第105話

 二月十日と十一日――土曜日と日曜日に行われた私立大学二校の入学試験を、咲幸は無事に終えた。

 どちらも倖枝は朝に咲幸を駅まで送り届けたが、その後の仕事はあまり集中できなかった。来月の第一志望校は、仕事を休もうかと考えるほどであった。

 舞夜の方も手応えは良かったようで、倖枝はひとまず安心した。


 二月十四日、水曜日。

 倖枝は午後一時に、スーツ姿で地元の地方銀行に居た。

 休日である今日、自分が担当する中古物件の決済が行われるのである。

 倖枝は過去より、同じような事例に何度も遭遇してきた。その度に、休日という自分の都合よりも、売買自体を優先してきた。よって、今回も――憂鬱ではあるが、仕方なく休日を仕事で潰した。


 今日、世間はバレンタインデーである。咲幸と舞夜と三人で、ケーキを作る予定になっていた。倖枝はふたりに事情は話して理解を得ているが、心苦しかった。

 現在、ふたりでケーキを作っているだろう。申し訳ない気持ちとは裏腹に、どのようなものが出来上がるのだろうと期待しながら、仕事を進めた。

 午後二時半頃、決済を無事終えた。倖枝は司法書士を見送り、商談室で残りの仲介手数料を鞄に仕舞っていた。すると、ひとりの小柄な銀行員が部屋に入ってきた。


「店長さん、休みなのにご苦労様です」


 上げた前髪をピンで留め、大きな眼鏡をかけた女性は――二階堂灯だった。


「しょうがないですよ……。今日、大安ですから」


 倖枝は会釈しながら、事情を話した。

 実際、そのような理由で買主が今日を選んだのであった。


「へぇ。バレンタインなうえに、大安なんですね。実にめでたいじゃないですか」


 灯は口振り通り上機嫌な様子で、手に持っていた紙袋を倖枝に渡した。

 倖枝は中身を見ると、透明ビニール袋とリボンで包装されたものがふたつ、入っていた。それぞれのビニール袋に、マカロンがいくつか包まれていた。包装もマカロン自体も、市販のものではないように見えた。


「それ、春名さんとどうぞ。今年は手作りですよ」

「ありがとうございます。ちなみに……ウチの店、私入れて三人居るんですが」

「あれ? そうでしたっけ?」


 念のため指摘するが、灯はわざとらしくとぼけた。高橋が不在の時に夢子に渡そうと、倖枝は思った。

 ここ最近は灯と良好な関係のため、こうしてバレンタインに贈物を貰えるのを理解できる。しかし、自分はあくまで『ついで』であるとも倖枝は理解した。


「私から渡していいんですか? 明日になりますけど……春名、銀行ここに来させましょうか?」

「な、何言ってるんですか!? お仕事を邪魔しちゃ悪いんで、結構ですよ!」


 灯が焦る様子を、倖枝は久々に見た気がした。正直になればいいと思う一方で、なんだか微笑ましかった。


「というか、確か去年も似たような感じだったような……」

「気のせいです。タイミング合わない春名さんが悪いんですよ」


 午前八時半から午後五時半までの勤務、かつ土日が休日の銀行員――俗に言う『世間一般』に近い勤務体系の職種と不動産営業職の時間が、合うわけが無い。

 倖枝は過去より、主にこれが理由で、娘との擦れ違いが生じた。


「そんなこと言っても、なんやかんやで春名と仲良くやってますよね」

「どこがですか! 私にしてみれば、いい迷惑ですよ!」


 同じく時間が擦れ違っている割には、灯と夢子は上手く関係を築いていると、倖枝は思っていた。茶化すように触れた。


「まあ、仕事では結構顔を合わせてますし……休みが偶然重なった時は、どこか遊びに連れて行ってくれますし……」


 灯は照れながらも、どこか得意げに話した。

 その言葉に倖枝は納得すると同時、自分の過去を重ねた。

 確かに、咲幸との休日が全く重ならないわけではなかった。しかし、稀なその時間を、倖枝は仕事の勉学や休養に使用していた。遊びに連れて行くことはほとんど無く――その役目は自分の両親に任せていた。

 結果として、咲幸に金銭面の不自由させることは無かったので、間違ってはいないのだろう。しかし、正しいとも言えないため後悔した。

 あの時は、寄り添う気持ちすら無かったのだ。


「その調子で、春名と仲良くしてやってください。……これ、渡しておきますね」

「仲良くも何も、あっちが勝手にあれやこれや言ってくるだけです!」


 わかりやすい反応だと思いながら、倖枝は紙袋を鞄に仕舞った。


「それはそうと……店長さん自身のローンはどうなってるんですか? 買わないんですか?」


 モデルハウス購入にあたり融資の仮審査を申し込んで以降、灯と初めて顔を合わせるわけではない。あれからも仕事で何度か訪れ、その度にこうして確認されていた――今回は、灯の照れ隠しでこの話題に移ったが。

 ずっと保留と答えていた。求婚の件は、当然ながら伏せている。


「すいません。まだ分かりませんけど……もしかしたら、買わないかもしれません……家自体を」


 しかし、今日の倖枝は思わせぶりに答えた。実際のところ、現在はその『選択』に限りなく傾こうとしているのだから。


「え? どういうことですか?」


 にんまりと笑みを浮かべ、悪い意味で断念したのではないことを灯に伝えたつもりだった。

 だからこそ、事情を何も知らない灯は、困惑した表情を浮かべていた。


「まあ、引き続き保留ってことで、よろしくお願いします。それじゃあ、失礼します」

「ちょっと、店長さん――」


 詳しい事情を訊きたいのか、呼び止めようとする灯を尻目に、倖枝は銀行を立ち去った。

 現在すぐにでも、家の購入が不要になった経緯を話したかった。だが、まだかろうじて不確定であるため、我慢した。

 あの場に留まっていれば、ぽろりと漏らしてしまいそうだったのだ。



   *



 倖枝は銀行から帰宅する際、チェーン店のカフェに、ドライブスルーで寄った。今日に仕事が入り、ふたりと一緒にケーキを作れなかったことに対し、詫びるつもりだった。何か飲み物を用意しようと思った。

 メニュー一覧には、バレンタインの期間限定商品ふたつが目立つように描かれていた。しかし、片方はフローズン状の冷たいものであり、もう片方はチョコレート入りのカフェモカだ。どちらも単体で完成されているものであり、甘いものとの相性は悪いと倖枝は思った。


「ラテふたつと……カプチーノ。全部トールで」


 それらを注文して受け取ると、帰宅した。

 自宅の玄関には咲幸のスニーカーの他、舞夜のショートブーツが並んでいた。


「ただいまー。ごめんね、仕事入って」

「おかえり、ママ。もうちょっとで完成だよ」

「お仕事、お疲れ様でした。気にしないでください」


 倖枝はダイニングテーブルに飲み物の入った紙袋を置き、カウンター越しにキッチンの様子を眺めた。

 ふたりの少女が、エプロン姿で立っていた。

 舞夜が、黒いホール型スポンジケーキの天面に白い粉砂糖をまぶしていた。その隣で、咲幸が手際よく生クリームを泡立てていた。かつて、舞夜とふたりで咲幸の誕生日ケーキを作った時と似ているが――見慣れない光景だからか、倖枝の目にはふたりが手慣れているように映った。

 ケーキ自体も、まだ調理途中だが、まるで市販のように見た目は綺麗だった。


「へぇ。なんだか、随分本格的なのね……」

「スポンジの部分から作りました」


 倖枝はよく見ると、表面にチョコレートが塗られているのではなく、スポンジケーキ自体が黒かった。おそらく、チョコレートを混ぜ込んで作ったのだろう。難しそうなものを、ふたりでよく作ったと関心した。

 ――そして、市販のスポンジケーキの加工を提案した過去が、恥ずかしくなった。


「ていうか、大きくない?」


 三人で食べるなら四号が最適だろうが、作られているのは六号ほどの大きさだった。


「どうせなら、大きい方がいいじゃん! いっぱい食べられるよ!」


 咲幸の提案なのだと、倖枝は納得した。

 いくら咲幸が多く食べるとはいえ、この量を三人ではとても一度で食べ切れないだろう。明日も食べることになるのだと、察した。


「舞夜ちゃんと仕上げるから、ママは休んでおいて」

「ありがとう。その代わりといっちゃ何だけど……飲み物買ってきたからね」


 倖枝はダイニングテーブルの紙袋をふたりに見せた後、自室に入りスーツから私服に着替えた。

 そして、リビングのソファーで寛ぐこと、約三十分。


「ママ、お待たせ!」


 午後三時半頃、ケーキが完成した。咲幸と舞夜はふたりでダイニングテーブルに運び、エプロンを脱いだ。

 チョコレートのホールケーキに、天面は白い粉砂糖が敷かれ、イチゴとラズベリーが載っていた。それらを取り囲むように、ホイップクリームが天面の縁に並んでいた。


「わぁ、凄いじゃない。お店で売ってるやつみたいよ」


 その出来栄えに、倖枝は素直に感心した。思わず携帯電話を取り出し、写真に収めるほどであった。

 ふたりの少女も、それぞれの携帯電話で写真を取った。


「頑張りました!」

「ええ、そうね。ふたり共、ありがとう」

「何言ってるの? ママはホワイトデーだからね!」

「そうですよ。お仕事で抜けた分、期待してますからね」

「えー……。ま、まあ考えておくわ」


 そのような流れになるのは仕方ないと思いながら、倖枝は紙袋から飲み物を取り出した。温かかったそれはすっかり冷めていたので、マグカップに移し、電子レンジで温めた。

 それを行っている間、咲幸がケーキを八等分に切り分け、三つを皿に載せた。

 準備が整ったので、三人でリビングに移った。狭いながらも、ソファーに三人並んで座った。倖枝が真ん中だった。


「いただきまーす。……うん、美味しいわね」


 どのチョコレートを使用したのかも、どのように作ったのかも、倖枝は知らない。チョコレートの甘さと共に、しっとりとした深みもあった。さらに、ベリーの酸味が丁度いい変化を与えた。

 美味しいだけではない。ふたりの少女が作ってくれたことが嬉しく、倖枝は大きな満足感に包まれた。

 昨年の、咲幸とのデートも嬉しかったが――今年のバレンタインはそれ以上だった。


「美味しい? それじゃあ……はい、ママ……あーん」


 右隣に座る咲幸が、自分のケーキをフォークで一口分取り、倖枝の口元に笑顔で差し出した。

 倖枝は恥ずかしいながらも、それに食いついた。


「倖枝さん、わたしのもどうぞ。あーん」


 続いて、舞夜から差し出されたものも食べた。咲幸のよりも大きかった。

 ふたりからこのような真似をされて、倖枝はとても嬉しかったが――間髪入れない二口から、胸部が苦しくなった。カプチーノで流し込んだ。


「美味しいね、舞夜ちゃん」

「咲幸と作れて、楽しかったわ」


 ぐったりしている自分を挟み、両隣の少女が楽しそうに話していると、倖枝は何とも言えない気持ちになった。純粋な善意なのか、それともふざけた悪意で食べさせたのか、わからない。

 しかし、怒っているわけではないので、深追いする気にはなれなかった。どちらにせよ、このケーキが美味しいのは確かだ。


 おそらく、咲幸ひとりでも作ることは出来ただろう。だが、倖枝は自分の経験上、料理で咲幸の足を引っ張ることがあった。だからこそ、咲幸と共に作った舞夜に目がいった。

 そう。経験が不足しているだけで、舞夜の料理の腕自体は悪くないと、以前から思っていた。


「舞夜ちゃんも、料理良い線いってるじゃない。センスはあるものね――」


 御影歌夜おかあさん譲りで――倖枝はそう言いかけて、口を閉じた。

 この場に咲幸が居るからではない。舞夜とふたりきりだとしても、どうしてか歌夜には触れたくなかった。胸奥に、何かが響いたような気がした。


「うんうん。舞夜ちゃん、料理のセンスあるよ」

「……これから、さっちゃんに教わるといいわ」

「はい。頑張っていきます!」


 倖枝はどうにか気分を切り替え、話の流れに乗った。ふたりからは特に、違和感を覚えられていないようだった。

 念のため、誤魔化すように――ふたりの頭を撫でた。


 結局、倖枝と舞夜はひとつずつ、咲幸はふたつのケーキを食べた。

 夕飯が入るか心配しながら、倖枝は残った五切れを皿ごとサランラップで覆い、冷蔵庫に仕舞った。そして、皿とマグカップの後片付けに取り掛かった。


 済んだ頃には、午後四時を回っていた。

 倖枝はリビングに戻ると、テレビ番組が雑音として流れている中――ふたりの少女が、ソファーに座ったまま寝ていた。

 ここ最近のふたりは、本当に仲の良い姉妹のようだった。

 今日だけではない。ふたりにとっては受験真っ只中ではあるが――倖枝は幸せな時間を過ごしていた。

 リモコンでテレビの電源を切ると、咲幸の自室から毛布を取ってきて、ふたりに被せた。


「ありがとうね……」


 この時間が、これからもずっと続けばいいのに。

 倖枝は小さな寝息に耳を傾けながら――儚い願いを抱いて、ふたりに微笑んだ。

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