第031話
一月九日、月曜日。
午後一時頃、倖枝は店舗の自席で昼食――コンビニで購入してきた、おにぎりとサラダを食べていた。
ふと、机に置いていた携帯電話が振動し、画面が点灯した。ロック画面に、メッセージアプリの通知が浮かんでいた。
画面に目を落とすと『こんにちは、ハルです』と表示されていた。
咲幸の同級生であり友達でもある、風見波瑠からだった。おそらく、彼女とのメッセージのやり取りは初めてだった。
続いて『咲幸と月城に何かあったんで、お知らせを』と受信した。
倖枝は何のことかすぐに理解出来なかったが、文化祭での彼女とのやり取りを思い出した。
現在、学校は昼休みだろうか。倖枝はそのように思いながら、携帯電話を手に給湯室に入った。そして、波瑠に電話した。
『もしもし、おばさんですか? ご無沙汰してます』
すぐに繋がり、挨拶をされた。体育会系らしい、年齢の割に礼儀正しいものだった。
「波瑠ちゃん、久しぶり。今、ひとり? ……さっちゃん近くに居ない?」
『はい。部室にひとりなんで、大丈夫ですよ』
倖枝は真っ先にそれを確認した。
文化祭で決めた通り、このやり取りを波瑠が誰にも口外しないと信じていたが、念のためだった。
『それで、ふたりのことなんですが――』
「ねぇ、波瑠ちゃん。明後日の水曜日、部活休めない?」
波瑠が話を始めようとしたところ、倖枝は割り込んで制止した。
「ハンバーガーでも甘いものでも、波瑠ちゃんが食べたいものご馳走するわ。……電話でも何だし、ね?」
咲幸と舞夜の現状を知っている以上、波瑠が何を話すのかはおよその見当がついていた。
報告を聞きたいのではなく、それを踏まえて波瑠とじっくり話がしたかった。
『マジですか!? いいですね、それ! 喜んで部活サボりますよ!』
「くれぐれも、さっちゃんは部活に行かせてね。それじゃあ、行きたいお店の詳細、水曜までに送っておいて」
『わかりました! 咲幸のことは、任せてください!』
とても嬉しそうな声で頷かれ、電話を切られた。
倖枝は波瑠が年齢に対し大人びた風に見えていたが、やはり
――さっちゃんのこと、好きなんでしょ? それが本当なら、自分の手で掴み取ってみなさい。
クリスマスの日、舞夜と協力関係で居ようと話した。
あれからまだ日が浅いので、仕方ないが――舞夜が苦戦していることに、倖枝は眉をしかめた。
*
一月十一日、水曜日。
午後五時頃、休日の倖枝は駅前に居た。携帯電話の地図アプリを起動し、波瑠から指定された店へと向かった。
歩くこと、五分。裏路地のハンバーガー屋へと着いた。聞いたことのない名前は少なくともチェーン店ではなく、ひとつのレストランだった。
店内は混んでいたが、待つことなくテーブル席へと通された。
紫色を基調とした店内は、所々で剥き出しの蛍光灯がチカチカと点灯し、まるで場末のバー――いや、若者の言うクラブのようだと倖枝は思った。店内に流れる音楽も、客の話し声も、とにかく騒がしかった。とても、落ち着いて食事を楽しむ店ではなかった。
実際、学生服姿の高校生の他、それに近い年齢の学生と思われる客がほとんどだった。
メニューにはアルコールドリンクがあるが、時間のせいか店内に行き渡っている様子は無かった。ハンバーガーの香ばしさとパンケーキの甘さ、ふたつの匂いに包まれた奇妙な空間だった。
倖枝は場違いと居心地の悪さを感じながら、ホットコーヒーのみを注文した。
こちらから店を指定すればよかったと後悔していると――
「こんにちは、おばさん。お待たせしました」
セーラー服姿の、長身でショートボブの少女が現れた。柔らかな笑みは、人懐っこかった。
「学校お疲れさま。好きなの頼んでいいわよ」
「あざっす!」
倖枝は店への愚痴を我慢し、風見波瑠にメニュー表を手渡した。
波瑠は一度だけ眺めると、悩む様子もなくすぐに店員を呼び、注文した。
「そうだ……。お正月、どこか旅行に行ってた?」
店員が離れると、倖枝はふと訊ねた。
咲幸から初詣に誘われた理由が、些細ではあるが、ずっと腑に落ちなかった。
「いえ、家でダラダラ過ごしてましたけど……。どうかしました?」
波瑠は首を傾げながら答えた。
――波瑠は、今年は家族と旅行だよ。
やはり、咲幸の言葉は嘘だった。初詣に誘うための、適当な口実に過ぎなかった。
予想通りだったので、倖枝は特に驚かなかった。しかし、予感から事実に置き換わり、娘から嘘をつかれたのだと思うと、少し残念だった。
「私もどこにも行ってないからね……。冬休み、あっという間だったでしょ?」
「そうですよ。倍ぐらい欲しいですねー。バイトもしたかったし……」
「へぇ。バイトって?」
波瑠が咲幸と今年も初詣に行く予定だったのか分からない以上、波瑠には質問の意図を言えなかった。とはいえ、予定を抜きにしても、娘の嘘を他人に言うのは気が引けた。
倖枝は誤魔化して雑談を続けていると、波瑠が注文したものを店員が運んできた。
