終章
第125話
十一月。
二十二歳の嬉野咲幸は、クロスバイクを漕いでいた。
この自転車を使用して、もう五年になる。こまめに保守点検を行い、大切に扱っているので、現在も特に不満の無い乗り心地だった。
自動車の教習所に八ヶ月通った末、運転免許を取得した。しかし、卒業後に自動車を運転する機会は一度も無かった。
秋の晴れ空の下、咲幸は『愛車』で風を切った。朝晩は冷え込む季節だが、日中は暖かいため、心地良かった。
懐かしい地を走っていた。街並みの風景は、過去から変わったものがあれば、変わらないものもある。それらを眺めながら、目的地へと向かった。
郷愁に駆られながらもクロスバイクに跨る咲幸は、パンツスーツ姿だった。ビジネスリュックを背負い、ヘルメットを被っていた。
スーツを着るようになり約一年になるが、まだ着せられているように感じていた。
午前十一時頃、目的地へと到着した。
駐車場には三台の自動車があった。駐輪場が無いため、咲幸は入り口付近にクロスバイクを置いた。
建物内からガラスの扉越しに、こちらの姿が見えるのだろう――咲幸は視線を感じながら、ヘルメットを脱いだ。リュックサックを下ろし、手に持った。
そして、毛髪を整えると、建物を見上げた。
看板には『HF不動産販売』と書かれていた。
咲幸は一呼吸して気分を落ち着かせると、真剣な面持ちで扉を開けた。
「こんにちは。失礼します」
挨拶と共に、店内を見渡した。カウンターテーブルの向こう、狭い事務所には三つの机が向かい合い、三人の従業員が居た。
その中の、ひとり――咲幸が先程から感じていた視線は、マッシュヘアーの人物からだった。とても驚いた表情で、咲幸を見ていた。何かを言おうと唇が動くが、言葉までは出ない様子だった。
その人物は中性的な容姿であり、一見では性別がわからないだろう。だが、咲幸は女性であると知っていた。
「て、店長……」
三人の中で口を開いたのは、咲幸の目から頼りなく見える男性だった。
男性の視線の先――最も奥の机に座っている女性も、驚いた表情を浮かべていた。
いや、咲幸には、焦燥に駆られているように見えた。
そして、随分老けたように感じた。
「本日は、御社への就職を希望して参りました。お忙しい中、申し訳ありませんが、採用面接を執り行って頂けないでしょうか?」
三人と対面するも、咲幸は動じることなく、入り口で用件を伝えた。
店長と呼ばれた女性が立ち上がり、咲幸を睨みつけた。
「残念ですが……弊社では現在、営業職は募集していません」
声が震えていた。落ち着いた口調とは裏腹に、感情をなんとか押し殺しているのだと咲幸はわかった。
こうして拒否されることは想定済みだった。事実、この店の求人情報は、どれだけ探しても見つからなかった。
「営業職での採用を希望しているのではありません」
しかし、必ず雇わせるだけの説得材料が咲幸にはあった。
もう、無力な子供ではない。絶対の
「私は、司法書士です――司法書士として、この店に置いてください。給与はそちらの都合で構いません」
その言葉に、店内はさらなる驚愕の空気に包まれた。
咲幸としても、実にバカげた話だと思う。司法書士の在籍する不動産屋など、聞いたことが無い。かろうじて、不動産取引も扱っている兼業の司法書士事務所が在る程度だろう。
司法書士が在籍することで、不動産屋には利点が大きい。登記手続きをはじめ、法律文書の作成を自社で行える。また、従業員や顧客からの法律に関する相談役にもなる。
しかし、司法書士本人としては、金銭収入が一般的な事務所に在籍するより遥かに劣る。だからこそ、バカげた話なのだ。
それでも――咲幸はこのバカげた話を現実に叶えたい夢があった。そのために、五年もの間、血の滲むような努力をした。
「わかりました……。面接だけでも、行いましょう。どうぞ、こちらへ」
店長はまだ顔色が悪いが、商談スペースへと向かった。
パーテーションで区切られた空間には、ひとつのテーブルと四つの椅子が置かれていた。
「失礼します」
案内された咲幸は、店長と向かい合って座った。そして、リュックサックからクリアファイルを取り出し、顔写真付きの履歴書を店長に差し出した。
店長は自身の正面に履歴書を広げるが、目を落とすことはなかった。複雑な表情で、咲幸を睨んでいた。
ブラインドの隙間から、秋の穏やかな陽射しが漏れていた。
こうして向き合うことが出来るまで、咲幸は五年の歳月を要した。
ただ、力を欲した五年間だった。
社会人として、ひとりで生きるための力ではない。ひとりの人間として、幸せを掴み取るための力だ。
それを手に入れた現在、ようやく目の前の人物と対等に成れたと思った。咲幸は込み上げる気持ちを抑え、店長の目を真っ直ぐ見た。
面接とは、自分を売り込むための場だ。
――自己紹介をお願いします。
嬉野咲幸と申します。
ちょうど一年前……大学四年生の秋に、司法書士試験に合格しました。その後、大手の事務所に所属しながら新人研修を終えました。連合会に名簿登録しましたが、司法書士会にはまだです。
――大学を卒業しているのですか?
