第5部
第37章『目論見』
第098話
十二月二十五日、月曜日。
年内の仕事を終えた倖枝はスーパーマーケットで買い物をして、午後九時半に帰宅した。
「おかえり、ママ」
「ただいま。待たせたわね。お腹ペコペコでしょ?」
倖枝はダウンジャケットとスーツのジャケットを脱ぎ、咲幸とダイニングテーブルに座った。
夕飯に、ローストレッグとパック寿司を、ふたりで食べた。どちらも半額シールが貼ってあるものだ。倖枝はさらに、安物のワインを開けた。
――味はどれも、昨日の夕食より遥かに劣る。
それだけではない。『三人』で囲う食卓は笑顔に溢れ、温かかった。
まるで、夢から覚めたような感覚だった。娘とふたりで売れ残りの惣菜を食べているのが、紛れもない現実なのだ。
倖枝は――これが幸せなのだと、自分に言い聞かせた。
「今年はゴメンね……。来年は、サユがちゃんと準備するから」
正面の咲幸が苦笑した。
例年であれば、クリスマスの食事は咲幸が準備している。しかし、受験勉強を気遣い、今年は倖枝が名乗り出た。咲幸であれば料理も行い、もう少し豪華なものが出てきただろう。
昨日『あの男』は、子にどのようなクリスマス料理を振る舞っていたのか――倖枝は無意識に比較していた。同じ片親にも関わらず、あちらには確かな愛情を感じられた。
「そんなこと、気にしないでいいわよ……。来年こそ、母さん何か作るわよ」
申し訳無さそうにしている咲幸に、倖枝は慌てて微笑みかけた。
だが、それも束の間。来年はどのようなクリスマスを迎えているのかと思うも、全く想像出来なかった。
ここでは無い『新居』で母娘ふたりで料理をするのが、倖枝にとっての理想だ。
その一方で『四人』の食卓も悪くないと、思っていた。
食後、リビングでイチゴの載ったショートケーキをふたりで食べた。
これもスーパーマーケットで購入した、半額のシールが貼ってあったものだ。クリーム部分もスポンジ部分も、すっかり乾いていた。
テレビのバラエティー番組が、かろうじてクリスマスの雰囲気を出していた。
咲幸へのクリスマスプレゼントとして、充電式カイロを昨日既に渡している。それだけではなく、本来であれば、あのモデルハウスの買付が完了したと伝えるはずであった。
「母さん、明日から冬休みよ。今年は、おばあちゃんの所に行けないけど……さっちゃんの合格祈願で、初詣ぐらいは一緒に行きましょう」
「うん。……でも、おみくじで凶でも出たら嫌だなぁ」
「それなら、おみくじなんて引かなければいいじゃない」
「そんなこと言っても、あるの見たら引いちゃうんだよねー」
倖枝は、昨日の出来事を咲幸に言えるはずが無かった。
娘に対し笑顔を作り、他愛ない話で、複雑な気分を誤魔化した。
ケーキを食べ終わると、倖枝は夕飯の後片付けを行い、風呂に入った。
*
「嬉野さん……いや、倖枝さん……。僕と結婚してくれませんか? 舞夜の母になってください」
舞人から、冗談のような台詞を告げられた。しかし、ダイヤモンドの指輪までを見せられていることから、冗談ではないのだと、倖枝は理解した。
これは、プロポーズと呼ばれる行為だ。倖枝は三十五年の人生で、初めて経験した。
モデルハウスの買付を断られた苛立ちは、どこかに消えていた。驚く一方で、この提案を受け入れるなら、確かにモデルハウスの購入は不要だと納得した。
倖枝は再度、アイランドキッチンの舞夜を見た。
まるで、父親の声が聞こえていないように――淡々と、ケーキを出す準備をしていた。
「すいません……お答え出来ません……」
倖枝は正面の舞人に視線を戻し、ぽつりと返事を漏らした。
頭の中はひどく混乱していた。何も考えられない状態であり、現在この場から逃げ出したいぐらいでもあった。
その返事も、きっと逃避の意味合いが強かったのだろう。肯定でも否定でもなく、それ以外を口にしていた。
とはいえ、この場で肯定できないのなら、否定という意味合いになるのだろう。
「どうしてですか?」
舞人は指輪の箱を開けたまま、テーブルに一度置いた。
優しく微笑む表情は、納得できないから問い詰めるというより、諭すようだと倖枝は思った。
「わかりません……」
倖枝は正直に答えた。
このような状況になった経緯が、まるで分からない。しかし、それを理解したところで頷いているとも思えない。
つい先ほどまで三人で和気あいあいと食卓を囲み、擬似的な家庭を体験した。悪くないとは思ったが、いざ手の届くところに置かれても――どうしてか、掴む気にはなれなかった。
その理由は倖枝自身にもわからない。だから、否定ではなく、そのように答えた。
「断りたいなら断って頂いて、構いません。ただ、今日のところは……一度時間を置きましょう。よく考えて、改めて返事を聞かせてくれませんか?」
舞人は苦笑すると、指輪の箱を閉じ、倖枝に差し出した。
返事の内容と突然すぎる提案から、混乱しているのを分かって貰えたと、倖枝は思った。指輪は一度持ち帰り、返事次第では返却するのだと理解した。言葉通り、一旦保留だ。
倖枝の失礼な態度に、この場で舞人が怒っていてもおかしくはない。だが、そのように納められ、優しさが伝わった。
もしくは、どうしても手に入れたい一心から、必死な譲歩なのだろうか――
「はい。わかりました……」
倖枝は舞人の提案を受け入れ、指輪の箱を鞄に仕舞った。ここまで気遣わせたのだから、せめてもの礼儀を払うことにした。これから冷静に考えれば、万が一にも傾きが変わるかもしれない。
頷くと同時に、舞夜がケーキと紅茶の載ったトレイを運んできた。
三人でケーキを食べたが、倖枝は味がしなかった。先ほどまでの温かな雰囲気が一変して、重苦しい空気に感じた。
食べ終わると、運転代行を呼んで貰い、倖枝は館を後にした。
昨日のことを振り返りながら、倖枝は湯舟に浸かっていた。
あれから一日経っても、気分はまだ複雑だった。今日は店の大掃除と雑務だったが、このままでは間違いなく仕事に支障が出る。明日から冬休みでよかったと思った。
倖枝にとっては、折角貰った話だった。これからの人生で誰かに求婚されることは、二度と無いかもしれない。
だから、真っ先に嫌な印象を持ったが、倖枝なりに前向きに考えてみることにした。
昨日の雰囲気は、決して嫌ではなかった。あそこに咲幸が加わり『四人』になる――それだけだ。
しかし、倖枝にはその光景が現在でも思い浮かばなかった。それが昨日、躊躇した理由だった。
咲幸にこの件を話したところで、受入れて貰えるのか分からなかった。いや、月城の人間となれば無条件で拒否されるだろう。
せめて、現在も咲幸と舞夜の仲が良ければと、倖枝は思う。自分が引き裂いたことを、ひどく後悔した。
あの空間がいくら自分にとって居心地が良くても、咲幸のことで舞人に頷けなかった。
そして、もうひとつ――倖枝は現在こうして冷静に考えているからこそ、疑問が浮かんだ。
自分が舞人のことを好きでないように、きっと舞人も好きではないだろう。バーで酒を飲みはしたものの、一度のデートも無く求婚されたことに戸惑っていた。
あの男に家族への愛情が無いことを、知っている。おそらく、舞夜に母親が必要だから最も適した存在を選んだに過ぎない。あくまでも合理的で、機械的な判断だ。
体裁だけの――仮初の四人家族を作ろうとしている。三人が違うとしても、舞人ひとりがそう考えているなら、家族として成立するのだろうか。
舞人本人が直接関わっていないにしろ、御影歌夜を切り捨てた前例があり、不安だった。
否、あの男は舞夜の駒に過ぎない。舞夜の
咲幸と舞人それぞれの懸念点から、現在でも求婚にはやはり頷けなかった。
*
十二月二十六日、火曜日。
倖枝は午前七時半に目を覚ますと、今日が可燃ゴミの回収日だということを思い出した。いつもは咲幸が登校の際に出しているが、冬休みでまだ寝ているため、代わりに出すことにした。
「さっちゃん。ゴミ集めるから、入るわよ?」
咲幸の部屋の扉をノックした後、倖枝は開けた。暗がりの中、ゴミ箱を手に取り部屋を出た。
