第097話
それから再度、寧々は倖枝から口裏合わせを頼まれた。
言われた通りに合わせるつもりだったが、咲幸から問われることはなかった。母親を信頼しているのだと思った。
十一月も終わりに差し掛かり、秋から冬に移ろうとしていた頃だった。
寧々は夏以降久々に、倖枝と仕事外で会った。
「私もね……そろそろ家買おうかなって、思ってるのよ」
ホテルで性交を楽しんだ後、倖枝が漏らした。
「いつまで一緒に暮らせるかわからないけど、さっちゃんと良い所に住みたいし……それに、母親として、さっちゃんに何か遺したいのよね……」
娘の高校卒業が間近に迫っているからだろうか。母親として育児に悩んだ末、倖枝はそのような結論を下した。
この瞬間だけは、寧々は素直に立派だと思った。尊重し、そして愛人として願いを汲もうと思った。倖枝の家を自分が建てようと思った。
だが、倖枝と月城の社長を繋ぎたいという思いから――倖枝が預かっている分譲地のモデルハウスを、ふと思い出した。
倖枝の話では、一億円で売り出すとの噂らしい。寧々はにわかには信じられないが、本当なら値段以上の価値があることになる。
「悪いこと言わない……。それ、絶対に買いだから!」
須藤工務店の技術では、とても月城住建に太刀打ち出来ない。
寧々は正直に話した。現職からだと、なお説得力があるだろう。これも、倖枝と月城の社長を繋げるためだ。
しかし、倖枝は彼が嫌いだからという理由で躊躇していた。
「倖枝は嫌ってるかもしれないけどさ……。咲幸ちゃんのことを想えば、しょうもないプライドは捨てなよ」
詳しい事情を知らない寧々の目からは、そのように映っていた。本質に向き合えない理由は明白だった。
それに――この女が矜持を掲げることは、ひどく滑稽だったのだ。
説得あってか、倖枝は思い悩んでいるようだった。
寧々が倖枝から三度目の口裏合わせを頼まれたのは、十二月二十四日だった。
あのモデルハウスを購入する決心をしたらしい。月城の社長に買付を行おうとしたところ、食事に誘われたらしい。
クリスマスに立派なデートだと思いながら、引き受けた。
寧々に倖枝から次の連絡があったのは、それから五日後だった。
女ふたりの忘年会という名目で、NACHTを訪れた。年の瀬で冷え込んだ夜だったが、店内は暖かかった。
「シャンディガフ」
カウンター席に座るや否や、倖枝がそう注文した。
どのような話が聞けるのか、寧々はおよその見当がついた。
「私は、インペリアルフィズちょうだい」
しばらくして、ふたつのグラスが差し出された。
ビールとハイボール――まるで居酒屋のようだと寧々は思いながら、倖枝と乾杯した。
「私……社長さんから、プロポーズされちゃった……」
ぼんやりとしている倖枝が、ぽつりと漏らした。
寧々の予感が的中した。まさに、望んでいた理想の展開となった。だが、いざ倖枝の口から聞くと、内心驚いた。
社長夫人になるにも関わらず、倖枝は鼻につく言い方ではなかった。遠回しな自慢ではなく、本当に困っている様子だった。
クリスマスから時間が空いていることも、裏付けとなっていた。モデルハウスを譲って貰うという話は、おそらく頓挫したと寧々は思った。
「おめでとう! それで? どう返事したの?」
これに関しては、飲み物を注文した時から見当がついていたが、念のため確かめた。
「その場では断ったんだけど……よく考えて欲しいって、とりあえず保留状態……。まったく、いい迷惑よ……」
倖枝は気だるそうな口調で愚痴をこぼし、グラスを口にした。
やはり、寧々の思った通りだった。もう終わったものだと予想していたが、まだ一筋の望みは繋がっているらしい。この女のどこに惹かれたのか、先方は御熱のようだ。
「時間置いても、答えは変わらず?」
「当たり前じゃない……。マジで、あり得ない話よ」
寧々の問に、倖枝は即頷いた。
説得には骨が折れると思いながら、寧々はインペリアルフィズを飲んだ。レモンの酸味とシロップの甘味が加わったハイボールは、口当たりが良かった。
「私は、超勿体ないと思うけどなぁ。こんな話、人生でもう二度と無いんじゃない?」
寧々はわざとらしく煽った。
しかし、倖枝はグラスにぼんやりと視線を落としたまま、微動だにしなかった。
「好きでもない男と結婚なんて、出来るわけないじゃない」
三十五歳の女が言うことかと寧々は思うが、とても口には出来なかった。
「倖枝はそうかもしれないけどさ……咲幸ちゃんのこと、考えなよ。倖枝ひとりの問題じゃないんだよ?」
手っ取り早く説得するには、娘の名前を出すのが効果的だと思った。
だが、倖枝は一瞬たりとも考える様子は無く、すぐ首を横に振った。
「いいえ、さっちゃんは関係ないわ。これは、私ひとりの問題よ」
先ほどまでのぼんやりとした瞳は、目が覚めたかのように見開いていた。そして、声の抑揚も上がっていた。
寧々は倖枝から、確固たる意思を感じた。
その後、ホテルに場所を移した。
互いに全裸で抱き合うが、ただの雰囲気作りであった。少なくとも寧々には、性交を楽しむ気分にはなれなかった。
「咲幸ちゃんのお父さん……誰だか分かってるの?」
寧々は、ベッドで訊ねた。倖枝とは長い付き合いだが、知らないことだった。
このような繊細な部分はバーではなく、密室でふたりきりでなければ触れられなかった。
「もう忘れちゃったわ……」
倖枝は投げやりに答えた。
本当に知らないようにも、未練が無いようにも、寧々には見えた。もしかすればその人物と家庭を築きたいのかもしれないと思ったが、違うようだ。
「咲幸ちゃんは、お父さんが欲しいって言ったことないの?」
「たぶんね……。あの子の本音は知らないけど……昔から、私に言ったこと無いと思うわ」
遠くを眺めるような瞳で話す倖枝は、記憶が曖昧なのだろう。過去より娘と向き合えていないのだから当然だと、寧々は思った。
いや、幼い子供が父親を欲しくないわけが無い。咲幸もきっと一度は、父親への憧れを持ったはずだ。
寧々がそう確信したのは、自分が子供ふたりとの四人家族だからだった。現状でもしどちらかが欠け、片親の家庭になれば、崩壊するのは目に見えていた。母親も父親も、子供にとって必要不可欠だと寧々は思う。
「あの子、もう高校卒業するのよ? 親の結婚よりも、自分の結婚を考えるんじゃない?」
倖枝は、自嘲気味に笑いながら加熱式のタバコを吹かせた。しつこく突っかかる寧々が鬱陶しいようだった。
だが、寧々は自重するつもりは無かった。
「自分の親には幸せになって欲しいに決まってんじゃん」
特に咲幸の場合、真面目な人間のため責任感は強いだろう。
「それに――キツイこと言うけど、片親だと結婚相手は寄ってこないよ? 倖枝ひとりの問題じゃないんだよ」
結婚後ひとり身になる相手の親の面倒を見ないといけない。当事者ふたりがいくら愛し合っても、その点で破談になるという例を寧々は聞いたことがある。
親子が絶縁状態ならまだしも、母親を慕っている咲幸は尚更だろう。傍から見ている分には、依存していると言ってもいい。
「倖枝が身を固めて落ち着かないと、咲幸ちゃんは倖枝から離れられないんだよ? 幸せになれないんだよ?」
酷なことを言っている自覚が寧々にはあった。しかし、このままでは将来いずれ衝突する問題だと思った。
倖枝はタバコをサイドテーブルに置くと――隣の寧々に振り向くことなく、俯いたまま涙を流した。
「ねぇ……。幸せって何? ちゃんとした家庭を持って裕福な生活が送れたら、幸せなの?」
か細い声と共に瞳から涙が溢れ、ただ頬を伝った。倖枝は拭おうとはしなかった。
「私……もう、わからないのよ……。さっちゃんのためと思ってたのよ? これが間違ってるなら、どうすればいいのよ……」
溢れる涙を拭うことも、震える肩を抱きしめることも、寧々には出来なかった。悲しみに明け暮れる、美しい愛人の嘆きを聞くことしか出来なかった。
これ以上、踏み込んではいけない――責任を負いたくない気持ちから、寧々は察した。
「私はね……結婚して良かったって、思ってる。子供だけじゃなくて、支えてくれる人が居るって、良いもんだよ? 皆の顔に囲まれて……私は幸せ者だね」
寧々は言葉を選んで話した。
少なくとも、これまでそう思ったことはなかった。だが、現在そう思っているように考えた。自らを納得させた。
だから、決して嘘ではなかった。
「何が正解なのか、私にも分からないけどさ……咲幸ちゃんを想う気持ちで動いたら、たぶんそれが正解だよ」
倖枝がようやく顔を上げた。寧々の肩に頭を傾けた。
少しでも肯定すれば、こうだ――寧々は笑うのを堪えながら、倖枝の頭を撫でた。
「慌てなくてもいいから、もう一度考えてみたら?」
「うん……。ありがとう……」
そう。理解者を装って、優しい言葉を与えるだけでいい。結婚へと仕向ければいい。
寧々はただ、つまらない人生に娯楽と刺激が欲しかった。悲劇の女を間近で観たかった。
どこぞの男に倖枝が取られるかもしれないとは、微塵も考えていなかった。
この惨めな女がたとえ結婚しようとも、必ず自分の元に戻ってくる――寧々は確信していたのだ。
(第36章『須藤寧々』 完)
次回 第37章『目論』
倖枝は舞夜に、ふたつの質問をする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます