第093話

 十二月七日、木曜日。

 HF不動産販売の仕事を終えた倖枝は、午後八時頃、舞夜の館に寄った。


「はい。ここにサインお願い」


 以前に買付を行った、六百八十万円の上物付き土地――その売買契約書に記名押印を貰うため、訪れた。

 舞夜は早々と済ませ、倖枝に手渡した。


「ところで、倖枝さん……あのモデルハウスの件、どうなりました?」


 倖枝は契約書をクリアファイルに入れていると、ソファーで隣に座る舞夜から訊ねられた。

 舞夜から値段を教わったのだから、その後の進展が気になるのは仕方ないだろうと思った。


「どうって……買うことにしたわ。あの値段、嘘じゃないでしょうね?」


 隠すことでもないので、倖枝はクリアファイルを鞄に仕舞いながら、淡々と答えた。


「嘘ついてどうするんですか……。安心してください、本当です。それよりも、買付はしたんですか?」

「今ローンの仮審査受けてるところだから、それ終わってからよ」

「へぇ。倖枝さんの場合、ローン通るかも難しそうですよね。わたしが貸しましょうか?」


 その手があったかと倖枝は思い、ソファーに浅く腰掛けた。現在こうして言われるまで、一切思い浮かばなかった。

 舞夜のことだから銀行とは違い、無利子で貸してくれるだろう。そして、審査も無く確実だ。


「ありがとうね。気持ちは嬉しいけど、結構よ。……身内の貸し借りは、トラブルの元だから」


 舞夜を身内と呼ぶことに違和感があるが、倖枝は断った。

 当事者間で借用書を作成したとして、公正証書でないのだから法的効力は無い。もし裁判沙汰になった場合、有利な証拠となる程度だ。

 いざこざになった場合を考えると、公的機関を利用する方が安全だった。


「あんたのこと、信用してないわけじゃないからね……。銀行も、思ってた以上に頑張ってくれていて、何とかなりそうなのよ」


 倖枝は苦笑しながら、擁護した。

 舞夜とは――金銭面であろうと、繋がりを持ちたくないだけであった。


「そうですか……。それはよかったですね」


 舞夜は小さく微笑んだ。

 どこか残念そうな表情のように、倖枝には見えた。

 その様子が、倖枝にとっても辛かった。もう用件は済んだのだから、この場から立ち去ろうとした。

 ソファーから立ち上がると――舞夜から手を掴まれた。


「あんな安物のモデルハウス、どうでもいいじゃないですか……。それよりも……この館、要りませんか?」


 倖枝は振り返ると、舞夜が引きつった笑みを浮かべていた。


「倖枝さんと、咲幸と、わたしで……三人で、ここで暮らしましょうよ」


 藍色の瞳が、ひどく怯えていた。

 暗くもあり明るくもある――その狭間に位置する色であることを、あの峠で見た空を、倖枝に思い出させた。

 現在まさに、どちらかに傾こうとしているのだ。

 倖枝は立ったまま、ソファーに座る舞夜をそっと抱きしめた。

 もしも、舞夜と咲幸の仲を引き裂かなければ、舞夜の言う理想は叶ったのだろうか。倖枝はそのように考えるが、すぐに否定した。


「ごめんなさい……。それは出来ないの……」


 必ず引き裂いていた。必ずどちらかに嫉妬していた。

 自分のような弱い女は、ふたりの母親に成れないのだ。せめて、ひとりが限界だ。

 ロジーナ・レッカーマウル。美食家の魔女を自称したこの少女は、物語通り『ふたり』を狙うも、物語通りどちらも逃した。


「私の都合であんたを巻き込んで、悪いと思ってるわ。本当に、ごめんなさい……」


 咲幸との仲を引き裂いただけではない。倖枝は『弱さ』の受け皿として舞夜を選んだ。短い間だが、恋人として交際した。

 そして、用が済めば切り捨てようとしている。

 実に自分勝手であり、どれほど謝罪しても決して許されない行為だと、倖枝は自覚していた。懺悔と共に、舞夜を強く抱きしめた。


「いいんですよ……。倖枝さんが元気なら、わたしは嬉しいです」


 舞夜を離すと――少女は涙を流しながら、無邪気に微笑んでいた。

 それは倖枝の罪悪感を掻き立てると同時に『母性』を呼び起こした。久々に見た幼い顔つきは、確かに『娘』のものだった。


「私達、ちょっと距離を置きましょう……。酷なこと言うようだけど、仕事は付き合うから」


 耐えきれなくなった倖枝は、以前から言おうとしていたことを、ようやく口にした。

 一度離れると、もう以前のように戻れないだろう。事実上、離別の宣告だった。


「わかりました――でも、最後にひとつだけ、お願い聞いて貰えませんか?」


 倖枝は舞夜が取り乱すと思っていたが、泣きながらも冷静な様子だった。だからこそ、離別の条件を突きつけてきたのだと理解した。


「クリスマス、一緒に過ごしてください。ほら……去年は倖枝さん、結婚式に行って無理だったじゃないですか」


 舞夜はおかしそうに苦笑していた。

 逃げ場を塞がれたと、倖枝は思った。昨年のことを棚に上げられては、とても断れない。

 しかし、その条件さえ飲めば後腐れ無く『最後おわり』を迎えられる。これまでの舞夜との付き合いから、それは間違いないだろう。


「わかったわ。クリスマス、楽しみにしてるわね」


 倖枝は最後だということには触れず、世辞を含めて頷いた。心苦しいが、当日は我慢して過ごすしかない。


「わたしもです。詳しいことは、また連絡しますね」


 舞夜はまだ涙が止まらなかった。涙で乱れた顔で、無邪気に笑って見せた。

 その涙を、倖枝は拭えなかった。



   *



 十二月十一日、月曜日。

 午後四時過ぎ、HF不動産販売の電話が鳴り、夢子が自分の机で受け応えた。


「はい、HF不動産販売です……って、二階堂さんじゃないですか。え? 嬉野さん? ちょっと待ってください」


 給湯室で一服していた倖枝はその声が聞こえたため、電子タバコの電源を切ると、店内に戻った。

 自分の机で受話器を持ち上げ、保留を解除した。


「お待たせしました、嬉野です」

『あっ、店長さんですか? とりあえず、仮審査は通りました』


 受話器越しに、二階堂灯の明るい声が聞こえた。以前見た彼女の笑顔が、自然と脳裏に浮かび上がった。

 仮審査を申し込んでから、約一週間。実に嬉しい知らせが舞い込んだ。


「マジですか!? ありがとうございます!」

『買うのがいつになるか分かりませんけど――是非とも弊社をよろしくお願いします』

「はい! そのつもりです!」


 倖枝も気持ちが高まり、つい声の抑揚が上がっていた。自分の表情が緩んでいることに、気づかなかった。

 受話器を置くと、夢子から眠たげな瞳で、しかし物珍しそうな視線を向けられていた。


「あの人、妙にウキウキしてましたけど……何かあったんですか?」


 普段から灯と仲の良い夢子も、あの様子には驚いているようだった。


「ん? ちょっと、ローン通りにくい客を紹介したからね……。通すことが出来て、喜んでるんでしょ」


 倖枝はまだ、あのモデルハウスを購入することを、夢子に言えずにいた。

 融資の仮審査を通過して本審査で落ちることは、滅多に無い。金銭面の問題は片付いたと思っていい。

 あとは、分譲地の七区画が売れた時点で買付を行う、もしくは事情を話して事前に抑えるかだ。現実的に手に入る確証を、倖枝は得た。

 だから、この事実を夢子よりも先に――まず初めに伝えたい人物が居た。


「えー。あの人、そんな性格キャラじゃないと思うんですよねぇ」

「腕は良いんだから、そうやってバカにしてると、いつか相手にして貰えなくなるわよ?」

「いいんですよ。これが、私と二階堂さんの間柄なんですから……。まあ、でも……腕が良いのは本当ですけどね」


 倖枝は喜ぶ気持ちを抑えながら、遠慮なく漏らしている夢子に対し、苦笑した。

 心なしか、眠たげな様子ながら夢子も喜んでいるような――まるで自分のことのように、誇らしげに見えた。


 十二月十三日、水曜日。

 休日の倖枝は自宅で寛いでいた。

 午後一時頃、咲幸が学校から帰宅した。この日の授業は午前のみだった。


「さっちゃん、おかえり。ねぇ、今からランチ食べに行かない? 母さん、パスタ食べたくて……」

「うん。いいね」


 倖枝は、以前からテレビ番組の放送広告で目にしていた、チェーン店のスープパスタが食べたかった。

 学生服姿の咲幸を自動車に乗せ、黄色い看板のパスタ屋へと向かった。

 倖枝はカニをはじめとしたブイヤベース仕立てのものを、咲幸は牡蠣クリームとチーズのものを、それぞれ食べた。

 ドリンクバーで食後のコーヒーまでを飲み、店を出た。しかし、倖枝は自動車を自宅までの帰路ではなく、別の道を走った。


「あれ? 買い物して帰るの?」

「ううん……。ちょっと、さっちゃんに見せたいものがあって……」


 パスタを食べたかったのは本当だ。しかし、それは咲幸を連れ出すための口実であり、倖枝の主用はこちらであった。

 しばらくして、HF不動産販売が窓口を代行している、月城住建の分譲地へと着いた。


「……ここは?」


 ふたりで自動車を降りると、咲幸が分譲地を見渡した。

 月城住建のノボリが立つと共に、案内所のプレハブ小屋には倖枝の店の名前が書かれている。およその状況を理解しているだろうが、咲幸の表情がどこか疑念を持っているように、倖枝には見えた。


「母さんがお仕事で、月城さんから預かっている分譲地よ。……こっちに来て」


 咲幸が月城を快く思っていないことを、倖枝は知っている。敢えて何も言わず、モデルハウスまで咲幸の手を引いた。

 咲幸は特に拒むことなく、強張ったままの表情で連れられた。

 休日前に高橋から預かった鍵で、倖枝はモデルハウスの扉を開けた。


「わぁ……」


 玄関を見ただけで、咲幸の表情が緩んだ。

 ふたり共スリッパに履き替え、一階のリビング、キッチン、風呂を順に眺めた。それらを見た咲幸の表情は、良い意味で驚いていた。

 そして、二階へと上がった。

 一番広い八畳の部屋は、ベッドと机の他、さらにテーブルと大型テレビとドレッサーまで置ける余裕があった。ウォークインクローゼットまでも備わっている。


「ここ……さっちゃんの部屋にするといいわ」


 倖枝は咲幸の背後に立ち、咲幸の肩に手を置いた。

 どういうこと――そう言わんばかりに、咲幸が振り返り倖枝を見上げた。


「母さんね、この家買おうと思ってるの。さっちゃんの大学の授業料も払えるから、そこは安心して」


 倖枝はようやく決意を告げると共に、背後から咲幸をそっと抱きしめた。


「さっちゃんが月城さんを良いように思ってないって、知ってるわ。でもね……家の品質だけは、この国でトップクラスなの。私は、良い家が欲しいのよ。だから、さっちゃんもそこは分けて考えて」


 咲幸への遺産として、家を購入する。

 本意だけは言えなかった。それを免罪符いいわけにするのは卑怯だと、倖枝は思った。


「この家で……改めて、母娘としてやり直しましょう。ちゃんと、さっちゃんの『母さん』で居させて……」


 咲幸と広い家で暮らしたいと思っていることもまた、本意であった。

 夏に一度は崩れた母娘関係だが、現在は上手くいっている。それを一層、強めたかった。母親としての覚悟を見せたかった。

 いざ口にすると、瞳に涙が込み上げた。こぼれるのを我慢して、咲幸を強く抱きしめた。


「ありがとう、ママ……。正直驚いてるけど、すっごく嬉しいよ」


 咲幸は倖枝を見上げながら、小さく苦笑した。


「……本当に、この部屋サユが使っていいの?」

「ええ、いいわよ。……モデルハウスだけど家具は付いてこないから、買い直さなきゃだけどね」

「……この家から、大学に通ってもいいの?」

「勿論よ。これだけ広ければ、お友達も呼べるわね」


 母娘ふたりで、未来を語り合った。

 かつては、春になればテーマパークに一緒に行こうと約束した。それよりも現実からの距離は近く、そして大きな希望だった。もうすぐ確実に掴めるのだ。

 咲幸は微笑みながら、涙を流した。


「ちょっと、さっちゃん――受験終わってないんだから、まだ早いわよ」

「ママこそ、泣くのは早いよ」


 娘に連れられだろうか。倖枝もまた、堪えきれずに涙を流していた。

 ふたりで泣きながらも、おかしそうに笑いあった。


「さっちゃんの卒業祝いと入学祝いになるんだから……頑張りましょう」

「えー。そう言われると、プレッシャー半端ないんだけど……。でも、頑張るよ」


 倖枝が決意を固めたように、咲幸も強く頷いた。

 きっと現実になる。倖枝は確かな手応えを感じた。

 これから季節は寒くなるが、暖かくなる頃には――春は明るく、希望に満ち溢れている予感がした。


 かつては購入を悩みこそしたが、倖枝はこうして咲幸に決意を打ち明けた。

 資金面は問題無い。あとは――実際に購入するだけだ。


 最後の工程を控え、倖枝は何故か胸騒ぎがした。間違いなく購入できるとわかっているのに、どうしてか拭いきれなかった。

 正体のわからない不安が、倖枝の中に留まった。

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