はい。法学部を四年で卒業しました。
貯金がありましたので、アルバイトをすることなく、勉強だけに集中しました。
――現在も事務所に所属しているのですか?
いいえ。先週、退所しました。
この一年間、実務経験を通して多くのことを学びました。ようやく一人前に成れたと思っています。
――弊社を希望する理由は何ですか?
私の知る限り、御社が最も優れた不動産屋だからです。
従業員三名にも関わらず、大手チェーン店と同等の、数多くの仲介契約を取り扱っています。それだけ顧客からの信用が厚く、また月城住建様との取引があることからも、安定性を感じます。
右肩上がりで業績を伸ばしている御社と共に、私個人も司法書士として成長できると考えています。
――自己PRを聞かせてください。
負けず嫌いなところです。
高校三年生の時、千五百メートル走でインターハイ本戦にまで出場しました。しかし、予選で敗退し、大きな敗北感を味わいました。その経験があったからこそ、大学受験も……司法書士試験も、一度で合格することが出来ました。
この向上心を、御社でも生かしたいと思っています。
悔しい思いだけは、もう二度と味わいたくありません。
――貴方にとっての幸せとは何ですか?
大切な人と、ずっと一緒に居ることです。
幸せとは、誰かが決めるものじゃない。たとえ、望まれたものと違ったとしても……期待に応えられないとしても……あたしが心から望むものが、あたしにとっての幸せです。他の誰にも絶対に譲れません。
咲幸は、順に答えた。
最後を除き、想定していた質問と、準備していた回答だった。
面接とは、これまでの人生を査定される場だ。二十二年を振り返って回答を考えていた時から、咲幸はそのように感じていた。
現在までどのような人生を歩き、そしてこれからどのように歩いていくのか――目の前の人物と話せて良かったと、咲幸は思った。
店長はいつの間にか口元を手で覆っていた。睨んでいた視線を下に向け、瞬きの回数が次第に増えていった。そして、何かに耐えられない様子で、俯いた。
「最後に……HF不動産販売という名前の由来を知っていますか?」
質問の声が、震えていた。
「ハッピーフィールド――店長の名字である『嬉野』が由来です」
咲幸は即答した。
公にはなっていない、一部の人間しか知らない由来だ。
「私は、両親から……枝のように多くの人と交流を持って、それぞれと幸せになって欲しい……その願いを込められて倖枝と名付けられたわ……」
これは咲幸にとって初耳だった。
「でも、それは出来なかった」
咲幸には、営業職の割には外交的でなく、何事もひとりで淡々とこなしている印象があった。
だが、それだけではない。まだ自分が産まれていない時から、名前とは裏腹に『孤独』を選んだことを、咲幸は知っている。
「枝は一本だけでも構わない……。私という枝から、ひとつだけでもいいから確かな幸せが咲いて欲しい……。だから、貴方にその名前を付けたのよ……咲幸」
店長は顔を上げた。表情は、涙でひどく乱れていた。
そのような由来で――そのような願いで名付けられたのだと、咲幸は現在初めて聞かされた。
「おかえりなさい、さっちゃん……。立派になったわね……」
五年振りに母親の泣き顔を見たからであろう。咲幸もまた、抑えていた感情が溢れ出し、自然と涙を流していた。
母親の涙には、根負けの他――少なからず謝罪の意味も込められていると分かった。あの時の『真意』がどうであれ、決して許されない仕打ちを受けたと、咲幸は思っていた。
今日この場で、文句のひとつでも言うつもりだった。現在も怒りが込み上げているが、咲幸の中ではそれも含め、様々な感情が入り混じっていた。
それらが涙となって集まり、咲幸の瞳からこぼれ落ちるかのように――咲幸が求めたものは『幸せ』だった。
そう。奇跡を祈って待つのではない。ようやく、自分の力で掴み取ったのだ。
たとえ母親の望まない人生を歩くことになろうとも、咲幸はただ、これから先も一緒に居たかった。生きる術を持った現在、あらゆる言動に責任を負う立場に成った現在、改めてそう『選択』した。
咲幸は自分の涙を拭わぬまま、その決意を言い表した。
「ただいま……ママ」
娘は、魔女を倒した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます