第020話
十二月二十四日、土曜日。
倖枝は朝食と洗面の後、セミタイトスカートの黒いバルーンスリーブドレスに着替え、化粧をした。普段アクセサリーとは無縁だが、安物のイヤリングとネックレスを身に付けた。
ストールとコート、そしてハンドバッグを取り出し、いつでも出発できるだけの準備が整った。
「さっちゃん、着替えた?」
「うん!」
リビングで呼ぶと、咲幸が自室から姿を現した。
ゆったりとした白いハイネックセーターに、赤いチェック柄のミニスカート。普段はボーイッシュな格好が多いが、今日は年頃の少女らしい姿であった。髪を下ろしていることもあり、まるで別人のようだった。
「いい感じじゃない。おいで」
咲幸をソファーに座らせると、倖枝も隣に座った。
テーブルには、真新しい化粧ポーチが置かれていた。開けると、封こそ開けているもののまだ未使用の化粧品が詰まっていた。咲幸へのクリスマスプレゼントに購入したものだった。
「まずは、下地から――」
倖枝は咲幸の前髪をヘアピンで留めると、順に説明をしながら娘に化粧をした。
倖枝自身、化粧が得意というわけではなかった。まして、他人に施すのは初めてだった。
上手く出来た自信は無かったが、娘にこうして教えるのは悪い感触ではなかった。
「はい。お待たせ」
「どうかな?」
倖枝が前髪のヘアピンを外すと、咲幸は卓上鏡を覗いた。
「うんと可愛くなったわよ。洗面所で見てらっしゃい」
「ほんと!?」
小さな卓上鏡では、全体像が掴めないだろう。咲幸は立ち上がると、洗面所へと向かった。
倖枝の目では、幼いボーイッシュな雰囲気から、少し大人びた可憐な少女に様変わりした。髪と服装の効果も大きいだろうが、舞夜の助言で選んだ化粧品が咲幸に合っていた。自分ひとりの力では無理だったと、倖枝は思った。
咲幸の変化に、倖枝としても満足だった。
「ママ、ありがとう!」
化粧品をポーチに片付けていると、咲幸が洗面所から戻ってきた。嬉しそうに笑う表情は、まだ幼く見えた。
「今度からは、教えた通りにね。わからなかったら、訊くなり検索するなりなさい。慣れない内は時間かかるから、余裕持ってね」
「うん」
時刻は午前十時頃だった。咲幸の準備が意外と早く済んだため、自身の出発までまだ時間があった。倖枝はキッチンへと向かい、ドリップコーヒーを淹れる準備をした。
「サユ、先に出るね」
ライトブラウンのダッフルコートに身を包んだ咲幸が、キッチンに顔を出した。ミニスカートの素脚が、倖枝には肌寒く見えた。
「ママも、すっごく綺麗だよ!」
「まあ……こういうの、滅多に着ないからね」
ドレス姿が、娘には新鮮に見えるのだろう。倖枝は少し照れて苦笑した。
咲幸が自宅を出るのだと理解すると、財布から一万円札を一枚取り出し、咲幸に渡した。
「はい、お小遣い。楽しんでらっしゃい」
「ありがとう! サユも、ママに何かクリスマスプレゼント贈るよ!」
「私はいいから……。自分のために使いなさい」
嬉しそうな様子で出ていく娘を、倖枝は玄関で見送った。
娘の手前、笑顔を浮かべていたが、玄関の扉が閉まるとすぐ、倖枝は苦笑を漏らした。
この時から既に、憂鬱だった。出来ることなら行きたくないのが本音だった。
――結婚式に参列したところで絶対に楽しめないと、わかっていたのだった。
午前十時半頃、春名夢子から携帯電話に連絡があり、倖枝はマンションの入口へと降りた。
白い大型ミニバンの運転席に夢子が座っていた。倖枝は助手席に乗り込んだ。
六席の広さを誇る車内の後部座席は、背もたれが倒れ――倖枝の目にはテントのように見えた――アウトドアグッズで溢れていた。典型的なファミリーカーであるこの車種を、独身の夢子は『荷物を沢山積めるから』という理由で購入したのだった。
倖枝は後部座席から視線を戻すと、ルームミラーにパンダのキーホルダーがぶら下がっていることに気づいた。柄にもなく可愛いグッズがあるのだと、冷ややかな目で眺めた。
「お待たせ。時間、大丈夫かな?」
「結構余裕あるんで、道が混んでいてもたぶん大丈夫だと思います」
式は午後一時からだった。ここから式場のホテルまでは、順調に進んで約一時間半の距離だった。
夢子がカーナビを合わせると、自動車が動き出した。
「天井高いって、いいわね」
倖枝はこの自動車に、久々に乗った。次席の夢子はクロスバイクで出社し、仕事では社用車を使用しているため、プライベートでしか乗る機会が無かった。
「運転席の位置も高いんで、見晴らし良くて気持ちいいですよ」
「それもいいわよねー。私、次はSUV買おうっと」
「言ってましたね……。でも、あれ最低五百万はしますよ?」
「中古でも充分よ」
そのような話をしている内に、高速道路へと上がった。
しばらく進むが混雑も無く、倖枝はひとまず安心した。
「春名って法学部だっけ?」
「はい。そうですけど」
「法学部からの就職先って、どういうところあるの?」
夢子が大学を卒業していることは知っていたが、出身学部はうろ覚えだった。
確かめたうえで、昨晩から気になっていることを訊ねた。
「割と幅広い感じですよ。一握りですけど弁護士や司法書士になる人もいますし、一般企業のOLから公務員まで、なんせ働き口は多いです」
「そう、公務員! 実に良い響きね!」
昨日の時点では、どうしてかその言葉が浮かばなかった。確かに、行政に携わるなら法律知識は必要不可欠であると思った。
新たに出てきた選択肢に、倖枝の頭の中がぱっと明るくなった。もしも、咲幸の目指すべき将来を選べるなら――他と迷うこと無く公務員を推すだろう。
「どうしたんですか? ……咲幸ちゃんですか?」
夢子と咲幸は交流があった。夢子がキャンプや釣り等のアウトドアに誘うほどであった。咲幸としても、夢子に懐いていた。
「ええ。もう二年生も終わりだから、そういうの考えないといけなくてね……。本人は私に憧れて、とりあえず法学部にって感じなんだけど」
「私も、似たような感じでしたよ。なんとなく金儲けしたいなと思って、法学部を選びました。……咲幸ちゃん体育会系なんだし、
咲幸は中学高校と体育系の部活に属していたため、人間関係や行動力は身についているだろう。それらは社会で――特に営業職では大切な要素だと、倖枝は理解していた。
「こんな仕事、ダメダメ。今のご時世、何よりも安定感が大切よ」
しかし、やはりこの道には進んで欲しくなかった。
安定性と収入面で言えば、公務員が最もその均衡が取れているように倖枝は思った。今日の帰宅後ではないにしろ、咲幸と進路について話す機会があれば、説くつもりだった。
「へぇ。嬉野さんがそういうこと言うの、なんだか意外です。てっきり、金の稼ぎ方を叩き込むと思ってました」
「独身のあんたには言いづらいけど……子供に対しては、また違うのよ」
倖枝はそう口にして、自分なりにそういう考えで咲幸を大切にしていたのだと気づいた。
無意識にそのような言動と取っていたことが、嬉しかった。
「そういうものですか……。それじゃあ、陸上の推薦は蹴ったんですか?」
「ええ。それは本人が、そっちの道に進む気は無いって」
咲幸は長距離走の競技者として、それなりの成績を残していた。今年の夏、体育大学から一度は声が掛かったが、咲幸本人は自信が無いと断った。
倖枝としても競技者の将来は安定性に欠けるので、その選択に安心した。
「それは賢いですね。お金を稼ぐ効率に関しては、たぶんスポーツ選手より私達の方が簡単ですよ」
「どこ情報よ、それ……。ていうか、効率考えるのやめましょ。虚しくなるから」
「違いないです」
自分達が他の業種に比べとても悪いことは、倖枝の目にも見えていた。ふたりで笑った。
「というわけだから……もしさっちゃんと遊ぶことあったら、あんたからも公務員をやんわりと勧めておいて」
「わかりました……。というか、まだ誘ってもいいんですか?」
受験勉強を気遣っているのだと、倖枝は理解した。
確かに、咲幸には勉強に専念して欲しい。しかし、勉強ばかりだときっと効率が落ちるので、遊ぶことも必要だと思う。母として、その割合や線引は――自分が大学受験を未経験な以上、わからなかった。
「まあ、次の春まで……二年生の内はいいわよ」
咲幸がまだ部活に専念するのは構わない。それでも、そろそろ塾や予備校を考えて欲しいと思いながら、倖枝は高速道路つまらない景色をぼんやりと眺めていた。
*
予定通り正午過ぎに、目的地のホテルへと到着した。
地下の駐車場に駐車し、倖枝は自動車から降りた。
夢子も運転席から降りると、後部座席からハイヒールのパンプスを取り出し、ショートブーツから履き替えた。
倖枝は改めて夢子の全身を見た。ダークグリーンのロングプリーツドレスに、暗いベージュのファージャケットを纏っていた。
「春名、あんた――」
「その……お前女だったのか、みたいに見るの、やめて貰ってもいいですか?」
倖枝の記憶は定かではないが、スカート姿の夢子を久々に見たような気がした。いつも中性的なマッシュヘアとパンツスーツなので、とても新鮮だった。
高身長で体型が良いので、ドレス姿が様になっていると倖枝は思った。
ホテルの案内板を頼りに、受付に向かった。祝儀を渡し氏名を記入すると、広い待合室に通された。
ウェルカムドリンクとして、倖枝はホットワインを、夢子はホットミルクティーをそれぞれ受け取った。隅の席にふたりで座り、倖枝は部屋の様子を眺めた。
「念のため訊くけどさ……あんた、結婚願望ある?」
新郎新婦とどういう間柄なのか分からないが、夢子と近い歳に見える男性客の姿がいくつかあった。
「あるわけないですよ」
予想通りの返事だった。
金を稼いでひとりで好き勝手に生きている――夢子の姿は、倖枝にはそのように見えていた。恋愛を敢えて避け、気楽だから独り身を選ぶ。とても現代人らしい様式だと思っていた。
強がってられるのも、現在のうちよ? 歳取ると、段々寂しくなってくるからね。
倖枝はそのように言いかけて、口を閉じた。流石に失礼だと思ったのだ。
「二階堂さん居るじゃないですか? あの人、
夢子に言われ、銀行で世話になっている、小柄で堅い感じの女性を思い浮かべた。無愛想なのを抜きにしても、あの手は確かに男受けが悪いだろうなと、倖枝は思った。
「どうしてあんたが、そんなこと知ってるのよ?」
「あれ? 言ってませんでしたっけ? たまに、一緒にご飯食べに行ってますよ」
「へ、へぇ……」
おそらく倖枝は初耳であり、意外だった。以前からふたりの仲が良いとは思っていたが、仕事外まで交流があるとは思わなかった。
そして、変わり者ふたりでつるんでいる限り、二階堂灯に結婚は無理だと察した。
「嬉野さんこそ、どうなんですか?」
夢子の視線を追うと、倖枝と近い歳に見える男性が居た。
倖枝は男性を、見た目での評価すらしなかった。
「もしも
結婚願望が無いと言えば、きっと嘘になる。
しかし、年齢――それ以上にシングルマザーという立ち位置から、諦めの境地に入っていた。
「誰かに頼らなくても、生きていけるからねぇ」
金銭面では、確かにそうだ。
倖枝は苦笑した。部下の手前、強がっているだけだった。
待合室の壁には、新郎新婦の写真が沢山貼っていた。ふたりの思い出、そして幸せが、既に嫌というほど伝わった。
他の客人はそれらを眺めて微笑んでいたが、倖枝は既に辛かった。
それからも、気分が晴れることは無かった。
教会での式に参加した後、ブーケトスを夢子を少し離れて眺めていた。
披露宴で、倖枝は新婦の直近の上司としてスピーチを行った。新婦から依頼されていたことだった。
新婦は三十三歳で、昨年まで店の事務員だった。明るく人当たりの良い人物であり、客からの評判も良かった。
年齢と寿退社から、女性として順風な人生を歩んでいると倖枝は思った。
かつての部下を褒め、肯定的な言葉のみで構成されたスピーチだった。初めての経験だったが、気分とは裏腹に精一杯笑顔を作り、無事に終えた。
豪華なコース料理は、どれもほとんど味がしなかった。
ウェディングケーキのファーストバイト、色直しからのキャンドルサービス、そして参列客の余興。当たり障りの無い進行だった。
しかし、流れる曲や演出等は新郎新婦が式場と相談したものであり――参列客に楽しんで貰いたいという意図が、充分に伝わった。
それは倖枝の目には『祝福に値する幸福』に映った。本人達にそのような意図が無くとも、見せつけられて祝福を強制されているかのようだった。
だから、ふたりの未来が上手くいかないで欲しいと、妬む気持ちが倖枝にあった。
そのように考えてしまうことに自己嫌悪を抱きながら――両親への感謝の手紙を読み上げた新婦に、拍手を送った。
無傷で済むわけがないと、事前に分かっていた。義理が無ければ、このような場所に来なかった。
覚悟はしていたが、予想以上に心が抉られていた。
最後に、新郎新婦の思い出と、式から披露宴の映像が、プロジェクターに動画として流れた。
感動を味わうと共に、これから家族として歩き出したふたりを見届けた。その先はきっと、新たな
この順番が『普通』だ。これが家族としての『幸せ』だ。
倖枝は、自分が経験し得なかったことを目の当たりにした。
出口で新婦からクッキーの入った小包を笑顔で受け取った時には――倖枝の心は、ひどくやつれていた。
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