第029話
倖枝は無事に年内の仕事を納め、年末年始の長期休暇に入った。
とはいえ、例年通り、旅行等の予定は無かった。自宅と自動車の清掃と、正月を迎える準備の買物をして、怠惰に過ごしていた。
咲幸も同じような様子だった。自宅に居るか、友人と遊びに出かけるかだった。
――倖枝の知る限り、咲幸が舞夜と会うことは無かった。
咲幸が自宅に居る時は、倖枝は外へと出かけた。遊びに行った時は、自宅に残った。自然さを意識しながら、なるべく咲幸を避けていた。
恋人として咲幸と接したのは、クリスマスが最後だった。
咲幸から言い寄られることが無ければ、過剰に触れられることもなかった。以前までの母娘のようだった。まるで、あの夜が夢だったかのように――
しかし、倖枝は確かに辛い目に遭っているので、決して安心出来なかった。
警戒しながら時間が流れ、いつの間にか大晦日を迎えていた。
一月一日、日曜日。
日付が変わり、三十分ほどが過ぎた。
倖枝はリビングで酒を飲みながら、咲幸とバラエティ番組を観ていた。年越しのカウントダウンから一段落つき、番組が終了した。
「ねぇ、ママ。初詣行こうよ! 近くの所でいいからさ」
いい具合に酔いが回り、就寝しようとしたところ、咲幸からそう提案された。
「え……波瑠ちゃんは?」
倖枝は面倒だと思うと同時、昨年のことを思い出した。
昨年も咲幸はこの時間帯に初詣に出かけた。夜道でも人の目があること、そして風見波瑠らの友人達と一緒だったことから、倖枝は許可した。
今年も、彼女達と行くと思っていた。
「波瑠は、今年は家族と旅行だよ」
さらりと咲幸が答えた。
倖枝は本当かと疑った。とはいえ現在から確かめる気にはならないため、信じる他には無かった。
「……舞夜ちゃんは?」
咲幸の前でその名前を出したのは、クリスマス以来だった。
舞夜本人から聞いたわけではないが、おそらく旅行に出かけているだろう。
倖枝が知りたいのは、舞夜の情報ではなかった。咲幸の反応を確かめたかった。
「舞夜ちゃんもだよ。お正月は、この国に居ないよ」
咲幸は苦笑した。
適当に答えている可能性はあった。舞夜の行き先を訊ねようかと倖枝は思ったが、やめておいた。
さも、当然のように――舞夜の名前に、咲幸は一切動揺しなかった。
その反応だけで充分だった。クリスマスに言い聞かせた通り、舞夜とまだ最低限の交流が続いていると考えるのが普通だった。
しかし、本当に舞夜と会っているのか、倖枝の中での疑いは完全に晴れなかった。完璧すぎる反応が、どこか不自然だった。
「というわけだから、一緒に行こうよ。サユひとりだと、危ないよ?」
「わかったわ……。ママお酒飲んでるから、歩いて行くわよ」
そう言われると、倖枝としては断れなかった。面倒だが、仕方なく頷いた。
「やった! 着替えてくるね!」
「寒いから、暖かい格好でね」
咲幸は大喜びで自室へと戻った。
憂鬱だったが、その様子を見ると、倖枝は微笑んだ。
倖枝も自室に入り、パジャマから私服に着替えた。
もう入浴済みだったので、不繊維マスクを着けた。わざわざ化粧をしなくても、神様は会ってくれるだろうと思った。
*
自宅から徒歩十五分ほどの所に、小さな神社があった。
倖枝は以前からその存在を知っていたが、こうして向かうのは初めてだった。
冬の深夜はとても冷え込んでいた。マスクが防寒具としても機能しているのが、まだ幸いだった。使い捨てカイロも持ってくるべきだったと後悔した。
「ねぇ、さっちゃん。寒くないの?」
「うん! サユは平気だよ!」
寒さでげんなりとしている倖枝とは対称的に、少し前方を歩く咲幸はとても元気だった。
若さだけではなく身体の代謝も大きく差があるのだと、倖枝は思った。
この時間帯にも関わらず、夜道を歩く人達が疎らに居た。行き先は皆同じだった。
やがて、神社に到着した。移動が困難なほどではないが、あまり広くない境内は混み合っていた。
少しだけ並んだ後、咲幸と賽銭箱に五円ずつ投げ入れ、頭を下げた。
参拝の後に御神酒を貰い、境内の焚き火にあたった。
「それじゃあ、そろそろ帰ろうか」
「そうだね」
身体が暖まったところで、神社を後にした。
何年ぶりだろうか。倖枝は、久々に初詣に訪れた。