「わぁ。凄いわね、それ」
「これですよ、これ。前から一度、食べてみたかったんです」
大皿に載ったものは、倖枝が普段チェーン店で食べているものとは全然違った。
パンズだけでなくパティも――いや、ハンバーグと言えるほどに大きく、肉汁が溢れていた。野菜もパサパサなものではなく、鮮やかだった。大胆に重ねたそれは、形が崩れぬよう、天面から串が刺さっていた。
この豪快なものはおそらく千円以上の値段だと、倖枝は思った。後からレシートで知るが、アボガドとチェダーチーズのハンバーガーは、ポテトとコーラーのセットで千八百円だった。
波瑠は、添えられたナイフとフォークを使わなかった。巨大なハンバーガーを直に手に取り、齧りついた。
「あっ、ヤバいですね。ガチな本物、って感じで」
「私は見てるだけで胸焼けしそうだわ……。こんな時間にそんなの食べて、晩ごはん大丈夫?」
「それは別腹なんで、余裕です!」
目の前で美味しそうに頬張る波瑠を、倖枝は白けた半眼で眺めていた。
咲幸もだが、運動で代謝が良いので、無茶な食事が出来るのだと思った。それだけでなく、若さも感じた。
「それで、さっちゃんと……月城さん、もうダメそう?」
倖枝はようやく本題を振った。
波瑠には文化祭で『悪い意味でふたりに変化』があれば連絡するよう頼み、連絡を受けた。
「うちの目には、そう見えます。元々、あんまり恋人っぽくも無かったですけど……冬休み開けてから、露骨に距離が開いた感じですね。クリスマスに何かあったんですかねぇ」
「どうなのかしら……。最近のさっちゃん、なんだか様子が変だったから、まあそんな気がしてたんだけど……」
咲幸とのことは当然ながら言えるわけが無く、倖枝は言葉を濁した。
「あれ? おばさんの望んだ
眉を寄せてコーヒーを飲んでいることに、波瑠から言われて気づいた。
確かに、文化祭ではそのような意図で頼んだ。あの時は、ふたりが別れることを望んでいた。
だが、咲幸から求められた現在の立場では、ふたりが恋人として続くことを願った。ふたりにそれぞれ、言い聞かせていた。
この事情を知らない波瑠からは、そう疑問に思われても仕方なかった。
「いざ別れるとなったら、やっぱりちょっとは残念よね……。それで、波瑠ちゃんはどうするの?」
倖枝は言葉を濁して苦笑し、そう訊ねた。
これが知りたいがために、電話ではなくわざわざ呼び出した。
文化祭での手前、ふたりを助けて欲しいとは今さら言えなかった。しかし、こちらから頼まずとも、波瑠が自分の意思にそう動いてくれることに賭けた。
「うちは今まで通り、特に何もしませんよ。何もしなくても、このまま放っておけば別れるでしょ」
波瑠はにんまりと笑った。
「咲幸には、もっと相応しい人が居ると思ってるんで」
倖枝はその言葉に、心臓を鷲掴みにされたかのようだった。
――どこまで知っている?
そう。波瑠が咲幸から本心を聞かされ、懐柔されたとしか思えなかった。咲幸の味方として、自分に向けた言葉のように聞こえた。
いや――考えすぎだ。
乱れそうになった呼吸を整えながら、冷静に考えた。
おそらく、咲幸は秘めた想いを誰にも言えない。波瑠も知るはずがないと考えるのが普通だ。
自分達母娘に関わらず、波瑠個人が純粋にそう思っているのだろう。波瑠にも、彼女の計画があるのだろう。
「へぇ……。それは楽しみね」
波瑠は干渉しないようだが、少なくとも倖枝の賭けは外れた。
波瑠の言う相手が誰なのかは、分からない。しかし、ふたりの体裁を維持する上で、敢えて訊ねなかった。
残念なことに、自分の思うようにはならなかった。舞夜を応援する身としては、今後の計画を改めて考えなければならなかった。
――舞夜を応援する必要はあるのだろうか?
ふと、倖枝は気づいた。
目的としては、咲幸が自分以外の人間を愛せばいいだけの話だった。それに一番近い人間が月城舞夜であり、波瑠の推す人間でも構わないのではないかと思った。
私は――月城舞夜をどう考えているのだろう。彼女には、どうなって欲しいのだろう。
倖枝は、そのような疑問に突き当たった。
「わかったわ。ありがとう。また何かあれば、連絡ちょうだいね」
「はい。今日は御馳走さまでした」
しかし、現在この場で考え込むことでもないため、話を切り上げた。いつの間にか、波瑠はハンバーガーを食べ終えていた。
「あっ、最後にちょっといい? 波瑠ちゃんから見て……さっちゃんのこと、負けず嫌いとか頑張りやとかに見える?」
舞夜が以前言っていたことを思い出した。
波瑠は目を丸くして驚いた後、笑顔で頷いた。
「見えますよ。咲幸はそこがカッコいいんです!」
とても誇らしげだった。
倖枝には、娘のそのような一面が未だに理解できなかった。しかし、ふたりが証言している以上はそのような性格なのだと、ぼんやりと思った。
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