第123話

 御影歌夜はロッキングチェアに揺られながら、目の前にある暖炉の炎をぼんやりと眺めていた。

 祖国に移住して、一年が経過した。

 自身ではなく、母親の生まれ育った場所だ。歌夜にとっては異国だが、幼少より何度か訪れたことがある。また、母親を通して過去から文化に触れていたことから、不思議と親しみや懐かしさがあった。言語も多少は理解できた。


 現在は古びた館で、母親とふたりで何不自由なく暮らしていた。

 歌夜はこの国に移る際、離婚の財産分与から多額の金銭を手に入れた。

 これだけあれば、何だって出来ると思っていた。

 しかし、何も出来なかった。金はあれど、自身はひどく無力だった。

 幼少より、他所に嫁ぐための令嬢として育てられた。結局は、誰かに縋って生きる術しか持っていないのだ。

 かつて、子供の頃に見た夢を追い求めるのは――齢四十四の現在、あまりにも遅すぎた。ただ『失敗』を恐れた。危険を犯して折角の財産をすり潰すより、細々と生きる方が賢明だろう。

 残りの人生を、遊んで暮らすことは可能だ。

 たとえ、どれだけ無意味で、どれだけ虚しくて、どれだけ惨めでも構わない。これが、家庭を捨てるという『選択』の末路なのだから、後悔をしてはいけない。


 もうじき四月になるというのに、この国の春先は気まぐれだった。初夏のように暖かな日もあれば、真冬のように凍える日もある。

 今夜は特に冷え込んだ。ブランケットを膝に置き、ホットワインを片手に、リビングの暖炉の前から動くことが出来なかった。

 ――いや、この一年間ずっと動けずに居た。


 ふと、玄関の扉に取り付けられている呼び鈴が鳴った。

 母親が応えたようで、歓声が歌夜の耳に届いた。こんな時間に、よほど嬉しい来客らしい。

 歌夜はその様子に興味が無く、無気力にホットワインを飲んでいた。

 しかし、その後リビングに人影が現れたのを感じ、振り返った。


「……こんな所で、何やってるのよ?」


 まるで、夢を見ているかのようだった。暖炉で揺らめく炎を長時間眺めていたからか、ぼんやりとした感覚だった。

 その姿を見ることは、もう二度と無いと思っていた。現れるはずの無い人間が、キャリーケースを片手に立っていた。

 しかも、少女ではなく立派な淑女の面持ちだ。どこか自信に溢れる表情は、たった一年振りだというのに、驚くほど成長しているように感じた。

 チェスターコートとタックパンツ姿の女性は、手袋とマフラー、長い黒髪からニット帽を脱いだ。


「留学に来ました……表向きは」


 そして、キャリーケースを開け、一冊の分厚いファイルを取り出した。

 それを歌夜は受け取った。手渡される際、右手の小指に黒猫の指輪が嵌っているのが見えた。

 ファイルには、ペリカンのクチバシを模したクリップのボールペンが挟まっていた。


「この国で、ファッションブランドを立ち上げようと思うんですよ。デザイナーには声をかけましたし、生産ラインも確保できそうです」


 その言葉通り、ファイルには具体的な計画が事細かにまとめられていた。とても現実味のある内容だった。

 歌夜は顔を上げると、女性は暖炉に手を伸ばしていた。


「でも、わたしは会社の表立った『顔』には不向きですので、かたちだけでも社長に成ってくれる人を探してます――ついでに、共同出資者も」


 女性は歌夜に振り返ると、微笑んだ。


「……私のこと、許してくれるの?」


 歌夜は自然と涙が溢れていた。

 再会の嬉しさや感動ではない。自らの『選択』の罪悪感が込み上げたのだった。


「わたしの方こそ、許してくれるんですか?」


 歌夜は苦笑する声を聞き、そっと肩を抱きしめられた。


「……ばか」


 この女性に、どれほど酷い仕打ちを行っただろうか。

 裏切られたのではない。裏切ったという自覚を持っていた。非を認めないまま、逃げるようにこの国へとやって来た。どれほど謝罪しても許されることではない。

 それなのに、かつての自分の夢を抱えて――突き放したはずの娘が現れた。


「人生は一度きり……」


 その言葉と共に、歌夜は娘から顔を覗き込まれた。


「泣いても笑っても、一度きりの人生なんですから……。どうせなら、後悔の無いよう好きに生きて、楽しみましょう」


 かつて、自分がその言葉を伝えたからだろうか。歌夜の脳裏を、遠くに居る『親友』の顔が過ぎった。

 だが、それも一瞬。娘から無邪気な笑顔を向けられ――おてんばだった幼少の娘に、ぐいぐいと手を引かれて歩いたことを思い出した。

 現在は、どこまでも導いてくれる予感がした。安心感に包まれていた。


 一体、いつから忘れていたのだろう。

 歌夜にとっては、とても懐かしい言葉だった。最後まで、娘に伝えられなかった言葉だった。

 それがどういうことか、娘の口から返ってきた。

 そう。まだ遅くはない。手塩にかけて育て上げた自慢の娘となら、現在でも夢を叶えられる。

 この人生を楽しめる。


「何も、お嫁さんになることが『わたし達』の幸せなんかじゃない。……違いますか?」


 腹を痛めて産んだあの日から――自分と同じように既定路線の人生を歩ませたあの日々は、決して無駄ではなかった。こんなにも立派に育ったのだから。

 虫の良い話であるとは思う。それでも、もう一度ふたりで歩きたいと思った。後悔はしたくない。


「そんなの、当たり前じゃない……」


 歌夜はもう、謝罪の言葉を漏らさなかった。

 代わりに、過去も現在も受け入れた。そのうえで、未来を欲した。


「そうですよね――お母様」


 娘の瞳は自分と同じ藍色のはずだが、歌夜にはなんだか明るく感じた。

 青色に見えた瞳は、まるで夜明けを彷彿とさせた。


 時刻は午後九時五分。

 女は、止まっていた時間が動き出した予感がした。

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