面倒で寒かったが、正月らしい気分を味わえたと思いながら帰路を歩いた。テレビで見る有名な神社の初詣は人混みが凄いので、この程度が丁度よかった。
「ママは何をお願いしたの?」
隣を歩いていた咲幸が、ふと訊ねた。
「さっちゃんが健康で居てくれて、受験勉強頑張りますように、って……」
五円の賽銭だが、倖枝はいくつか願った。
母親を意識し、真っ先に咲幸のことを頭に浮かべたのは本当だった。そして、仕事面では御影邸の買い手が見つかることを神頼みした。
「サユのこと考えてくれて、ありがとう」
「さっちゃんは、どんなお願い事だったの?」
「サユはね……いつまでも、ママと一緒に居られますようにって……」
視界の隅で、咲幸の吐く白い息が見えた。そして、ダウンジャケットのポケットに突っ込んでいた手を、咲幸に掴まれた。
手が外気に触れ、冷たかった。繋いだ咲幸の手も、冷たかった。
「愛してるから――倖枝」
ぽつりと漏らした咲幸の声が誰かに聞かれたのではないかと、倖枝は真っ先に警戒した。
前方の離れたところに、人の背中が見えた。背後はわからないが、少なくともすぐ近くに足音や気配が無かった。
おそらく、自分の耳にしか届いていないだろう。
「……」
あの夜もそうだったと、倖枝は思い出した。
現在、咲幸がどのような表情なのか、わからない。
娘の素顔が『どちら』であるのか、未だにわからない。
恐怖が静かに込み上げるが――それ以上に、実の娘から名前を呼び捨てにされることが、快くなかった。
「あのね、さっちゃん……。母さんのこと名前で呼ぶなとは言わないけど、こういうムードの時だけよ? 卒中はやめてね」
だから、これがせめてもの譲歩だった。
付き合っている体ならば、仕方ないだろう。一概には否定しなかった。
「うーん……。ムードなんて言われても、難しいよ」
「それが大人の恋愛ってものよ。勉強なさい」
恋愛経験が無いので具体的には言えないが、倖枝はそう丸め込んだ。
――やはり、あの夜は夢ではなかった。
深夜の曖昧な感覚の中、咲幸の手の感触が現実を思い出させた。
倖枝としては、母娘で手を繋ぐことは珍しくなかった。以前から、咲幸とこうして手を繋いでいた。
しかし、咲幸は過去より、自分とは違う意図で繋いでいたのだ。『母』ではなく『女』として求めていたのだ。
こうして手を繋ぐ様子を、周囲からはどう見えているだろうか? 仲の良い母娘として捉えられているだろうか? もしくは――
倖枝の中で、少しだけ不安が押し寄せた。
帰宅してすぐ、倖枝はパジャマに着替えて歯を磨き、寝る準備をした。
時刻は午前一時。身体は冷えたが目が覚めることなく、アルコールの入った身体では眠気が限界だった。
「母さん、もう寝るわね」
リビングでは、咲幸がテレビ番組を観ていた。元日ぐらいは夜更しを許そうと思った。
「ねぇ、ママ……一緒に寝てもいい?」
しかし、咲幸はリモコンでテレビを切って振り返った。見上げて懇願する表情は、まるで幼い子供のようだった。
だから、うとうとしていた倖枝の頭は、警戒を解いていた。
「……一緒に寝るだけだからね」
かろうじて念を押し、倖枝は自室に入った。
灯りを消してベッドに横になると、さらなる眠気に襲われた。
しばらくして――虚ろな感覚の中、ベッドに何者かの存在が入り込んだことに気づいた。
限りなく意識が遠のいた倖枝は、最早それが咲幸とさえ認識していなかった。ただ、狭苦しさの不満と共に、温かいと感じた。
その存在から抱きつかれ、倖枝もまた無意識に抱きしめた。大きさ、温もり――共に、抱き心地が良かった。
夢なのか現実なのか、わからなかった。
朦朧とした意識は、ぼんやりと安らぎを覚えた。
それは倖枝が日頃から感じている寂しさと、表裏一体であった。満たされない心はすぐに裏返った。瞳の奥が熱くなった。
しかし、決して振り切れなかった。腕の中の存在が、かろうじて繋ぎ留めていた。
まるで――暗い夜の中、薄っすらと差し込んだ光を手繰り寄せるかのように。
無意識に、娘に自身の『弱さ』を預けていることを、夢現な倖枝は知るはずがなかった。
(第11章『交錯』 完)
次回 第12章『計画』
倖枝は御影歌夜のもとを訪れ、業務を報告する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます