第36章『須藤寧々』
第095話
須藤家のひとり娘だった寧々は、須藤工務店の跡継ぎとして学生時代を過ごした。
とはいえ、両親から特別何かを仕込まれたわけではない。工務店である家庭で、幼少より両親の仕事を眺めているだけであった。物心ついた頃には、この家業を継ぐのだとぼんやりと理解し、甘受していた。
つまらない、退屈な人生だった。
他に将来の夢も無いまま、工業高校の建築科へと進学した。勉学は最低限だけこなし、遊んでばかりいた。卒業すれば働かなければいけないという圧迫感から、三年の猶予期間を過ごした。
そして、卒業後は反抗も無く、既定路線を進んだ。社会人として、両親と働いた。
十七年前の十一月。
二十歳の寧々は、とある不動産屋に向かった。
同じ街に在るチェーン店のそこは、売買仲介を扱っている。須藤家とは店同士の付き合いが深く、中古物件の売却が行われる際は、リフォームの案件を預かることが多い。この日もまた、その相談で呼び出された。
「ちわーっす。須藤でーす」
寧々は明るい金色に染めた長い髪を束ね、ピアスだらけの耳を出していた。ツナギ姿で、店に入った。
「あー……ごめん、須藤さん。もうちょっとで帰ってくると思うから」
受付の女性から、呼び出した人物がまだ帰社していないことを告げられた。
寧々は忙しいわけではないが、約束を破られ、少し苛立った。
「まあまあ、中で待っててくれない?」
促されるまま、寧々は店内の事務所へと向かった。
ほとんどの従業員が出払っているようで、事務所にはひとりしか居なかった。並んだ机の、端の席で――スーツ姿の女性が座っていた。パソコン画面が寧々の視界に入り、広告を作成しているようだった。
寧々はこの店によく来るため、従業員の顔と名前は全て把握しているつもりだった。だから、初めて見る人物だとわかった。
「あれ? あんた、見かけない顔じゃん。新入りさん?」
真新しいスーツは明らかに着慣れていない。化粧こそしているが、顔つきはまだ幼い。どちらかというと、女性ではなく少女寄りだ。
自分と同じぐらいの年齢かと疑いながら、寧々は女性の隣の席に荒っぽく座った。
「は、はい。私、新入社員の嬉野と申します。よろしくお願い致します」
少女はわざわざ立ち上がって頭を下げ、名刺を手渡した。
丁寧だが大げさで硬い動作も初々しく、寧々は笑った。
嬉野倖枝。貰った名刺を見て、少女の氏名を知った。
「私は須藤。ウチの工務店がここの世話になってるから、よろしく! 嬉野さんが中古売る時は、鍵の交換だけでも仕事回してね!」
仕事の都合上、良好な関係で付き合うに越したことはない。寧々は笑顔で挨拶した。
それに、寧々の第一印象としては――あどけなさの残るこの少女が、とても可愛く見えたのだ。
「ところで、嬉野さんは歳いくつ? だいぶ若いよね?」
この時期の新入社員ということは、新卒採用ではなく中途採用だろう。しかし、寧々の目からは、他所からの転職ではなく、社会経験自体が無いように見えた。
「私はまだ十八です」
「えっ。マジで!? わっか!」
二つも年下だとは思わず、寧々は驚いた。
そして、ふと気づいた――今年十九歳になるのか、それとも今年十八歳になったのか。
前者ならば、高校卒業後、何らかの事情ですぐ就職できなかったことになる。しかし、後者ならば、事情はなお複雑そうだった。
大人しそうな顔つきなので、後者とは思えないが、寧々は詮索しなかった。
「須藤さんこそ、おいくつなんですか?」
「私は二十歳だよ。お酒もタバコもいけちゃう!」
「へぇ。歳、近いんですね」
親しみを感じたのか、倖枝が微笑んだ。
寧々は笑顔が可愛いと思う一方で、どこか違和感を覚えていた。
自分の外観や態度は俗に言う『不良』であると自覚していた。他人の少女を前にした場合、怯えられたり抵抗感を示されたりすることが多い。
しかし、倖枝は初対面にも関わらず、非常に落ち着いていた。怖がられないことが違和感の正体だが、寧々自身は気づかなかった。
「今度さ……一緒にご飯でも行こうよ」
寧々は、倖枝により近づきたかった。単なる仕事上だけでの付き合いではなく、純粋に嬉野倖枝という人間を知りたいと思った。
その誘いに、倖枝は戸惑う様子を見せたが、少しの間を置き、頷いた。
「はい……。連れていってください」
