――」


 お洒落して、デートに行くわけじゃないんだし。倖枝はそのように言いかけたが、口を閉じた。

 受験生だから遊んでいる暇は無いとの意味合いだが、咲幸のかつての恋人である舞夜の存在が頭を過ぎった。


「今年の冬は寒くなるって、天気予報で言ってたんだから」


 毎年のようにテレビのニュース番組で聞いている文言を思い出し、適当に誤魔化した。受験生の咲幸が寒さで体調を崩さぬよう、注意したいのは本心だ。

 ――僅かでも舞夜に関することは、もしくは彷彿とさせることには、とても触れられなかった。


「オシャレな服なら、来年買いましょう。それまで我慢よ」


 大学は制服が無いことを、倖枝は知っている。私服で通うならば、咲幸も現在以上に服装に気を遣うだろうと思った。


「はーい。ダサくても、暖かいのにするよ。……その代わり、サユじゃなくて、ママがオシャレしなよ」


 咲幸は倖枝の顔を覗き込んだ後、店内を見渡した。

 この店は若年向けなので、倖枝の年齢には合わないものが多い。それを理解していないのかもしれないが――別の理由で、倖枝は咲幸を引き留めた。


「ママも、さっちゃんと同じで……さっちゃんの受験が終わるまで、どこにも行かないわよ」


 そう。倖枝もまた、着飾ったところで行く宛ては無いのだ。

 ――舞夜の顔が、再び頭を過った。彼女とはまだ恋人という関係であるため、デートに誘われる可能性が無いとは言い切れない。

 しかし、もしもその時が訪れたとしても断らなければいけないと、倖枝は自分に言い聞かせた。行かないためにも、着飾るための衣服を購入するべきではない。


「えー。折角来たのに、それじゃあつまらないよ」

「ママをマネキンにして、ストレス発散しないの。買い物終わったら、何か美味しいもの食べましょう」

「うん! そうだね!」


 そういう意図だったのかと倖枝は理解し、咲幸を諭した。

 結局、先ほど手に取ったスキニーデニムの他、ニットとカーディガン――そして倖枝は咲幸の反対を押し切り、強引にタイツも購入した。


 衣服の買い物が済み、モール内のレストランエリアへとふたりで歩いた。

 ふと、倖枝は隣の咲幸から手を繋がれた。

 驚きから、倖枝の身体が一瞬震えた。それでも咲幸は手を離さずに居ると、咲幸から強く握られた。


「……荷物、母さんが持ってあげるわよ」

「ううん。サユが持てるから、大丈夫だよ」


 混乱した倖枝から咄嗟に出た言葉が、それだった。

 咲幸は学校用のリュックサックを背負い、さらに購入した衣服を手に持っていた。しかし、断ったうえ、何事も無いように微笑んでいた。

 ――実際、何事も無いのだ。

 母娘で手を繋いで歩くなど、珍しいことではない。過敏に反応したことが、倖枝は恥ずかしかった。

 だが、頭の中は落ち着かなかった。混乱した頭は――過去を思い出させた。

 そう。咲幸は元々、洒落た衣服にこだわることが無かった。舞夜と恋人として交際を始めて、外観に気を配るようになった。

 倖枝もまた、娘と衣服の買い物に来ることは無かった。かつては、咲幸とのデートのために、自分の衣服を新調していた。

 この一年で様々な変化があったと、倖枝は思う。巡り巡って、現在は咲幸の母親で居るつもりだった。

 ようやく、母親としての矜持が芽生えたつもりだった。

 しかし、手を繋がれると、別の意味で意識せざるを得なかった。心が静かに揺らぐのを、感じた。


「へぇ。もうクリスマスだって。……まだ一ヶ月以上も先なのに」


 その言葉と共に、咲幸の視線の先では、雑貨屋がクリスマス商品を陳列していた。


「ちょっと前までは、ハロウィンのムードだったのにね。繋ぎのイベントが無いからって、早すぎよね」


 我に返った倖枝は、相槌を打った。

 いや、我に返ったのも束の間だった。クリスマスから連想することは――去年の、あの出来事だった。倖枝の中に、強烈に印象付いていた。

 今年は無事にクリスマスを過ごすことを出来るのだろうか。

 咲幸の小さな手の温もりを感じながら、倖枝にそのような不安が込み上げた。


 やがて、レストランエリアへと着いた。夕食の時間帯だが、今日は平日のせいか、どこも空いていた。

 牛タンの店を咲幸が選び、ふたりで入った。咲幸は牛タンと牛カルビの定食を、倖枝は牛タンのビーフシチューを、それぞれ注文した。


「結局、今年もハロウィンとは無縁だったなぁ」


 料理を待っている間、咲幸が漏らした。十月の末も受験勉強に励んでいるのを、倖枝は知っている。


「来年からも、大通りのバカ騒ぎは行っちゃダメよ? 危ないんだからね」


 この国でもハロウィンの文化が年々根付いているが、仮装して騒ぐという風習がひとり歩きしていた。若者の街の様子がテレビニュースで紹介されているのを倖枝は観て、暴徒化を恐れた。低俗な事件に巻き込まれる可能性にも危惧し、咲幸を行かせたくないと思っていた。


「そう? 楽しそうだけど……」

「その油断が命取りなのっ」


 倖枝は咲幸を諭すが、来年のハロウィンでは咲幸は十八歳おとなで、順調に進めば大学生に成っている。制約が薄れると共に、自分の言動に責任を持たなければいけない立場だ。

 それでもまだ、倖枝は口を挟まなければいけないと思った。きっと、一年後も咲幸はまだ、か弱い少女こどもなのだろうから。


「あっ、でも……ハロウィンといえば、あそこ行きたいな」


 咲幸は、海外の映画会社が手掛けるテーマパークを口にした。

 ハロウィンの時期は割と凝った催し物があり、テレビ番組でよく紹介されているのを倖枝も知っている。

 それよりも――咲幸が以前にもそのテーマパークを挙げていたことも思い出した。


「そこって、卒業旅行で行くんじゃなかったっけ?」


 倖枝は現在まで忘れていたが、確かそのように言っていた。


「春もハロウィンも行けばいいじゃん! いっそ年間パスでも買って」


 咲幸が笑顔を見せた。

 あまりにも明るいそれが、倖枝に『希望』や『未来』を連想させた。


「年間パス買っても、遠いんだから……卒中行ける所じゃないわよ」


 倖枝も連れられて微笑んだ。

 テーマパークに一年で二度行くことは、バカげているかもしれないが――まだ現実的な範囲であった。母娘で遊びに行く未来を、倖枝は信じてみたかった。

 そのような会話をしていると、注文した料理がやって来た。


 咲幸と復縁して以来、かつてふたりで『過ち』を犯したことには触れていない。笑い話にも出来ない。

 現在の咲幸がどのような気持ちなのか、倖枝には分からない。

 それでも、互いに提示した『条件』を飲んでいる間は母娘で居られる。倖枝はただ、それを守るしか無かった。いや、守らねばならなかった――たとえ、かつての気持ちがまだ完全に消えずとも。

 牛タンのビーフシチューは温かく、濃厚で美味しかった。咲幸もまた、定食を前に満足そうな様子だった。

 倖枝は久々に、母娘で外食を楽しんだ。

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