第102話

 一月十四日、日曜日。

 この土日で、大学入試共通試験が全国で実施された。

 倖枝は咲幸の体調の他、天気を心配していた。しかし、冷え込みはしたものの、雨も雪も降ることなく、電車は通常通り運行していた。咲幸を試験会場の大学へと自動車で送り届けたいところだが、渋滞や万が一の事故を考え、電車を使わせた。

 咲幸自身も心身ともに問題なく、無事に試験を終えた。


 咲幸は緊張の面持ちで帰宅後、ひと休みしてから二日分の自己採点を行った。それを終え、ようやく緊張が解けた様子で自室から出てきた。

 他の受験生との相対的な評価は分からないが、ひとまず目標点数を突破したようだ。

 倖枝はその結果を信じていたので、祝う意味で事前にすきやきの準備をしていた。めでたい気分で、夕飯を迎えた。


「ロースなだけあって美味しいけど……お祝いって言っても、まだ早いよ。あくまでも本番は、来月の二十四日だからね」

「そう考えると、まだ先ね。でも、一ヶ月以上もピリピリできないし、メリハリつけなさい。美味しいの食べて、英気を養わないと」

「一ヶ月も無いよ。来月になったらすぐ、私立あるし」


 そうだったと、倖枝は思いだした。俗に言う『滑り止め』になる第二志望校の試験が、先にあるのだ。先月時点で願書を出していた。

 願書といえば、これから第一志望校のも提出しないといけない。壁のカレンダーに、締切日が目立つように書かれていた。

 時間はあれど予定は詰まっているのだと倖枝は理解し、浮かれ気味だったことを反省した。

 とはいえ、既に目の前にある以上、ふたりですきやきを美味しく食べた。


「あ……私立の受験の前に、さっちゃんのお誕生日ね」


 倖枝はカレンダーを眺めていると、ふと思い出した。受験に関する予定はカレンダーに書かれているが、誕生日には印すら無かった。


「今年はいいからね?」


 咲幸は苦笑した。

 肯定ではなく、結構という意味だと倖枝は理解した。時期が悪く、確かに祝っている場合ではないと思う。


「折角の、十八歳の誕生日なのよ?」


 しかし、成人という節目を迎えるため、倖枝は無視できなかった。


「選挙権もあるし、ひとりで不動産もケータイも契約できちゃう」


 倖枝は口にしながら、波瑠がルームシェアの話を持ち掛けたことを思い出した。保護者の同意無く、本人達だけで賃貸契約が可能だ。

 だが、決してそのようにはならないと信じた。


「サユはそういうのより、お酒飲みたいなぁ」

「それはまだダメなの。母さんだって……お酒もタバコも、二十歳になってからよ」


 本当は二十歳以前から手を出していたが、教育上言えなかった。

 咲幸本人にしてみれば、それらの制限が無くなり、また成人式という行事のある二十歳の方が――確かに、成人の実感があるだろう。

 しかし、後見人が不要になる十八歳という年齢は、倖枝にとって感慨深かった。


「まあ、今年は盛大なお祝いは出来ないけど……ちょっとした御馳走とケーキ、あとプレゼント用意するわね」


 これが倖枝の妥協案だった。せめて、最低限は祝いたかった。

 倖枝は口にしながら――そういえば去年はどのように祝ったのだろうかと、ふと思った。


「ありがとう、ママ。サユはそれで超嬉しいよ。クリスマスのカイロもすっごい助かってるし、プレゼント楽しみにしてるね」

「ちょっと……。お願いだから、そうやってハードル上げないで……」


 そう。去年は舞夜とふたりで、手料理を振るったのだ。ケーキも焼鳥もひどく不格好になり、咲幸からおかしく笑われたのを覚えている。

 会話の流れとして必要が無いからか、それとも意図的に避けているのか――咲幸は去年のことに一切触れなかった。


「えー。折角そう言ってくれてるんだから、ハードルも上がっちゃうよ」


 去年の誕生日は、咲幸と舞夜の仲を再び繋いだ。

 難しいが、今年も去年のようにならないかと、倖枝は考えた。


「わかったわよ。楽しみにしてなさい……」


 時間経過による関係の自然修復など、あり得ない。何にせよ舞夜と動かなければならないのなら、これが良い機会だと思った。

 咲幸と舞夜の復縁に、少しだけ希望が持てた。



   *



 一月十七日、水曜日。

 休日の倖枝は朝から家事に取り掛かり、午前十一時頃には片付いた。

 リビングのソファーに座り、昼食をどうしようかと考えていた。しかし、落ち着いた時間が訪れたせいか、思考は咲幸の誕生日へと移った。

 誕生日の贈物、そして舞夜と咲幸の仲について、頭の中が覆われた。


 三年生の咲幸は来週の学年末試験まで授業があり、来月から自由登校となる。とはいえ、咲幸の話では現在から既に登校する同級生は減っているらしい。

 ――舞夜が登校しているのか、咲幸は語らない。

 しかし、倖枝は舞夜が自宅に居るような気がした。携帯電話を手に取り、舞夜に電話を発信した。


『もしもし……どうしたんですか?』

「ねぇ。どうせ、学校サボってるんでしょ? 今からランチ行かない?」


 繋がるや否や、早々と用件を口にした。


『……構いませんけど、言い方どうにかなりませんか?』

「別に、もう学校行かなくてもいいじゃない。それじゃあ、迎えに行くわね」


 律儀に登校している咲幸が愚かであると、倖枝は思わない。この時期は各々に合ったやり方で過ごし、無理をしないことが大事だと思う。

 倖枝は部屋着から私服に着替えると、部屋を出た。寒空の下、自動車で舞夜の館へと向かった。


「寒いから、ラーメン食べに行きましょう」

「はい……。ていうか、何だっていいですよ」


 館で拾った舞夜を助手席に乗せ、チェーン店のラーメン屋へと自動車を走らせた。

 舞夜は不機嫌というより、気だるげな様子だった。受験疲れなのか、それとも――倖枝が舞夜と会うのは、年始の挨拶以来だった。

 あの時、舞夜が涙を流したのを、倖枝は覚えている。まだ『答え』が出せないことに対し、申し訳なく思う。

 今日は食事を楽しむ他、それらに関することを改めて話したい意図もあった。


「共通試験、お疲れさま。手応えあった?」

「まあ、それなりには……」

「それは良かったわ。……あの御守のお陰かしらね」


 倖枝はさり気なく、あの時のことに触れた。


「そうかもしれませんね……。ありがとうございました。ちゃんと携帯してますよ」


 前方を見て運転しているので、舞夜の表情は分からない。だが、淡々と語る声は、倖枝には嘘偽りなく聞こえた。

 倖枝は舞夜に三つの御守を贈った。合格祈願、健康、そして心願成就だ。前のふたつで大学受験を無事に突破して欲しい。それよりも、最後のもの――自分の夢を叶えて欲しいという願いが、特に強かった。

 結局のところ、倖枝は舞夜の言う将来の夢を未だに知らない。母親としての後押を求められたので、目を背けた。

 本当の母娘に成れたのなら、向き合わなければいけないだろう。その可能性はあるが――どちらに転ぶにしても、倖枝なりに御守で応援したつもりだった。

 やがて、黄色い看板が目印のラーメン屋に到着した。


「肉そばって書いてますけど……」

「詳しい違いは知らないけど、要するにラーメンよ」


 ファミリーレストランのように広い店内は、カウンター席だけでなくテーブル席もある。女性や家族連れでも入店しやすい雰囲気だと、倖枝は以前から感じていた。

 平日だが正午になろうとしている時間帯のため、店内は混んでいた。しかし、まだ待たずにテーブル席に座れた。

 倖枝はこの店の看板メニューである醤油ラーメンが好きだったが、今日は寒いので、味噌ラーメンを選んだ――舞夜に対し、通ぶりたい気持ちも含まれている。

 一方の舞夜は、辛い醤油ラーメンを選んだ。


「あれ? あんた、辛いのいけるクチだっけ?」

「寒いから身体を暖めたいだけです」

「折角なんだから、味で選べばいいのに……」


 舞夜が気だるそうに語る理由に、倖枝は一応納得した。

 しばらくして、ふたつのラーメンが運ばれてきた。赤い唐辛子の粉とニラの載ったラーメンを、倖枝は見ているだけで鼻に汗が浮かんだ。


「辛いですけど、美味しいですね。あっさりしているようで、味がしっかり染みます」


 額に汗を浮かべながら、舞夜が麺を掻き込んでいた。普段の淑やかさが無い様子は、本当に味わっているように、倖枝には見えた。

 倖枝の味噌ラーメンは今ひとつだった。醤油ラーメン以外を選んではいけないと思った。

 ふたり共食べ終えると、舞夜が口直しにアイスクリームを注文した。カップに入った、チョコレートソースがかけられているものだ。倖枝はイチゴソースのものを便乗した。


「結局、身体冷やしてるじゃない」

「美味しかったから、いいんですよ。……連れてきてくれて、ありがとうございました」


 無愛想だが汗を浮かべている舞夜が、何かひと勝負した後のように見えた。

 甘い物を食べ、食事は落ち着いた。倖枝はこの後カフェに場所を変えるつもりだったので、ここでのアイスクリームは丁度いいと思った。

 ようやく、本題に移れる。


「ねぇ。さっちゃんの誕生日プレゼント、悩んでるんだけど……どの色がいいと思う?」


 倖枝は携帯電話のメッセージアプリで、舞夜に通信販売サイトのアドレスを送信した。

 舞夜は自分の画面を眺めた後、携帯電話をテーブルに置いた。


「……どうして、わたしに訊ねるんですか?」

「今年は、私とふたりで渡しましょう。……去年と同じで、これで仲直りよ」


 無愛想な舞夜の表情が、怪訝なものへと変わった。

 咲幸に未練があるという情報を与えたのだから、出来れば舞夜ひとりで動いて欲しかった。しかし、その気配が一向に無いので、倖枝が動かざるを得なかった。


「無理ですよ」


 舞夜が動かなかった理由は、受験生にとって最悪の時期だからではない。咲幸との復縁を諦めている。

 辛い経験をしたのだから無理がないと、倖枝は思う。


「たとえ無理でも、やるのよ。あんただけのためじゃない……私のためにもね」


 だが、どうしてもふたりを繋げなくてはいけなかった――倖枝がふたりの母親に成るために。舞夜の望む未来を手に入れるために。そして、風見波瑠の望む未来を回避するために。


「誕生日に、私と一緒に渡すだけよ。私が側に居るわ。私を信じなさい」


 上手くいく保証など無い。信じさせる根拠も無い。

 それでも、何にせよ咲幸の前に舞夜を連れ出さなければいけなかった。昼時の喧騒に包まれたラーメン屋で、倖枝は舞夜を真っ直ぐ見つめて訴えかけた。


「……わかりましたよ。泣いても笑っても、これが最後ですからね」


 舞夜は根負けしたようで、渋々頷いた。

 もしも、縒りを戻せなければ――倖枝は自分から提案しておきながら、悪いように考えた。受験生のふたりの精神こころに、計り知れない傷を負わせることになるだろう。


「ありがとう」


 その危険を知りながらも話に乗ってくれた舞夜に、倖枝は感謝した。


「というか……どうしてこれなんですか?」

「あんたにボールペンが必要だったみたいに、十八になるさっちゃんには、これが必要なのよ」

「へぇ……。わたしには、わかりません」


 釈然としない様子で、舞夜は携帯電話の画面に指を滑らせた。

 肝心の意図を黙っているので当然の反応だと、倖枝は思った。


「それで、どの色がいいと思う?」

「うーん……。咲幸になら、ピンクですかねぇ」

「そうよね。私も、さっちゃんにはピンクが似合うと思うわ」


 六色ある製品からピンクを選ぶと、必要な情報を記入のうえ、注文した。

 咲幸は普段の生活で、ピンクとの関連性は低い。ピンクの衣服を着ることがほとんど無ければ、小物を持つことも少ない。

 それなのに、どうして似合うと思ったのか。どうしてクリスマスにピンクの充電式カイロを選んだのか。

 倖枝は後になってふと疑問に思うが、深く考えずに流した。

 去年の誕生日――舞夜がピンクの手袋を贈ったことが印象に深く残っているからだが、倖枝は知る由も無かった。

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