第40章『二択(前)』
第107話
「土壇場でこういうこと言い出すのは、申し訳ないと思います。娘からは黙っておくよう言われてますが――やっぱり、貴方は知るべきだ」
モデルハウスのダイニングテーブルで、婚約指輪の入った小箱を挟むように向かい合い――月城舞人が微笑んでいた。
いつもの飄々とした雰囲気から、また軽口でも叩くかのように、倖枝は見えた。だが、わざわざ舞夜から口止めされていることを話そうとするのは、ただ事ではないと頭では理解した。
「何を……ですか?」
倖枝は恐る恐る訊ねた。
「倖枝さん……貴方もお分かりだと思いますが、僕は貴方を特別好きではありません。……前妻もそうでした」
それは倖枝が以前から感じていたことだった。本人から改めて告げられたところで、驚くことも――傷つくこともなかった。
「私だってそうですから、お気になさらないでください」
倖枝もまた、同じなのだから。
そう。この結婚は、中年以上の男女ふたりが愛し合った結果では無い。
婚約という『契約』を締結する直前に、今更ながらその事実を確認しようというのか? 舞夜もそれを理解したうえで、失礼だからと口止めしたのだろうか?
――倖枝は、そうは思えなかった。もっと大切なことを伏せているような気がした。
「僕にとってこの再婚は『手段』のひとつなんですよ」
「何の、ですか?」
「娘を僕の手元に置いておくための――ね」
娘を送り出すために結婚する自分と、娘を引き止めるために結婚する舞人。おそらくまだ断片的な台詞だが、倖枝は自分と対称的だという印象を持った。
「確か……ちょうど、娘が十八になってすぐでした。僕に言ってきたんですよ――家業を継ぐのは止めて、自分の夢を叶えたいって」
あの時期のことは、倖枝もよく覚えている。
咲幸のために何かを遺そうと考えていたと同時、咲幸の母親で居ることを強く決心していた。だから――自分の夢に母親としての後押を求めてきた舞夜を、拒んだ。
舞夜があれから、後押が無くとも自分の考える
「これまで、親の言うことには素直だった子が……いったい、どうしてですかねぇ……」
舞人は口元に笑みを浮かべながらも、背中を撫でるようなじっとりとした視線を向けてきた。
倖枝はまるで、責任を問われているかのようだった。舞夜の誕生日にバーで舞人を酒を飲んだ際、舞夜の家業以外の進路に触れた。舞夜をそそのかしたと疑われても、仕方ないだろう。
「まあ、それはどうでもいいです……。念のため、僕は娘に訊ねました。どうすれば、考え直してくれるのか――」
「そのための条件が、私との再婚ですか?」
その問いに、舞人は静かに頷いた。
「どうです? それでも『返事』は変わりませんか?」
倖枝は求婚の裏側にあった事情を理解した。
事は思っていたより深刻だった。確かに、今日この場で頷くはずだった心構えは――話を聞いたことにより、揺らいでいた。改めて考え直す必要がある。
そう。この返事は最早、倖枝ひとりの問題ではない。突き付けられた『二択』は、舞夜の将来もを決定付けるものとなる。
ただ、現在は解せない点がひとつだけあった。
「でも、どうしてですか? 余計なことを喋らなければ、社長さんの思い通りになったはずでしょ?」
倖枝は首を横に振りながら、訊ねた。
わざわざ舞夜を引き留めようとしたのだから、舞人にとっての目標は再婚だ。どう考えても、父娘間の事情は伏せておいた方が得策だった。嘘をついているわけではないので、騙すことにはならない。
直前になり、わざわざ話した意図が、倖枝には分からなかった。
「言ったでしょ? 『念のため』と……。そりゃ、どちらかというと娘にも家業を継いで欲しいですけど……正直、どっちでもいいです。無理強いはしません」
舞人は片腕をダイニングチェアの背もたれに掛け、高い天井を仰いだ。
「
あくまでも、その思想に沿っているとの主張だった。
しかし、倖枝はどこか納得できなかった。こじつけのように感じた。
「それに……貴方に話さないのは、フェアじゃないと思っただけです」
舞人は視線を戻し、倖枝に微笑みかけた。
この場合、事情を知らない倖枝が不利なのではない。
「そうですね……。知らない方が幸せだったかもしれません」
舞夜の気持ちと向き合わなかった倖枝は、舞人から引きずり降ろされたような気分だった。責任を転嫁された――いや、問題を共有する意図なのだと理解した。
「ていうか、単に社長さん寂しいだけでしょ?」
舞人の視点を考えて、まず浮かんだことがそれだった。
舞夜の進路に口を挟むつもりは無いと言いつつも、どちらかというと継いで欲しいと願っている。相反する二点は明らかに矛盾しているのだ。
「あはははは……。いやー、そうかもしれませんねぇ」
いつものように明るく笑う姿が、倖枝にはとぼけているように見えた。きっと、図星なのだろう。
それが悪いとは思わない。同じ歳の娘を持つ身として、むしろ共感できる。
だが、いつまでも繋いでおくわけにはいかないのだ。
「私は、娘のために結婚を考えていました」
今日伝えるはずだった返事の内容は舞人も理解しているはずだが、倖枝は改めて口にした。
