第106話
二月十五日、木曜日。
午前八時になり、倖枝は起きた。休日が明け、倖枝にとっての一週間が始まる。
「おはよう、ママ」
咲幸が先に起き、ダイニングテーブルで朝食を摂っていた。体内時計を整えるため、規則正しい生活を心がけているようだ。
咲幸と同じくトーストを食べようと倖枝は思うも、冷蔵庫を開けるとチョコレートケーキの残りが嫌でも目に入った。大皿ごと取り出し、ひとつを小皿に移した。
「朝からケーキ食べるんだ?」
「ええ。折角作ってくれたんだもの」
寝起きに甘いものは身体に良くないだろうが、現実的な食べられる機会としては出勤前か帰宅後のどちらかだ。夕飯のデザートとして食べるよりは、朝食代わりの方がまだ良いだろうという判断だった。
コーヒーを淹れている間に大皿を冷蔵庫に仕舞おうとしたところ――倖枝はふと思い立ち、タッパーをひとつ取り出した。
「ねぇ。お昼のオヤツに、ひとつ持って行ってもいい?」
その分を抜いたとしても、まだ三切れ残っている。おそらく、後は咲幸が二切れと舞夜が一切れ食べるだろう。
「うん! 仕事の休憩に、甘いの食べて!」
咲幸の了承を貰い、倖枝はタッパーにケーキを詰めた。
可能であれば、タッパーではなくケーキ屋の手提げ梱包箱がよかったが、使用後は捨てている。百円均一の店で昨日の内に用意しておけばよかったと、後悔した。
倖枝も朝食を摂り、洗面と歯磨きを済ませた。
そして、スーツに着替えようとクローゼットを開けると――奥に隠していた、暗い赤色の小箱を取り出した。
クリスマスに月城舞人から『保留』で預かっている案件だ。まだ受け取ったわけではない。
あれから、約一ヶ月半。ようやく倖枝は気持ちが固まり、返答を決意した。
小箱を開けて中身を確かめることなく、そのまま仕事用の鞄に移した。
スーツに着替え化粧を行うと、ケーキの入ったタッパーも持ち、自宅を出た。
HF不動産販売に出勤後、勤務時間である午前十時になるや否や、高橋が店を飛び出した。寒い中、扱う中古物件の現地調査と役所調査に向かった。
店には倖枝と夢子のふたりきりだった。
この時間は来客の予定も無いため、倖枝は鞄からマカロンの入ったビニール袋を取り出した。
「これ……昨日の決済で、二階堂さんから預かってきたわ」
夢子はそれを受け取り、眠たげな瞳で首を傾げた。
「ああ……。そういえば昨日、バレンタインでしたね。ていうか、なんだか去年のデジャヴが……」
しばらくして、菓子を貰った意味を理解したようだった。
夢子も自分と同じことを感じているのだと、倖枝は苦笑した。
「今年は手作りみたいよ。今すぐじゃなくていいから、会ったらお礼言っておきなさい」
「はい。へぇ……よく出来てますね」
夢子は感心しながら、ビニール袋越しにマカロンを眺めた。
昨年、市販のものだと灯に煽ったのは夢子自身だが――倖枝は伏せておいた。
「春名、あんた有給たんまり残ってるでしょ? ウチみたいな小さな店じゃ買取りなんて無いんだから、好きに使いなさいよ?」
休日が重なれば遊びに連れて行って貰っているという、灯の言葉を思い出した。
自分を除きふたりしか居ない従業員に有給を取られるのは、倖枝の本音としては痛手だ。だが、特に夢子に関しては、数少ない友好関係を大切にして欲しかった。
「ありがとうございます。嬉野さんにそう言って貰えると、助かりますが……有給取ったところで、パンダ観に行くかキャンプぐらいですよ?」
「どっちも良いじゃない。もう少しで暖かくなるんだし、考えておきなさいよ」
「わかりました。……ていうか、土日の方がどこも混んでるんですけどねぇ」
口では面倒そうだが、夢子は嬉しそうに微笑んでいた。
きっと、灯にとってどこに行くかは重要ではないのだ。ふたりで同じ時間を過ごせるならそれでいいのだと、倖枝は思った。
「さて、と――私も、一日遅れのバレンタイン頑張ろうかしら」
倖枝はケーキの入ったタッパーを鞄から取り出した。形が崩れていないことを確かめると、給湯室の冷蔵庫にひとまず移した。
「あのケーキ、嬉野さんが作ったんですか?」
「え、ええ……そうよ。月城の社長さんには普段から世話になってるから、バレンタインぐらいはね……」
「大物とのパイプ持ってる人は、違いますね」
咲幸と舞夜の作ったケーキの『横流し』だが、話がややこしくなるので、夢子にはそのような体にした。
そう。求婚の返事にあたり、長期間待たせた詫びとしてケーキを渡すつもりだった。
倖枝は早速、舞人に連絡を取ろうとしたところ――携帯電話の番号を未だに知らないことに気づいた。クリスマスの夕飯に招かれた際も、訊いていなかった。
仕方なく、前回と同じく本社へと電話をかけ、舞人に取り次いで貰った。緊張しながら、保留音を聴いていた。
『こんにちは、嬉野さん。お久しぶりです』
