第094話

 準備は整った。あとは、モデルハウスを実際に購入するだけだ。

 正規の手続きならば、分譲地の注文住宅分が全て売れた時点で買付を行う。先着順であり、窓口代理の倖枝が間違いなく抑えられる。しかし、絶対の保証が無い以上、倖枝は不安であった。

 だから、他に狙っている客が居るなら、彼らには申し訳ないが――事前に買付を申し出ることにした。


 十二月十四日、木曜日。

 午後三時。夢子と高橋が店から出払っているこの機会に、倖枝は電話の受話器を取った。

 分譲地代理の業務は全て高橋に一任しているため、月城住建の担当が誰なのか、倖枝は知らない。もし知っていたとしても、その人物に連絡はしない。このような『非正規うら』の話を持ちかけたところで、受け入れて貰えないと思った。

 倖枝は緊張しながら、月城住建本社の電話番号を入力した。機械音声の案内に従い、さらに番号を押した。


『はい。月城住建でございます』

「失礼致します。私、HF不動産販売の店長、嬉野と申します。月城舞人様にお繋ぎ頂けないでしょうか?」


 ようやく繋がると、倖枝は淑やかな女性の声に対し、可能な限り丁寧に用件を伝えた。

 こちらから、初めて舞人に接触を試みた。名刺を貰っているが、携帯電話の番号は書かれていなかった。


『……かしこまりました。少々お待ちくださいませ』


 少しの間を置き、保留音に切り替わった。

 月城住建内でHF不動産販売がどのような扱いであるのか、倖枝は知らない。社長に繋いで貰えることから、何らかの意味で名前は通っているのだろうと思った。


『もしもし。嬉野さんからかけてくるなんて、珍しいですねぇ。どうかしましたか?』


 しばらくして、受話器越しに舞人の明るい声が聞こえた。倖枝の脳裏に胡散臭い笑顔が浮かび、少し苛立った。


「お久しぶりです、社長さん。あのー……分譲地の件で、少しお話がありまして……。新しく買付が入ったとかトラブルがあったとか、仕事のことじゃないんですけど……。私個人的なお話です」


 倖枝は喋りながら、このような大事な話を電話で済ませていいのかと、ふと思った。

 嫌な相手ではあるが、直に頭を下げなければいけない案件だ。しかし、どうすればいいのか悩んだまま、歯切れの悪い物言いとなった。


『なるほど。そういうことでしたら、今度食事でもどうですか?』


 舞人からかろうじて汲んで貰えたのは助かったが、食事となれば倖枝は良い気がしなかった。以前酒を飲んだことで、調子に乗っているように感じた。


「わ、わぁ……。いいですね、お食事」


 だが、倖枝は電話越しに引きつった笑みで頷いた。こうして機会を得たのだから、断れなかった。


『そうですね……。それじゃあ二十四日の日曜日……クリスマスにディナーなんてどうでしょう?』


 意外な提案に、倖枝は瞳が大きく見開いた。

 舞人とクリスマスに食事をするなど、身の毛がよだつほどの嫌悪感が込み上げるはずだった。しかし、それよりも舞夜との約束に重なったことで、倖枝は何も言えずに居た。


『折角なんで、舞夜と三人で構いませんか? 舞夜に聞かれたくない話でしたら、ふたりの席にしますけど……』


 そして、舞人の口から舞夜の名前が出たことで、確信を得た。わざとらしい言い回しも、さらに強めることになった。

 あの日、涙ながらにクリスマスを一緒に過ごしたいと求められた時から――いや、それより前、モデルハウスの価格を訊ねた時から、きっと舞夜は何らかの計画を立てているのだ。

 約束通り、モデルハウスの件を舞人に伏せていると倖枝は思う。だが、それとは別に、舞人を駒として利用しているのだろう。


「ええ。三人で大丈夫ですよ」


 倖枝には、舞夜の狙いが分からないが、クリスマスを一緒に過ごすと約束していた――たとえ、舞人も混じることになろうとも。

 何にせよこれで最後なのだから、頷くしかなかった。


『ありがとうございます。それでは、午後八時に……そうですね、舞夜の館にいらしてください』

「わかりました。楽しみにしています。……それでは、失礼します」


 日時と場所の確認をして、倖枝は通話を切った。

 やられたと思い、頭を抱えた。場所までも示し合わされていた。

 買付まで上手くいくのか、頭の隅では不安があった。これが、以前感じた胸騒ぎの正体だった。

 しかし、当日に何があろうとも、こちらはモデルハウスを抑えるだけだ。舞人には断る理由が無いのだから、これで丸く収まるはずだと――倖枝は信じていた。



   *



 十二月二十四日、日曜日。

 その日も倖枝は午前七時半に起き、寒さに震えながらも、仕事に出る支度をした。年内の仕事は明日までであった。


「ママ、おはよう」


 午前九時を回った頃、咲幸が起きてきた。冬休みであろうとこの時間まで寝ているのは珍しいことであり、昨晩は遅くまで勉強したのだと倖枝は思っていた。

 咲幸が予備校の冬期講習に行くまでは、まだ時間がある。わざわざ出勤を見送るためだけに起きたことが、嬉しかった。


「おはよう。……これ、クリスマスプレゼントよ」


 リビングのテーブルに置いて出ようとしたが、起きてきたので、倖枝は咲幸に小包を直接手渡した。


「わぁ、ありがとう。開けていい?」

「いいわよ」


 赤色のクリスマス仕様の包装紙を剥がすと、製品の外箱が見えた。

 充電式のカイロであった。モバイルバッテリーとしての機能も備えている。

 発熱時間は使い捨てカイロに比べ、遥かに劣る。しかし、これから更に冷え込む中、勉強でかじかむ手を温めて欲しいという願いを込めて贈った。


「可愛いし、いい感じじゃん! 大事にするね!」


 咲幸は外箱から製品を取り出した。ピンク色の丸みの帯びたものを、嬉しそうに掲げて見せた。


「気に入って貰えて、よかったわ。早速使ってもいいわよ。それじゃあ、母さんそろそろ出るけど……今夜はごめんなさいね」


 月城住建の家を買うことは伝えたが、月城の父娘と食事をすることを、倖枝は言えなかった。

 昨日時点で、咲幸には須藤家のクリスマスパーティーに呼ばれていることにしている。寧々にも口裏を合わせて貰っている。咲幸を騙すことは、これが最後にしたかった。


「我が家のクリスマスは明日にしましょう」

「気にしなくていいよ。サユも、今日は勉強頑張るから……サユの分まで楽しんで来てね」


 倖枝は罪悪感を抱えながらも、咲幸から見送られて自宅を出た。

 今夜全てを片付け、明日は咲幸と盛大にクリスマスを楽しもうと思っていた。

 ――倖枝の鞄には、咲幸に渡したものと同じ小包が、もうひとつ入っていた。

 中身も同じだが、色だけが唯一違った。藍色から、明るくなって欲しい。その願いが込められ、青色だった。


 午後七時半、倖枝は仕事を早めに上がらせて貰い、舞夜の館へと向かった。

 自動車を運転していると、ふと自分の格好が気になった。月城住建の社長を前に、スーツにダウンジャケットで大丈夫だろうかと、不安になった。レストランではないので服装規定は無いにしろ、洒落た格好で行くべきかと悩んだ。しかしながら、着替えに戻る時間も無く――仕事帰りだと理解してくれるだろうと思い、割り切った。

 午後八時前に館に到着した。玄関で舞夜から迎えられた。


「こんばんは、倖枝さん」


 ベージュで大きめのハイネックニットに、ピンクのフレアスカート。そして、右手の小指には黒猫の指輪が嵌っていた。

 明るい服装と同じく、にこやかな表情だった。

 まるで、あの時見せた涙が夢だったかのように――この食事が『最後』であるとは、微塵も感じさせなかった。


「こんばんは。……今日は呼んでくれて、ありがとう」


 倖枝も、そのことには触れなかった。あくまでも、舞人から招かれたという体なのだ。


「これ……先に渡しておくわね。クリスマスプレゼントよ」


 しかし、この場ではまだふたりきりなので、倖枝は鞄から小包を取り出し、舞夜にそっと渡した。

 舞夜は幼い子供のように、無邪気に喜ぶ表情を見せた。


「ありがとうございます! 『お楽しみ』で取っておきますね」


 込み上げる気持ちを抑えているのか、小声で言った。


「そんなに期待するものでもないわよ……」


 倖枝としても、中身は後で確かめて貰いたかった――無事に『最後』を迎えてから。


 ダイニングに案内されると、装飾されたクリスマスツリーが置かれていた。部屋には他に飾り付けは無いが、存在感が大きく、いつもと部屋の雰囲気が違った。

 テーブルにはランチョンマットが三枚敷かれていた。そして、キャンドルの他、パエリアとポテトサラダの大皿がそれぞれ置かれていた。


「これ、わたしが作ったんですよ」


 小包をどこかに隠したのか、戻ってきた舞夜が、ポテトサラダを指さした。


「へぇ。上手くできてるじゃない」


 見た目は至って普通の料理であった――以前のクリームシチューも、見た目はおかしくなかったが。


「嬉野さん、いらっしゃい」


 アイランドキッチンでは、舞人が鍋から皿に何かを盛っていた。

 前髪を下ろし、赤を基調としたネルシャツとデニムパンツに、エプロンを羽織っている。現在は大企業の社長ではなく、倖枝の目には仕事外オフの男性に見えた。まるだ、別人のようだった。服装に気遣わずに済み、安心した。


「ちょっと待ってくださいね。メインがもうすぐ完成しますから」


 キッチンカウンターに皿を置いた。赤いスープのようなもの――ミネストローネが盛られていた。

 舞夜がそれを、テーブルに運んだ。


「今日は、父がずっと料理してるんですよ」


 パエリアとミネストローネは舞人が作ったものなのだと、倖枝は理解した。

 今日こそは家政婦、もしくはどこかのシェフを雇ったと勝手に思っていたので――舞人が料理をしていることも含め、意外だった。


「お父さん、普段から料理するの?」

「いいえ。わたしの知る限りは、年に数えるほど……気まぐれですよ」


 そのように聞く割には、倖枝の目にはどちらの料理も素人のものではない出来栄えに見えた。


「でも、今日は特別張り切ってますね」


 舞夜の表情は、なんだか誇らしげだった。

 倖枝は、舞夜と舞人に距離があると思っていた。しかし、舞夜の様子には不思議と説得力を感じた。


「どうぞ。僕はいいんで……冷めないうちに、先にスープ飲んじゃってください」

「すいません。いただきます」


 倖枝は言葉に甘え、舞夜と共にミネストローネに手をつけた。

 トマトの酸味に小粒な野菜が溶け込み、とても美味しかった。そして、寒い夜には温かかった。


「はい、お待たせしました!」


 やがて、舞人がどの料理よりも大きな皿を持って現れた。

 皿には、鳥の丸焼きが載っていた。

 倖枝にとってクリスマスの食べ物といえば、この国では有名なフライドチキンやローストレッグが挙がる。しかし、これはどちらでもなく、海外ドラマでよく見る、七面鳥の丸焼きだった。


「わぁ。凄いですね」


 三人ではとても平らげられないほど、大きい。圧倒的な存在感に、倖枝は素直に驚いた。


「いやー。これの下処理に、十時間以上かかりました。焼くのも、低温でじっくり三時間ですよ」


 舞人は皿をテーブルに置くと、立ったまま七面鳥にナイフを入れ、器用に切り分けた。七面鳥の中には野菜も詰まっていた。

 ひとまず三人の皿に盛ると、エプロンを脱いで一旦キッチンに戻った。ワインボトルとグラスをふたつ持ち、舞人もようやく席に着いた。

 倖枝の正面に、舞人と舞夜が並んで座っていた。


「それじゃあ、食べましょう。メリークリスマス」


 舞人から高級そうな赤ワインを注がれ――舞夜はブドウジュースを持ち、三人で乾杯した。

 倖枝はワインを一口飲んだ。かつて、御影歌夜に呼ばれて食事をした時のことを思い出した。あの時は白ワインであったが、上品な味わいは同じだった。

 舞人からグレービーソースの小皿を渡され、切り分けられた七面鳥にかけた。

 倖枝は初めて七面鳥を食べ、独特な味だと思った。水分油分が少なく硬いにも関わらず、濃厚なのだ。赤ワインと合うとは言い難い。


「ターキーなんて初めて食べますけど……美味しいですね」


 しかし、雰囲気と食べごたえで、そのように感じた。


「それはよかったです。頑張った甲斐がありました」


 相変わらず胡散臭い笑みを浮かべているが、今日この場では、倖枝の目には立派な父親として映っていた。

 三人で食卓を囲った。

 倖枝がここに来る前に想像していたものと、違った。


「嬉野さんは、お正月は実家に帰るんですか?」

「私は、生まれも育ちもここですよ。母方の実家は遠いところにありますけど、今年は帰りません」

「わたしも、今年はどこにも行きません」

「舞夜はもっと勉強頑張らないとね。……ちなみに、お母さんの実家はどこなんですか?」


 美味しい料理と談笑に包まれた、クリスマスだった。

 倖枝はかつて、遠い昔に同じものを味わったことがあった。自分が幼い頃――まだ『子供』としての立場で、両親とクリスマスを過ごしたことを思い出した。

 この歳で、この立場で、同じものを味わえると思いもしなかった。

 懐かしいからではない。とても温かだから、現在にでも涙が溢れそうなほど嬉しかった。


 そう。年上の男性と年端もいかない少女に囲まれ、倖枝は少なからず、幸せな時間を過ごしていた。

 仮初の立場を得ていた。

 ――しかし、飲まれてはいけないのだ。

 やがて、大皿の七面鳥はまだ半分ほど残っているが、腹が膨らみ、三人全員が食事の手を止めた。


「冷蔵庫にケーキあるから、持ってきてくれないかな?」


 舞人は隣の舞夜に指示を出した後、買ってきたやつですけどね、と倖枝に苦笑した。


「はい。わかりました」


 舞夜が席を外し、ひとまず舞人とふたりきりになった。

 本来の用件を話す機会を作ってくれたのだと、倖枝は察した。


「今日はお招き頂き、ありがとうございました……。すっごい満足しました。こんなに楽しいクリスマス、久しぶりです」


 たどたどしいと倖枝は思うも、まずは感謝を口にした。悔しいが、本心であった。

 正面で、舞人がにこやかに頷いた。


「それで、今日の用件おはなしなんですが……ウチで預かっている分譲地のモデルハウス、私に買わせてくれませんか? とても気に入ったんで、どうしても欲しいんですよ」


 倖枝は舞人を真っ直ぐ見た。

 こうして用件を聞くも、舞人は微笑んだまま微動だにしなかった。

 きっとこのまま頷いてくれると、倖枝は信じた。


「……ダメです。それは出来ません」


 しかし、舞人は首を横に振ることなく、言葉だけで否定した。

 相変わらず笑顔を浮かべたままだが、倖枝には冗談を言っているように聞こえなかった。


「どうしてですか!? お金なら、なんとかなります」


 それだけでは、納得できなかった。

 理不尽さに訴えかけたその時、倖枝はふと、アイランドキッチンに立つ舞夜を横目でちらりと見た。視線を感じたのだ。

 舞夜はこちらを見ることなく、淡々とケーキの準備をしているようだったが――断片的な映像では、眼だけは笑っているように見えた。


「違うんですよ。お金の問題じゃありません」


 舞人は舞夜が座っていた席と逆の席、自分の隣の椅子を引いた。

 倖枝には見えなかっただけで、きっと最初から、椅子に載っていたのだろう。暗い赤色の、小さな箱を取り出した。

 舞人は箱を開けて、倖枝に向けた。

 箱の中には、指輪がひとつ入っていた。大きなダイヤモンドが輝いていた。


 倖枝はそれを見て息を飲むも、すぐに舞人に視線を戻した。

 目の前の男からはもう笑みが消えていた。飄々とした雰囲気ではなく、ひどく落ち着いていた。そして、これまで見たことのない真剣な眼差しを向けられた。


「嬉野さん……いや、倖枝さん……。僕と結婚してくれませんか? 舞夜の母になってください」



(第35章『母』 完)


(第4部 完)

https://note.com/htjdmtr/n/ne60cd5207a26


次回 【幕間】第36章『須藤寧々』

年末、寧々はバーで倖枝の話を聞く。

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