リビングで、大きいゴミ袋に中身を移そうとしたところ――ゴミ箱の最上部に、ピンク色の羊革手袋が見えた。手首部分にファーが付いている、可愛いものだ。昨冬に咲幸が使用していたのを、覚えている。
手袋自体にキズや破れは無く、まだ使用可能なものだった。どうして捨てるのだろうと疑問を持つと同時、倖枝は思い出した。
そう。この手袋は、咲幸が誕生日に舞夜から貰ったものだ。
「ふぁ……おはよう……。ゴミ出し、ありがとう」
咲幸が自室から、眠たげに現れた。倖枝の入室で、目を覚ましたのだろう。
倖枝はゴミ箱を漁っているわけではないが、手袋を眺めていたのを咲幸から見られた。
「ああ、それ? クローゼットから出てきたんだけど……もう要らないかなって……」
流石に見ない振りを出来ないのか、咲幸は苦笑しながら触れた。
「そう……。それじゃあ、捨てるわよ」
「うん……。ごめんね……」
何に対しての謝罪なのか倖枝は分からないが、ゴミ箱を逆さにしてゴミ袋に中身を移した。
別れた恋人からの贈物を残す必要は無いと、倖枝にも理解できる。あのような別れ方であれば、なおさら名残は無いだろう。
「あの子のこと……付き合ってる時から、なんだか姉妹みたいだったんだ……」
咲幸はソファーに座り、ぽつりと漏らした。
「境遇が似てたからかな……。似た者同士、わかり合えるんじゃないかなって、思ってたの……」
虚空を見上げ、ぼんやりとしていた。
まだ別れて数ヶ月だというのに、遠い過去を語っているようだと、倖枝は思った。
思い返せば、ある時を境に、ふたりの仲が縮まっていた。確かに、恋人というより姉妹のようだったと納得した。皮肉にも、片親という境遇で通じたのだろう。
「でも、似てるようで何かが違った……。距離を置いたから、余計にそう思うよ……。わかってるようで、わかっていなかったのかも……」
結果的には、この部屋での光景を見たことが引き金となった。
しかし、咲幸の口振りとしては、もしもそれが無かったとしても、いずれ擦れ違いが生じたように倖枝は聞こえた。
そして、繋ぎ止められなかった自分に責任があるようにも聞こえた。
「――って、朝っぱらから何語ってるんだろうね」
倖枝はゴミ袋の口を縛りながら、咲幸の苦笑を聞いた。
気まぐれではない。目覚めてすぐ、まだ頭が覚醒していないからこそ喋れたのだと思った。寝言の延長だろう。
ゴミ出しの準備が終わると、倖枝はソファー越しに咲幸を背後から抱きしめた。
「さっちゃんは悪くない。悪いのは、弱かった母さんだから――お願いだから、自分を責めないで」
非は全て自分にあると、倖枝は自覚している。舞夜にも無い。
ふたりに対する謝罪をどれだけ重ねても、決して許されることではない。時間と共に和らいでいた罪悪感が、再び倖枝を蝕んだ。
「お互い、あのことは忘れましょう……」
だが、もうどうにもならない以上、そうするしか無い。
咲幸とふたり、この件はこれまで見ない振りをしていた。改めて向き合うと、やはり辛いものだった。笑い話にも出来ない。冗談でも、触れてはいけないのだ。
倖枝はゴミ袋を持つと、部屋を出た。戻ってきた時には、ふたりの空気も気持ちも仕切り直すという意味合いで、一度離れた。
スウェットの上からカーディガンを羽織るだけでは寒く、倖枝は身を震わせた。途中、同じマンションの住人とすれ違う度に会釈をしながら、一階のゴミ捨て場まで降りた。
あとは、ゴミステーションに放り込むだけだが――倖枝はふと思い立った。周りに人が居ないことを確かめると、ゴミ袋を開けた。
中を漁り、手袋を取り出した。幸い、ほとんど汚れていなかった。
咲幸は捨てようとしているが、捨ててはいけないと倖枝は思った。
もしかすれば、まだ咲幸に舞夜への未練が僅かながらに残っているのでは――倖枝に、そのような予感が芽生えた。
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