もしかして嫌われているのかと、寧々は思った。
だが、誘うまではそうでもなかったため――違和感も含め、倖枝の反応がよく分からなかった。
*
それからすぐ、倖枝が中古マンションの両手売買を決めた。
寧々は不動産営業職のことを詳しく知らないが、入社二ヶ月で成果を出したのは早いと思った。倖枝が毎晩、どこかしらのマンションにチラシを撒いているのを知っていた。努力が結ばれたのだ。
約束通り、倖枝から鍵交換と――壁紙張替えの仕事を振られた。倖枝と仕事をすることが出来て、嬉しかった。
歳が近く、また見習いという立場も同じなので、寧々は倖枝に親近感を覚えていた。
倖枝が初めて成約させた祝いという名目で、寧々は食事に誘った。
とはいえ、向かった飲食店は、街外れにあるNACHTというバーだった。倖枝が未成年ということを知りながらも、洒落た店に連れて行きたかった。
「お酒、大丈夫?」
店に入る直前でそう訊ねるのは卑怯だと、寧々は自覚した。念のため、同意を得ておきたかった。
自分が十八歳の頃には、既に酒に手を出していた。きっと倖枝も同じだろうと思った。
「ええ……まあ……」
やや緊張気味の倖枝から、当たり障りの無い返事を得た。
特に嬉しそうには見えないが、ここまで来た以上、寧々は倖枝を連れて店に入った。
テーブル席が空いていた。しかし、カウンター席を選び、ふたり並んで座った。
寧々がスカジャンとデニムパンツといった格好に対し、倖枝はスーツ姿だった。周りからは奇妙な関係に見えるのだろうと思い、寧々は心中で笑った。
「スクリュードライバー」
「わ、私も同じやつで……」
バーテンダーに注文すると、倖枝も便乗した。寧々はすかさず倖枝を指さし、こっちはウォッカ少な目でと付け加えた。
倖枝の酒に慣れていない感じが寧々に伝わるが――思い違いに悔やむことなく、むしろにんまりと笑った。
「嬉野さんは、スクリュードライバーがどんなお酒か知ってるの?」
「いえ、具体的には知りません。聞いたことある名前なんで、私でも飲めるかなと……」
「へー。初めて飲むんだ。まあ、有名なお酒だよね」
「はい。それで……どんなお酒なんですか?」
「それは、もうすぐ分かるよ」
寧々は口元が寂しくなり、スカジャンのポケットからタバコの箱を取り出した。しかし、灰皿がどこにも見当たらないため、店内禁煙であることを思い出した。少し苛立った。
しばらくすると、ふたつのスクリュードライバーがカウンターテーブルに置かれた。
「え? オレンジジュース?」
「そだよー、見た目はね。まあ、とりあえず乾杯しようか。嬉野さんの仕事初成功を祝って!」
両手でグラスを持つ倖枝と寧々は乾杯し、一口飲んだ。アルコールの味は多少あるものの、オレンジジュースの甘さが強かった。このグラスもウォッカ少な目なのではないかと、疑うぐらいであった。
「味も、ほぼオレンジジュースですね。飲みやすいです」
ウォッカ自体は無味無臭であるため、癖も無く飲みやすい酒だと、寧々も思う。
しかし、それが罠であることを知っていた。
「でも、注意しなよ? 飲みやすいからってついつい飲むと、しっかり酔うよ? 酔い潰れやすいから『女殺し』って呼ばれてるお酒だし……」
「へぇ……。須藤さん、お酒に詳しいんですね。カッコイイです」
先ほどまでの緊張感はどこへ消えたのか――ヘラヘラと笑っている倖枝に、寧々は苦笑した。
「お酒にもお花と同じで、それぞれに『言葉』があるんだよ。スクリュードライバーはね……いつの間にか酔い潰れるお酒だから『魅了された』とか『あなたに心を奪われた』とか、そんな感じ」
過去、油田の作業者がウォッカとオレンジジュースを、マドラーではなく
寧々は倖枝を見つめながら、微笑んだ。
「わぁ。そういうの、素敵ですね」
しかし、倖枝は相変わらず、上機嫌に笑うだけだった。
――わざわざスクリュードライバーを注文した意図は、伝わっていないようだった。
寧々は残念に思いながらも、すっかり回っている倖枝と酒を飲んだ。
倖枝はその後、二杯目のスクリュードライバーを飲んだ。そして、カウンターテーブルで気持ちよさそうにうとうとしていた。
アルコールに身体が慣れていないだけでなく、日頃の疲れにも響いたのだろう。寧々は倖枝の肩を支えながら、店を出た。
しかし、タクシーは呼ばなかった。向かった先は、バーの近くにある――安物の『ホテル』だった。
本当なら、良い雰囲気のまま連れ込みたかった。介抱のためになるとは、思いもしなかった。
寧々はスーツのジャケットを脱がし、倖枝をベッドに寝かせた。小さな寝息を立て、すやすやと寝ていた。
寝込みを襲う気にはなれなかったので、シャワーを浴びた。
身体にバスタオルを巻いて浴室から出てくると、倖枝が目を覚ましていた。ベッドで仰向けになったまま額に腕を置き、ぼんやりと天井を眺めていた。
「もしかして……お酒、初めてだった?」
寧々は冷蔵庫からサービス品であるミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、倖枝に手渡した。
身体を起こした倖枝は受け取り、一口飲んだ。
「飲んでみたかったことはありましたけど、飲めなかったんですよ。……妊娠してましたから」
そして、ぼんやりとしたまま告白した。
寧々は驚くよりも、これまでの疑問が晴れて納得した。
おそらく、今年十八歳になる。おそらく、高校は卒業していない。おそらく、まだ赤子である我が子を育てるために不動産営業職を選んだ。おそらく、育児のためにこれまでの誘いを渋っていた。
だが、ひとつだけ見当もつかない点があった。
「嬉野さん、結婚してるの?」
その質問に、倖枝は首を横に振った。
「
そう言い、自嘲気味に乾いた笑みを漏らした。
寧々はベッドで倖枝の隣に座ると、タバコに火を点けた。単純に吸いたい気分であり、倖枝を落ち着かせるつもりでもあった。
「そんなこと知らないで、ごめんね――お酒、無理に飲ませちゃって。よく知らないけど、おっぱいに影響あるんでしょ? 時間経てば大丈夫?」
まずは、その非を詫びた。事情を知っていれば、酒を飲ませないどころか、食事にも誘わなかったかもしれない。
「もう離乳してますから、大丈夫ですよ。言わなかった私も悪いんで、気にしないでください」
倖枝は寧々からタバコを取り上げると、それを吸った。
やけになっているように寧々は見えたが、むせないので、初めて吸ったわけではないようだと理解した。むしろ、慣れた様子だった。
外観は、大人しい清楚な女性だった。だが、この歳で子供が居ることも含め、自分以上に『やんちゃ』だと思った。自分など比べ物にならないほど、厳しい人生を歩んでいるのだろう。
――それは寧々にとって魅力的であり、なお惹きつけた。
「ところで……どうして、こんな所に居るんですか?」
部屋の内装から、ここがどこであるのか理解したのだろう。倖枝は呆れるように訊ねた。
酔いつぶれて、介抱のため――寧々は、用意していた言い訳を敢えて口にしなかった。現在この場で、本心を伝えたかった。
「私、嬉野さんを抱いてみたかったんだよね……
寧々もまた、酔っていたのかもしれない。倖枝の告白内容も、現在の感覚も、あまり現実味が無かった。
こうして気持ちを伝えて拒絶されたなら、それまでだと割り切っていた。
倖枝はテーブルの灰皿にタバコを置くと、再度仰向けになり、ブラウスのボタンを外した。
「私、女の人とやるのは初めてですけど、構いませんよ。妊娠しませんしね……」
虚ろな瞳と自暴自棄になっている様子が――寧々には、たまらなく美しく見えた。『自分もこうなっていたかもしれない可能性』が、目の前に在った。
「その代わり……今夜だけは、何もかもを忘れさせてください。メチャクチャにしてください。辛いことばっかりですから……」
倖枝の口振りから、誰でもいいように聞こえた。しかし、妊娠もしくはそれに繋がる行為は避けているので、相手を選んでいるようだった。
寧々は自分が選ばれたことが特別だとは思わなかった。寧々の中に、倖枝に対する愛情は無かったのだ。
性欲を満たしたい寧々と、誰かに支配されることを求めている倖枝。偶然にも、互いの目的が合致したに過ぎない。
「うん、いいよ……。約束する」
だが、それで構わない。その程度で充分だ。
寧々は倖枝の顔に自分のを近づけ、唇を重ねた。倖枝の舌を、唾液を求めた。
倖枝は抵抗もなく、受け入れた。
寧々にとって倖枝との初めてのキスは、普段吸っているタバコの味がした。
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