受話器越しに、物柔らかで明るい声が聞こえた。
本来なら、開口一番に返事の催促があってもおかしくない。だが、その様子は無く、倖枝の緊張が和らいだ。
「お久しぶりです、社長さん。えっと……バレンタインから一日遅れましたけど、社長さんにお渡ししたいものがあるんですよ。生モノなんで、なるべく早い方がいいんですが……」
夢子がすぐ側に居る手前、倖枝は用件を直接伝えられなかった。これで意図を汲んでくれるはずだと、願った。
『わぁ、嬉しいですね。そうですね……それじゃあ、十五時に分譲地のモデルハウスでどうですか?』
倖枝は指定された場所に驚くが、妥当だと納得した。舞人も直接は口にしないが、こちらの意図を理解したうえでのことだろう。
「わかりました。それでは、十五時にお待ちしています」
夢子から茶化すような笑みを向けられながら、倖枝は受話器を下ろした。
これで準備は整った。後は――腹に決めた返事を伝えるだけだ。
まだ娘の受験が終わっていないが、この時は、ようやく報われる予感がした。
*
午後二時半。倖枝は高橋から鍵を預かると、分譲地へと自動車を走らせた。
到着するも、まだ舞人の自動車は無かった。倖枝は分譲地の入口に駐車し、車内で待った。
外は寒いが、空には薄っすらと雲が掛かる程度であり、良い天気だった。
しばらくすると、銀色の大衆向け自動車が現れた。時刻はきっちり、午後三時の五分前だった。
「お待たせしました」
「わざわざ時間を取って頂いて、ありがとうございます」
久々の再会だった。倖枝は先に自動車から降りると、姿を見せた舞人に、改まって頭を下げた。
舞人は髪をオールバックにセットし、スーツの上からコートを羽織っていた。相変わらず、にこやかな雰囲気が胡散臭かった。
ふたりでモデルハウスへと向かった。
途中、建設工事を行っている作業員達が、舞人に深々と頭を下げた。この男が月城住建の社長であるということを、倖枝は改めて認識した。
倖枝が玄関の鍵を開け、中に入った。
モデルハウスとして家具と共にエアコンが設置されているが、舞人は点けずにダイニングチェアに座った。倖枝もダウンジャケットを着たまま、四人掛けテーブルを挟み、舞人の正面に座った。
まずは、鞄からチョコレートケーキの入ったタッパーを取り出した。
「昨日、私の娘と舞夜ちゃんのふたりが作りました」
「へぇ。上手く出来てるじゃないですか。いただきます」
倖枝は舞人がタッパーのまま持ち帰ると思っていたが、この場で蓋を開けると、ケーキを手掴みで食べ始めた。テーブルや床に食べかすが落ちるのを注意し、タッパーで受けているのが幸いだった。
慌てて鞄からウェットティッシュを取り出した。ぬるくなったペットボトルのコーヒーも鞄に入っているが、飲みかけを出すわけにはいかない。
舞人は何も飲まずにケーキを食べ終えると、ウェットティッシュで手を拭いた。
「ごちそうさまでした。美味しかったですよ。ありがとうございます」
「お礼なら、舞夜ちゃんに言ってあげてください。私はノータッチですので……」
倖枝は空になったタッパーを片付け、代わりに暗い赤色の小箱を取り出した。小箱を開けることなく、テーブル上の、ふたりの間に置いた。
モデルハウスという新居の仮想空間で、男性とふたりきりで居た。だが、倖枝にはこの男との夫婦としての未来図が全く浮かばなかった。
それでも、自身の理想とする未来を掴みたかった。
「
舞人は小箱に触れることなく一度視線を落とすと、顔を上げて倖枝に向き合った。
優しい笑みを浮かべていた。倖枝には、素直に返事を受け止めるようにも――無関心にも見えた。
「はい。随分とお待たせしました」
結局のところ、クリスマスに求婚されて以降、催促は一度も無かった。もしかすれば、あの場で保留にした時点で諦めていたのかもしれない。
しかし、倖枝はじっくりと悩んだ末、良い返事を聞かせるつもりだった。
小箱に入っている指輪を、自分で嵌めたくはなかった。曲がりなりにも、舞人の手で嵌めて欲しかった。
「私は――」
「すいません。ちょっといいですか?」
答えようとしたところ、舞人に遮られた。
「その前に、僕の話を聞いて貰っていいですか?」
こちらも笑顔を浮かべているのだから、どう答えるのか分かっているはずだ。
だからこそ直前になり、何を伝えたいのだろうと倖枝は思った。なんだか、嫌な予感がした。
舞人は相変わらず、にこやかな雰囲気だった。
「土壇場でこういうこと言い出すのは、申し訳ないと思います。娘からは黙っておくよう言われてますが――やっぱり、貴方は知るべきだ」
(第39章『三人』 完)
次回 第40章『二択(前)』
倖枝は舞人への返事を思い留まる。
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