第35章『母』

第092話

 月城住建のモデルハウスを買おう。倖枝はそう決心するが、問題があった。

 金銭面である。

 一億円の物件を購入する場合――今回はハウスメーカーと直接の取引になるので仲介手数料は不要だが――消費税や諸経費を含め、一億一千万円は用意しなければいけないと、倖枝は見積もった。

 倖枝の財産から現実的に出せる金額は、六千万円が限界だった。特に、咲幸の大学資金は余裕をもって確保しておかなければいけない。

 ならば、不足する五千万円をどうするのか――


 十二月五日、火曜日。

 午前十一時頃、倖枝は地元の地方銀行へと向かった。店内を通り過ぎ、融資審査部の部屋へと入った。

 小柄な女性の席に近づくと、彼女はむくりと顔を上げた。今日も、上げた前髪をピンで留めていた。


「おや、店長さん。……休みなのにお仕事とは、ご苦労さまです」


 倖枝がスーツではなく私服姿だからであろう。二階堂灯は、不動産業界が今日は休日であると理解したようだった。


「いえ、仕事じゃなくてですね……私個人的にお金を借りたいなーと思いまして……とりあえず、仮審査して貰えません?」


 倖枝は緊張しながらも、作り笑いを浮かべた。鞄からクリアファイルに入った書類一式を取り出し、灯に手渡した。

 いつもは顧客にばかり書かせている融資申請書を、まさか自分が記入することになるとは、思いもしなかった。


「へぇ。店長さんも、ついにお家買うんですね――って、あのモデルハウスですか!?」


 すぐに申請書を眺めた灯は、物件資料も併せて事情を理解すると、驚いた。


「横領というか、インサイダー取引というか……大丈夫なんですよね? 外部よそからクレームきません?」


 灯の言う物騒な単語はどちらにも該当しないが、意味合いが近い。倖枝は灯の言いたいことを理解した。

 モデルハウス自体はまだ売りに出ていない。販売価格も独自に入手した、非公開情報だ。それに、モデルハウスは分譲区画が最後になった時点での『早いもの勝ち』だ。

 しかし、倖枝はそれら全てを無視して、窓口代理という立場ながら買付を行おうとしている。現時点では、対抗可能な存在は居ないだろう。人によっては転売目的だと疑うかもしれない行為だ。


「まあ、大丈夫じゃないですかね……。私と月城さんの仲ですから」


 倖枝は、おそらく月城住建側から許されると思っていた。

 確証はないが、根拠としては――分譲地窓口で入手した顧客情報を好き勝手に扱っても、現在は一切咎められていない。

 それに、いざとなれば『月城本家の関係者』を名乗ればいい。あの父娘に思うことはあるが、倖枝は手段を選んでいられなかった。


「なるほど。そう仰るのなら、進めますが――そもそものこと、お分かりですよね?」


 倖枝がこれまで月城絡みの仕事をこなしてきたことを灯は知っているので、ひとまず納得したようだった。

 だが、灯は書類を机に置くと、倖枝を見上げた。

 大きな眼鏡越しに、倖枝は愛憐の視線を向けられた。


「歩合制、自営業、開店してまだ間もない……ローンから程遠い属性を、これでもかってぐらい兼ね揃えていますよね。なんかもう、奇跡的な役満じゃないですか」


 それは、不動産営業職に長年携わっている倖枝自身も自覚していた。

 そう。倖枝の職業も、現在のHF不動産販売の状態も、融資に必要な『安定性』からかけ離れている。毎月の定額返済が可能なのか、銀行側を説得できる材料が無いに等しかった。せめて、HF不動産販売の三年分の業績が必要だ。

 常識的に考えて、倖枝が銀行から住宅購入の融資を受けられるはずが無いのだ。本来であれば、申請を行うこと自体おこがましい。


「いやー、私もそのへんは重々理解してるんですが……。そこをなんとかならないですか?」


 倖枝は感情を抑え、苦笑しながら頭を下げた。本心では、現在この場で涙ながらに土下座したいぐらいだった。

 どの銀行に申請しても、同じように捉えられるのは目に見えている。ならば、最も付き合いの長い地方銀行ここに頼み込むしかないと――藁をも掴む思いで訪れた。


「そうですね。誰か保証人を立てるか……もしくは、HF不動産販売おみせ抵当権たんぽに入れますか?」


 灯からそのように言われ、倖枝は黙った。

 保証人になってくれるような信頼に厚い人物は、周りに居ない。居たとしても、巻き込みたくない。

 店にしても同じだ。いくら自分の所有物とはいえ、ふたりの従業員を個人的な融資に巻き込みたくなかった。

 この状態ならば灯の要求内容が妥当なものであると、倖枝は理解していた。しかし、飲むわけにはいかなかった。手段を選んでいられないと思っていたが、これだけは思い留まらねばならなかった。


「……冗談ですよ」


 重い選択を突き付けた灯が、微笑んだ。

 いつも苛立っている女性の笑顔を、倖枝は初めて見たような気がした。小柄なせいか、実年齢よりもずっと幼く見えた。


「……は?」


 ようやく言葉を理解した倖枝は、口を半開きにした。情けない姿だと思う余裕も無く、素直にあるがままの反応を見せた。


「私と店長さんの仲じゃないですか――私個人的には、信頼してるってことですよ。だいぶ特殊なかたちになると思いますが、なるべく通すように頑張ります」


 確かに、倖枝は灯と仕事での付き合いは長い。だが、この女は『情』から最も遠い存在だと、倖枝は思っていた。冗談を言う人間でもないと思っていた。

 前向きに考えてくれる嬉しさよりも、印象からかけ離れた人間性に、倖枝は戸惑った。


「あっ、三年分じゃなくて、一応五年分用意して貰ってもいいですか? ていうか、こんだけも稼いでたんですね……」


 倖枝は資料として、過去三年分の確定申告書と納税証明書、本年度の給与明細――そして、月次決算で作成したHF不動産販売の貸借対照表を用意していた。

 収入に対する感想を小声で言われ、倖枝は恥ずかしくなると同時、ようやく我に返った。


「わかりました。他に何か要りますか?」

「そうですね……。出来れば、月城さんとの繋がりパイプが証明できるものがあるなら、欲しいですけど……」


 そのようなもので社会的信頼に足りるのだと思い、どこか腑に落ちなかった。

 とはいえ、灯が言葉を詰まらせるように、倖枝としてもすぐに思い浮かばなかった。


「私、本家の長女さんの未成年後見人やってたんですよ……三ヶ月だけですが。選任の審判書と、法定代理人としての売買契約書ならどうです?」


 冷静に考えると、これ以上無いものが在った。この案件を引き受ける代わりに、分譲地の窓口代理という業務提携を行えたのだ。


「え……そんなことまでやってたんですか? 確かにプラスですけど……なんかもう、月城一族の一員じゃないですか……」


 倖枝は、驚くどころか半ば白けている灯から、眼鏡越しに半眼を向けられた。

 そのように思われても仕方ないが、現在は結果的に好材料になっているからか、不思議と後悔は無かった。


「あくまでも、仕事上の付き合いだけですよ。……まあ、それだけ用意するんで、すいませんが、よろしくお願いします」


 倖枝は否定しつつ、改めて頭を下げた。

 灯の対応はとても意外だった。そして、懸念していた点がなんとかなりそうで、あの家が欲しいという気持ちが一層強くなった。

 思えば、確かに灯とは長い付き合いだった。そのような意識は無く、いけ好かない女性だとばかり思っていた。

 舞夜の後見人だったことといい、ろくでもなかった『過程じんせい』に少しでも意味が見出せそうで、感慨深かった。


「はい。一緒に頑張りましょう」


 笑顔の灯に見送られ、倖枝は融資審査部を後にした。

 灯の意外さを談笑として口にしたかったが、少しでも気分を害する真似はやめておこうと、我慢した。



   *



 倖枝は自動車で、銀行からスーパーマーケットに向かった。夕飯の買い物を済ませ、さらにハンバーガー屋に寄った。全国にチェーン展開している中でも、高級寄りな店だ。

 チーズバーガーのセットをふたつ、ドライブスルーで購入した。どちらもサイドメニューにオニオンリング入りのフライドポテトを、そして飲み物は二種のスープをそれぞれ選んだ。

 十二月ということもあり、クリスマス向けフライドチキン予約開始の旨が書かれたノボリが立っていた。それを横目に、自宅への帰路を走った。

 自宅に着いた頃には、午後一時になっていた。


「ママ、おかえり」


 咲幸が倖枝を出迎えた。リビングのソファーで学生服姿で寛いでいることから、まだ帰宅して間もないだろう。


「試験、お疲れさま。ランチ買ってきたわよ」


 倖枝はダイニングテーブルにハンバーガー屋の袋を置き、スーパーマーケットで買い物した分を冷蔵庫に仕舞った。

 咲幸は今日から今週一杯、二学期の期末試験だった。この時間には帰宅することを知っていたため、倖枝は二食分の昼食を購入した。


「わぁ、ありがとう。ちょうど、チャーハン作ろうか悩んでいたところだったよ」

「ギリギリ間に合ってよかったわ。コーンスープとクラムチャウダー、どっちがいい?」

「うーん……それじゃあ、コーンスープで。あそこのクラムチャウダー、塩っぱいだけであんまり美味しくないから」

「もうっ、そういうこと言わないでよ」


 倖枝はジャンパーを脱いで手洗いうがいを済ませると、ダイニングテーブルの咲幸の正面に座った。

 袋からそれぞれの食べ物を取り出し、テーブルに広げた。スープはまだ温かかった。

 咲幸とふたりでハンバーガーを食べた。ジャンクフードにしては高級なだけあり、パティは肉厚で脂身がある。そして、瑞々しいスライストマトとソースの相性も良いため、美味しかった。


「今日の教科ぶん、手応えあったよ」

「ほんと? やるじゃない」


 倖枝は詳しく知らないが、学校の定期試験と大学入学試験は全く違うらしい。そのため、定期試験は捨てさせて受験勉強に集中させる保護者も居ると聞いた。受験勉強のため学校を休ませることも、珍しくはない。受験生にとってこの時期になると、推薦入試を除き、学校の内申は重要ではないのだ。

 しかし、倖枝が口を挟まずとも、咲幸は学校の定期試験に真面目に取り組んでいた。勿論、学校を休むことも無い。

 その傾向が、倖枝は嬉しかった。どのような試験であれ、良い成績を残すことに越したことはない。


「ママはどこか行ってたの?」


 買い物にしては、おかしな時間に帰宅したと思ったのだろう。咲幸は首を傾げていた。


「……テレビ観てたら、出るのちょっと遅くなっちゃって」


 倖枝は苦笑しながら、適当な嘘で誤魔化した。

 住宅購入のため融資審査の申請に銀行まで行ったとは、言えなかった。

 灯が前向きに進めてくれるというだけで、まだ融資が正式に決定したわけではない。この場で全てを打ち明けて、咲幸をぬか喜びさせたくなかった。

 話すのは、確かな結果を得てからだ。


「これ……本当にさっちゃんの言う通りね」


 ハンバーガーを置いてクラムチャウダーを飲んだ。確かに、塩っぱく感じた。

 いや、咲幸に言われたから意識しているだけで、言われなければ美味しく飲めたかもしれない。


「でしょ? 今度から、やめといた方がいいよ」


 咲幸は笑いながら、美味しそうにコーンスープを飲んでいた。

 倖枝にはそれも塩っぱそうに思えたが、口にはしなかった。


 倖枝は昼食の簡単な片付けを済ませ、一段落ついた。

 咲幸は少し昼寝をすると言い、自室に入った。眠いので同じく昼寝をしようと、倖枝も自室に入った。

 ベッドに腰掛けると、サイドテーブルにある天使の置物が目に映った。去年のクリスマスに、舞夜から貰ったものだ。

 今年もクリスマスが近いのだと思いながら、ベッドに横になった。


 あのモデルハウスが咲幸へのクリスマスプレゼントになれば理想だが、時間としてまず間に合わない。良くて、高校の卒業祝いと大学の入学祝いになるだろう。

 それならば、今年のクリスマスプレゼントは咲幸に何を贈ろうかと考えた。


 そもそも、去年は何を贈ったのか――倖枝は思い返すが、舞夜の影が脳裏に浮かぶだけで、肝心の贈り物には辿り着かなかった。うとうとと、眠気に誘われた。

 舞夜と一緒に贈り物を選んだせいか、彼女の影が浮かんでいたのであった。

 倖枝は遠ざかる意識の中――舞夜にも贈り物を用意しなければいけないと、ぼんやりと思った。

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