第096話

 寧々にとって倖枝は、良き仕事相手だった。

 新人ながら順調に営業成績を上げ、寧々には次々と仕事が舞い込んだ。寧々もまた経験を積み、職人として着実に腕を上げていった。

 仕事外で都合がつけば一緒に酒を飲み、身体を重ねた。


 やはり、寧々には倖枝に対する愛情が無かった。難しく考えないが、一生を添い遂げたいとは思えなかった。幸せになって欲しいとも願わなかった。

 それは互いが同性おんなだから――そして、寧々は無意識に倖枝を見下していた。

 倖枝が壮絶な人生を送っていることを、知っている。『これよりはマシ』と呼べ、かつその意味で美しい存在を、側に置いておきたかったのだ。


 シングルマザーとしての辛さも、育児の苦労も、理解しようとは思わなかった。否、根本から支えることも、責任を負うことも、必要無かった。

 適当に話を聞いて理解した素振りを見せれば、優しい言葉を与えれば、倖枝はまるで子犬のように懐いた。

 上辺だけで支配できる関係は、寧々にとってこのうえない快感だった。

 もしも倖枝から拒絶されたなら、もしくはこちらから飽きたなら――それまでだと、寧々は思っていた。きっと、後悔は無いだろう。

 だから、その時おわりを迎えるまでは『都合の良い存在』として扱った。


 しかし、不思議と関係は続いた。寧々は飽きることなく、倖枝を抱いていた。

 それでも確かに時間は流れた。ふたりの関係は変わらずとも、それ以外で変わるものはあった。

 倖枝と出会って四年――寧々が二十四歳の時だった。互いに、社会人として一人前になっていた。


「私さ……結婚するんだ」


 ホテルでの行為を終えた後、ベッドでタバコを吸いながら、寧々は漏らした。

 結婚相手は、仕事で交流のあった大工の男だ。寧々の両親からの提案が受け入れられ、須藤家に婿養子として迎える。

 寧々はその男を、特別愛していなかった。彼もまた、寧々にとって『都合の良い存在』だった。

 女性としての結婚願望は無かった。だが、家業を継いだ以上は次の代を作らねばならないという責任感を持っていた。事を荒立てることなく、体裁を優先したに過ぎない。


「……へぇ。おめでとう」


 倖枝は特に驚かなかった。タバコを吸いながら、抑揚の無い声で素っ気なく祝福した。

 意外な反応に少し苛立つ一方で――まあ当然かと、寧々は納得した。

 所詮、その程度の関係なのだ。


結婚式しき、来てくれる?」

「私でよければね……。でも、スピーチとか余興とか、面倒なのは勘弁してよ?」

「大丈夫だって。美味しいの食べて、楽しんで。……そうだ、咲幸ちゃんも連れておいでよ」

「あー、それは無理。あの子、まだ五歳だもん。グズると思うわ……たぶん」

「そっか。なら、仕方ないね」


 ひとり娘のことを把握していない倖枝に、寧々は苦笑した。

 それからも倖枝からは『結婚後』に関して触れられなかった。寧々からも触れなかった。

 ――これしきのことでふたりの関係が終わらないと、寧々は確信していたのだ。

 そう。たとえどれだけ突き放しても、倖枝は必ず戻ってくるもとめてくる。あの女の孤独を埋められる人間は、自分しか居ない。これまでの経験が、根拠となっていた。

 それに、寧々もまた、終わらせるつもりは無かった。


 寧々は結婚と共に、毛髪を黒色に戻した。ピアスの穴はほとんどが塞がった。日常生活でタバコを吸わなくなった。

 それでもやはり、倖枝との関係は続いていた。立派な不倫であり、倖枝は愛人となる。

 寧々には夫に対する罪悪感も、性交に対する背徳感も無かった。これまで通り倖枝から求められ、悪い気がしない――それだけだった。いや、既婚という立場から明確に倖枝より『上』だと思っていた。


