第12章『計画』

第030話

 一月五日、木曜日。

 短い正月休みが終了し、今日が仕事始めだった。

 倖枝は出勤後、従業員達と年始の挨拶を済ませると、パソコンを起動しメールを確認した。

 正月期間の問い合わせにはあまり期待していなかったが、やはり御影邸の反響は芳しくなかった。


「うーん……。キツイわね」


 証券会社や二階堂灯に紹介して貰った投資家達からは、全て断られた。年始早々、打てる手が無くなり、手持ち無沙汰となった。

 十一月半ばに御影歌夜と仲介契約を結び、約一ヶ月半となる。取り決めではないが、売却目標としている三ヶ月まで半分を切った。

 倖枝は時間の経過があっという間だと嘆くと同時、焦りが生じた。

 専属専任媒介契約には週に一回以上の業務報告の義務があるため、これまで何度も郵便で報告していた。現在まで歌夜から特に連絡は無いが、そろそろ報告自体が苦しいため、突かれるのは時間の問題だと思った。


「しょうがない。ちょっと、御影さんに挨拶に行ってくるわ。何か粗品になりそうなの、ある?」


 流通機構に新規登録された物件を確認している夢子に、倖枝は訊ねた。

 一方的な書面での報告だけでは、買主からの感触が掴めない。直に顔を合わせて現状を報告し、今後のことを話しておきたかった。

 つまるところ、早い内から言い訳をしておこうという算段である。そして、あわよくば目標期限を延長して貰いたかった。


「本社から送られてきた、ロゴ入りのタオルがありますけど」

「……まだ茶菓子の方がいいわね」


 歌夜が安物のタオルを雑巾としても使わないと思ったため、途中で菓子折りでも購入しようと思った。

 倖枝は憂鬱だが、机の電話機の受話器を取った。パソコン画面に映っている歌夜の個人情報から、携帯電話番号を入力した。


『はい。もしもし』

「御影様、あけましておめでとうございます! 嬉野です!」


 木曜日の午前十時。電話が繋がると、倖枝は明るい声で社名と店舗名まで付け加えた。


『あら。久しぶりね』


 一ヶ月半ぶりの会話だったが、歌夜は名前を聞いて存在を思い出したといった様子ではなかった。

 倖枝はその可能性を僅かに心配していた。


「新年のご挨拶も兼ねまして、業務報告を含めたお話があるのですが。本日か近日で、ご都合の宜しい日時がございますでしょうか?」

『そうね……。それじゃあ、正午頃にいらっしゃい。ランチ作って、待ってるわ』

「ランチ……ですか? はい! それでは、正午にお伺いします! 失礼します!」


 突然の申し出に倖枝は困惑するが、営業職として、勢いのまま笑顔で頷いた。


「……何考えてるのか、ぜんっぜん分からないわ」


 そして、受話器を下ろすと、頭を抱えた。

 こちらの発言から状況を察したであろう夢子が、同情の目を向けていた。


「よかったじゃないですか。セレブのランチとなれば、さぞ良いものが出てくるでしょうね」

「よくないわよ! ただの皮肉かお人好しの、どっちかじゃない!」


 長年のこの仕事で、倖枝は顧客と食事をしたことは一度も無かった。冗談として言われたことはあったが、歌夜の口調にそのような情緒は含まれていなかった。

 きっと、それを踏まえての皮肉なのだと、御影歌夜はそのような人間なのだと、倖枝は思った。この一ヶ月半の説教を覚悟した。

 仕事始めの初っ端から、憂鬱に拍車が掛かった。



   *



 午前十一時半になり、倖枝は自動車で店を出た。

 駅から離れた菓子店に寄り、苺のフレジェをふたつ購入した。そして、駅前のコインパーキングに駐車した頃には、ちょうど正午前だった。

 憂鬱な気持ちを強引に切り替え、タワーマンションの玄関でインターホンを触った。


「こんにちは、御影様。嬉野です」

『待ってたわ。上がってちょうだい』


 マンションの入口が開けられると倖枝は入り、歌夜の部屋まで上がった。


「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します」

「いらっしゃい。あけましておめでとう。ランチ出来てるわ」


 部屋の玄関で改めて挨拶をすると、エプロン姿の歌夜から笑顔で迎えられた。

 倖枝は一瞬、皮肉のこもった笑みに見えたが――正体のわからない違和感に置き換わった。


「どうぞ、アフタヌーンティーにでもお召し上がりください」

「あら。わざわざありがとう。……そこに座って。すぐに持っていくから」


 手土産の茶菓子を渡した。

 受け取った歌夜はダイニングテーブルを指し、キッチンへと向かった。

 椅子がふたつの対面式のそれは、自宅のものと同じぐらいの大きさだと倖枝は思った。しかし、ランチョンマットが敷かれ、小さな花瓶が置かれているので、まるでレストランのようだった。

 緊張を抜きにしても、倖枝はあまり空腹ではなかったが、漂う香ばしさに腹が疼いた。


 椅子に座って間もなく、歌夜が皿をふたつ運んできた。

 ランチョンマットに置かれたそれは、トンカツ――いや、薄さからカツレツのように見えた。その上にトマトのような赤い果肉のソースがかけられ、ポテトサラダが添えられていた。


「ささ。食べましょう」


 エプロンを脱いだ歌夜が、白ワインのボトルとグラスを手にやって来た。


「そっか……。貴方、飲めないのね」


 座ろうとしたところで、倖枝の事情に気づいたようだった。

 レースのカーテンの向こうは、明るい空が広がっていた。倖枝はまだ勤務中であり、そしてここまで自動車で来ていた。


「申し訳ありません。お水を頂けないでしょうか?」


 何やら高級そうなワインに見えたので、倖枝としてはとても残念だった。勤務後の夕食なら運転代行を呼んで帰宅したと、時間を悔やんだ。

 歌夜が水の入ったガラスのピッチャーを持ってきて、改めて対面に座った。

 藍色の瞳が、にこやかに微笑んでいた。


「カツレツでしょうか? 随分凝ったように見えますが……」


 倖枝は歌夜のグラスにワインを注ぎながら、訊ねた。

 カツレツならば、レモンを添えて食べるものだと思っていた。このようにソースがかけられたものは、初めて見た。


「これはね、ツィゴイナーシュニッツェルといって、薄切りの仔牛の肉を揚げ焼きにしたものだから……まあ、この国で言うカツレツね。私の祖国の家庭料理なのよ」

「へぇ……。初めて食べます。いただきます」


 料理名を一度聞いただけでは覚えられなかった。覚える気も無かった。

 倖枝はナイフとフォークで切り、一口食べた。トマトだと思っていたソースは、パプリカだった。玉ねぎとマッシュルーム、そしてニンニクだろうか――香ばしい味が肉にとても合い、酒を飲みたい衝動に駆られた。

 酒が飲めないなら白米を一口だけでも欲しかったが、その図々しい願いも我慢した。


「とっても美味しいですよ。私は料理なんて出来ませんので、尊敬します」


 忖度無しの素直な感想を述べた。少なくとも、自分より料理の腕が良いことは確かだ。


「ふふっ、ありがとう。実は最近、料理を始めてね……。レシピ通りに、基礎から覚えているところよ」


 照れ笑いする歌夜に、倖枝はようやく違和感の正体が分かった。

 まず、エプロン姿だ。この富裕層女性セレブは、料理とは無縁――離婚前は専属の料理人が居て、離婚後も宅配や外食だと思っていた。実際に、最近まで料理をしていなかったと本人も言っている。

 そして、軽快に笑う人間でもなかった。以前はもっと、素っ気ない態度であった。一ヶ月半ぶりの再開だが、以前より明らかに雰囲気が和やかになっていた。


 それらから、まだ買い手が見つからない皮肉を言うためではなく――本当に、ただの善意から食事を振る舞うために呼び出したのだと、倖枝は理解した。なんだか調子が狂った。

 少し見ない間に、一体何があったのか。どうして、別人のようになったのか。

 その理由におよその見当がついたが、確証は無かった。


「御影様は、お正月はどうお過ごしになられましたか? 私は自宅でゴロゴロしていました」


 雰囲気が随分変わりましたね、とは言えるわけがなく、倖枝は適当に雑談を振った。


「クリスマスからのホリデーシーズンは、知り合いの別荘で過ごしてきたわ。いい所だったわよ」


 この国の最南地域の地名が出てきて、倖枝は笑顔を作って頷いた。

 まるでドラマで登場する富裕像のような過ごし方だと思った。理解の範疇を超えていたので、白けるのを我慢した。


「わぁ。素晴らしいバカンスでしたね」


 世の中には、そのような人種が実在するのだと驚いた、その時――倖枝の中で、彼らがぴたりと嵌った。突拍子も無く、新たな計画が浮かんだ。


「御影様、お食事中に申し訳ございません。業務報告をさせて頂いても、よろしいでしょうか?」


 倖枝は込み上げる期待感を抑えながら、ナイフとフォークを一度置いた。

 こちらの様子に、歌夜は態度を改めることなく、にこやかに頷いた。


「ええ。続けて」

「正直に申し上げますと、状況はあまり芳しくありません」


 売却に出して話題にこそなったものの、反響はほとんど無かったこと。月城銘故に、居住用として買い手がつかないこと。だから、現在は投資用として買い手を探していること。

 倖枝は、この一ヶ月半の経過状況を順に説明した。

 歌夜の顔色が特に変わらないところを見るに、一応は納得しているようだった。


「だから、私に投資家を紹介しろってこと?」


 その言葉と共に、歌夜は微笑んだ。


「……はい! ご無理を言いますが、どうかお願い出来ないでしょうか?」


 理解が早くて助かると、倖枝は思った。

 どうして現在まで気づかなかったのだろう。盲点だった。

 銀行や証券会社からの紹介だけでなく、富裕層から直に富裕層を紹介して貰えばよかったのだ。

 今日このような話をするつもりは、毛頭無かった。何気なく振った話から計画へと派生したことに、期待を見出だせた。


「そうね……。ちょうどよかったわ」


 歌夜はふと立ち上がると、壁に掛かっているカレンダーに近づき、十四日を指さした。


「来週の土曜の夜――ちょっとした新春パーティーに行くから、貴方も来なさいな」

「え……ええ!?」


 パーティーという言葉に倖枝は馴染みあるはずがなく、大袈裟に驚いた。

 大規模な新年会が思い浮かんだが、すぐにその心像を掻き消した。似ているようで全く違うだろう。

 そう。歌夜が言うこの場合のパーティーは、富裕層の宴だ。ドラマのような行事が本当にあるのか疑いたいぐらいだが、歌夜にとっては紛れもない現実なのだ。

 ――だが、生まれてからずっと庶民として生きてきた自分には明らかに場違いだと、倖枝は瞬時に思った。


「そんな……。私なんかが、悪いですよ……」


 拒む意味合いを含ませて、苦笑したつもりだった。


「どうしてよ? 貴方に紹介できそうな人、たくさん来るわよ?」


 しかし、歌夜はこちらの意図を理解しないどころか、逃げないよう外堀を囲ってきた。

 確かに、ひとりずつ順に紹介して貰うよりは、そのような場へ営業に出る方が遥かに合理的だった。

 倖枝は、納得せざるを得ない状況に困惑していると――歌夜が椅子の背後に立った。


「それに……私ひとりで寂しいから、一緒に来て欲しいのよ」


 微笑む声と共に、両肩にぽんと手を置かれた。

 明るい声色からは、とても寂しいとは思わなかった。しかし、倖枝は歌夜の心情を察していた。

 顧客のためだ。ここまで頼られては動かないといけないのが、営業としての務めだ。そう、自分に言い聞かせた。


「わかりました……お供致します。ご紹介頂き、ありがとうございます」


 倖枝は椅子から立ち上がると、歌夜に向き直り、頭を下げた。


「当日は何時にお迎えにあがればよろしいでしょうか? それと……結婚式に参列するようなドレスで構わないでしょうか?」


 渋々頷いたが、後者が不安であった。

 手持ちのフォーマルドレスといえば、先日の結婚式で使用した一着しか持っていない。安物であり、かつ黒色のそれを着て行けば、周囲から浮くように思えた。


「それじゃあ、午後五時ぐらいにいらっしゃい。私のドレスを貸してあげるわ」

「本当ですか? わざわざ、ありがとうございます」


 少なくとも自分の手持ちよりは良いドレスだろうが、歌夜から借りることに、倖枝はあまりいい気がしなかった。仕事での紹介ならまだしも、このような借りを富裕層の人間から作りたくなかった。

 パーティーの話をしながら、出された料理、そして土産に持参した苺のフレジェまでをふたりで平らげた。時刻は午後一時を過ぎていた。


「本日は御馳走さまでした。土曜日を楽しみにしています。それでは、失礼致します」

「ええ。貴方に似合うドレスを用意しておくわね」


 部屋の玄関まで歌夜に見送られ、倖枝はタワーマンションを後にした。


「はぁー」


 マンションから出て歩くや否や、作り笑顔を解いて大きな溜め息を漏らした。コインパーキングに着くまでに加熱式の煙草を咥えるほど、苛立っていた。

 自動車に乗り込み、エンジンと共にエアコンを点けた。

 仕事面で新たな計画を立てることが出来たのはよかったが、歌夜本人が癇に障っていた。


「なーにが、最近料理を始めてね、よ。バッカじゃないの?」


 彼女の変化は一目瞭然だった。

 料理を始めたことも雰囲気が明るくなったことも、おそらく離婚により肩の荷が下りたからだと思った。御影邸の売却後は祖国に帰ると言っていたが、この国で既に新しい生活を始めていた。

 すっきりとして、そしてのびのび暮らしていることが、倖枝はたまらなく羨ましかった。その暮らしを自分は絶対に手に入らないので、嫉妬した。


「あー、クソ。ムカつくわー」


 そのくせ人並みに寂しがっていることが、倖枝の苛立ちに拍車をかけた。

 歌夜は終始にこやかだったが、友達のように食事やパーティーに誘ったことも、ベタベタ触れてきたことも――独り身として寂しいのは明白だった。

 きっと、それを埋める相手は誰でもいいのであろう。人肌が恋しいだけなのであろう。

 そう。まるで、鏡を見ているようだった。ただの同族嫌悪から、倖枝は腹を立てていた。

 もしも仕事での付き合いが無ければ、関係を切りたいぐらいだった。友達にも成りたくなかった。


 しかし、頭ではそう思っても、実際にその決断は下せない。

 仮定への直面ではなく――歌夜に対して、哀れみを抱いていた。

 似たような立場として、彼女の寂しさを、きっと誰よりも理解していた。だから、どうあっても見捨てられなかった。

 嫉妬と哀憐から、煮えきらない苛立ちに、倖枝は煙草を噛んでいた。


 ――失敗扱いされた娘は、どうすればいいんですか!?


 ふと、月城舞夜を思い出した。あの剣幕は未だに鮮明だった。

 現在の御影歌夜を見ていると、きっと良い母親に成れると倖枝は思った。その素養はあったのだ。

 だが、彼女のとても冷ややかだった一面も知っている。舞夜にとっては、あれこそが母親だったのだろう。

 残念な結果に終わっていた。母娘として『失敗』に至るまで――ふたりに何があったのか、わからなかった。

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