「どういうことですか?」
「私自身が身を固めないと、娘を送り出せないからですよ」
「……なるほど。片親なら結婚できないと?」
「はい。私は周りに、老後を頼れるような人は居ませんから……社長さんと違って」
同じ片親でも、舞人とは事情が違うと思っていた。
老後の資産だけではなく、月城という一族に囲まれているなら、舞夜の伴侶となる人物は世話の不安を持たないだろう。それよりも、地位や家柄が難点になるかもしれないが。
「そもそもですけど……子供に結婚して欲しいですか? 結婚が幸せだなんて、古くありません?」
根本を否定する舞人に、倖枝は違和感を覚えた。
そう。以前バーで話した時、次の代へと資産を受け渡すという思想を聞いていたのだ。代を途絶えさせる考えもまた、矛盾する。
「確かに、古い考えかもしれませんね……。それじゃあ、社長さんは……結婚しなくても子供さえ居れば、それでいいんですか?」
「はい。……まあ、極論ですけどね。結婚なんて、所詮は子供を持つための『手段』ですよ」
子供さえ居れば結婚自体はどうでもいいと言っているように聞こえた。
御影歌夜とのことから――舞人のその言葉には説得力があると思った。己の思想に、やはり忠実なのだ。
それを知りながらも、求婚を受けようとしていた。互いの
「子供が結婚することが、子供にとって本当に幸せなのか……僕には分かりません」
月城舞人という男にとっての幸せが何であるのか、倖枝には分からない。少なくとも、家庭を持つことでは無いだろう。
しかし、当事者ふたりならまだしも、子供にまで影響が及ぶなら、口を挟まなければならなかった。
「私は……私と違って娘がきちんと結婚すれば、きっと幸せになれると信じてます。だから、私の元から送り出さないといけません」
――
以前バーで、咲幸には大学までを卒業して欲しいと話した際、そのように言われた。
倖枝は、自分のろくでもない人生の『反省点』を理解している。だから、たとえ押し付けることになろうとも、反面教師として同じ
「それを、貴方の娘さんは望んでるんですか?」
ふと、舞人が漏らした。
「子供の望みを叶えてあげるのが、その子にとって何よりも『幸せ』だと、僕は思いますけど」
その考えを、倖枝は理解できる。
自分の理想を掲げるばかりで、咲幸と相談したわけではない。舞人の言う通り、現代人としての価値観で図り、拒まれるかもしれない。
「娘さん、
舞人は一応、自分の夢に進むという『選択肢』を舞夜に与えている。
だからこそ反論を許さない批判のように、倖枝は感じた。
「いいえ。そこまで導くのが、私の――母親としての役目です」
しかし、こればかりは譲れなかった。倖枝は舞人を真っ直ぐ見つめ、はっきりと否定した。迷いや躊躇は一切無い、力強いものだった。
そう。これは固く決意したことだった。
たとえ拒まれても――それが咲幸にとっての『幸せ』で無いにしても、何としても家庭を持って貰いたい。
「あの子への、私の生涯最後の
他者に話したことで、決意はより一層強くなったように倖枝は思った。
舞人の口元から笑みは消え、真剣な表情を見せた――クリスマスの夜、求婚してきた時のように。
「貴方の覚悟、受け取りました。そのような気持ちで結婚を考えていたんですね……。無礼をお許しください」
倖枝が特に愛していないこの男と一生を添い遂げることも『覚悟』に含まれていた。現在ここで指輪を嵌めたうえで、いつかの将来に咲幸を送り出すと決めていた。
「でも、貴方がそれを選んでしまうと――舞夜は自分の夢を断つことになってしまう。お分かりですよね?」
「はい……」
咲幸を送り出すために、自分がまず身を固める。
或いは、舞夜の夢を後押するために、求婚を断る。
突きつけられた『二択』を、倖枝は改めて確かめた。これのために迷いが生じ、用意していた返事を出せなかった。
「まあ、今日のところは引き続き保留としましょう……。苦しめることになって、すいません。もう少し、考えてみてください」
「わかりました……」
「貴方がどっちを選んでも、僕は尊重しますので……そこは気にしないでください」
「ありがとうございます」
舞人と共に、倖枝も立ち上がった。ケーキの食べかすが床に無いことを確かめると、ふたりで玄関へと向かった。
この家を購入するはずが、思いがけない理由でクリスマスに保留となっていた。そして現在、さらに思いがけない理由で事態は複雑となり、保留が続いた。
舞人は今回も、期限を指定しなかった。きっと、これまで通り催促も無いだろう。
だが、高校卒業と大学入学――新しい季節となる『春』は間近に迫っている。猶予はあまり無いことを、倖枝は理解していた。
玄関でパンプスを履いていると、先に革靴を履いた舞人が振り返り、優しく微笑んだ。
玄関扉に組み込まれている小さな摺りガラスから、光が差し込んでいた。
「最後に、これだけは言っておきます……。自分の夢を諦めることになっても、貴方と家族に成れるなら……舞夜はきっと『幸せ』だと思いますよ」
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