 寧々は子供を産み、毛髪を短く切った。視力が落ち、眼鏡をかけた。

 落ち着いた身なりで家庭を持った。

 相変わらず、つまらない人生だった。

 人並の幸せを手に入れた。しかし、家族に対する愛情が無ければ、満足感も無かった。

 ただ、現実の辛さから涙を流す倖枝を抱く度、彼女には絶対に手に入らないと思った。それが寧々に、優越感を与えていた。


 倖枝と咲幸の母娘を、食事に招くこともあった。表向きは『善意』から、家族ぐるみで付き合った。

 だが、倖枝から羨む視線を向けられることは無かった。

 寧々は夫から何も言われないとはいえ、倖枝との関係を気づかれていると自覚していた。

 相手が女性だからか、それとも『本気』には見えないからか。何にせよ、暗黙の了解を得ていた。


 やがて、寧々は須藤工務店を正式に継ぎ――誇れるものではないが、社長という肩書きを手にした。

 その頃には、倖枝も齢三十を過ぎ、美しさに磨きがかかっていた。仕事の方も、次席から支店長へと昇進した。

 順調に見える一方で、高校に進学した娘と向き合えないのか、ふたりきりの時はさらに落ち込んでいた。寧々にとっては、慰め甲斐があった。

 その日はNACHTで酒を交わしながら、娘の学校の文化祭に行ったことを聞いた。ありふれた親子の姿を見て傷を負ったのだと、寧々には安易に想像できた。


「寧々さんのこと、恋愛では好きになれないから……。これからも、友達で居てね」


 ホテルに移った後、倖枝はそのように漏らした。

 寧々は以前から、互いに恋愛感情が無いことを理解している。改めてはっきり言われても、何も思わなかった。


「何年何十年かかっても、倖枝が好きだと思える人が現れるといいね」


 だが、念のため釘を刺しておいた。

 寧々は、そのような人物が倖枝の前に現れることが無いと、わかっている。だから、倖枝の人生に関わっていることに対し、責任を取るつもりは毛頭無いという意味合いだった。

 もっとも、もし現れたならば、素直に祝福するつもりではあるが。


 寧々の知る限り、倖枝の周りに男の影は無かった。

 しかし――倖枝が何を思ったのか、チェーン店を退職して独立した頃だった。なんだか吹っ切れた様子で、とてもいきいきしながら自分の店を構えた。

 開店して間もない初夏、倖枝はあの月城住建から分譲地の窓口代理を任された。

 寧々は詳しく知らないが、倖枝が月城の館を売った際、離婚絡みの騒動に巻き込まれたらしい。その時に月城の社長と繋がりを持ったのだと思った。


 倖枝がありえない仕事を手にしたのは、月城の社長の愛人に成ったからだという噂が流れた。確かにそのように思われても仕方ないが、寧々は良い気がしなかった。

 その噂は事実無根だと信じた。あの女は自分の愛人であると、堂々と言いたいぐらいであった。しかし、倖枝と仕事外で会う回数が目に見えて減り、寧々は少し不安だった。柄にもなく妬いていた。


「ていうか、社長のお気に入りじゃん。そこまで可愛がられたら、マジで愛人みたいじゃん」

「もうっ、そういうこと言わないでよ……。あのクソ野郎には、顔も見たくないぐらいムカついてるんだから」


 ようやくNACHTで会えた時、倖枝からそのように聞くが、寧々の不安は晴れなかった。それが倖枝の本心だとしても、先方はどう思っているのか分からないのだから。

 寧々としては、倖枝が幸せになるに越したことがなかった。倖枝の幸福を阻止するつもりはなかった。

 未婚の子持ち女性と離婚した独身男性が繋がったところで、寧々は己の優位性が揺るがないと思っていた。経済面や地位が優れたとしても、そのような家庭はとても惨めなのだ。『人並みの幸せ』と呼べるのかすら、疑問であった。

 いや、それこそが倖枝に相応しい末路だと思った。一度は妬きこそしたものの、むしろふたりを応援したい気持ちが込み上げた。それに、あの男は倖枝の『責任』を押し付けるのは、充分すぎる相手だ。


 暑い夏が過ぎ去ろうとした頃、倖枝は何やら娘と喧嘩したようだった。何が原因なのか寧々は知らない。興味もなかった。

 それが関係しているのか――秋も深まった十月の末、午後九時頃に携帯電話のメッセージアプリが受信を告げた。


『月城の社長さんと飲みに行くことになっちゃって、さっちゃんの言い訳に寧々さん使わせて貰ったから、何かあったら話合わせておいて』


 なぜ娘に隠す必要があるのか、寧々には分からなかった。ただ、少なからず社長を異性として意識しているように感じた。

 もしかすれば、自分の思い描く通りに事が運ぶかもしれない。その予感に、寧々はほくそ笑んだ。

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