第021話

 その後、ホテルの近くの小さなバーで、貸し切りの二次会に参加した。義理からだった。

 それまでは、倖枝は頑張って笑顔を作った。

 夢子の自動車で暗い帰路を走っている時は、自分が死人のような表情をしていると分かった。喋る気力すら無く、車内は無言だった。


「ごめん、春名。あそこのバーで下ろして貰える?」


 高速道路を下りると、倖枝はNACHTを指示した。夢子と飲みに行くことはあまり無いが、行きつけのバーであることは以前から教えていた。


「嬉野さん、大丈夫ですか?」


 NACHTの前で停車した際、夢子から心配そうな視線を向けられた。倖枝は言葉にはしていないが、ここまで憂鬱になった理由を、おそらく察しているだろう。

 部下の前では無理をしてでも気丈に振る舞うつもりだったが、もはやそれすら出来なかった。


「ええ。ちょっと飲み直して、明日からまた頑張るから……。今日はありがとうね」


 倖枝は精一杯――なんとか苦笑して見せた。


「そうですか……。それじゃあ、お疲れさまでした」


 夢子は釈然としない様子だったが、立ち去った。

 深追いしない気遣いに倖枝は感謝し、NACHTの扉を開けた。

 時刻は午後九時半。世間の週末の夜だが、クリスマスだからか、いつも訪れる時と変わらないように店内は空いていた。


「ギムレット」


 倖枝はコートを壁に掛けると、カウンター席に腰掛け注文した。

 しばらくして、透明感のある淡い緑色の飲み物が差し出された。ショートグラスのそれを、倖枝は一口で飲み干した。ジンの苦味とライムの酸味、そして強いアルコールを一気に煽った。


「おかわり」


 再度同じものを注文し、ハンドバッグから携帯電話を取り出した。

 店内には、ひとりで飲んでいる女性客が他にも居た。しかし、現在は彼女ではなかった。馴染みのある人肌に、慰めて貰いたかった。


『もしもし、倖枝? どうしたの?』


 電話越しに須藤寧々の声が聞こえ、倖枝は涙が込み上げた。


「寧々さん、今から会えない!?」


 掠れた声で、必死に求めた。


『ごめん。今夜は無理だよ……。何があったのか知らないけど、しっかりしなよ?』


 冷静に考えれば、こうなることは分かっていた。クリスマス、かつ夜の更けた時間に、相手をして貰えるわけがなかった。

 寧々は自分の家庭を持っているのだから。そちらを優先するのは当然だ。

 勢いのまま行動して、その結果さらに傷つき――倖枝は涙を流した。


 涙を拭ってくれる女は、今夜は居ない。

 その現実に打ちひしがれたその時、かつてこのカウンター席で飲み交わした女を思い出した。

 倖枝は、携帯電話の電話帳で『ロジーナ』を開けた。あとは通話ボタンを押すだけだが――出来なかった。

 魔女のように妖艶な姿は、もう遠い昔だった。現在は、無邪気な幼い少女で上書きされていた。

 あの少女にも、弱さを見せたくなかった。

 やはり、今夜は孤独ひとりだった。

 どうすることも出来なかった。行き場の無い寂しさは、涙と共に溢れ出すばかりだった。



   *



 泣きながらギムレットを四杯飲んだが、五杯目の注文はバーテンダーから断られた。

 仕方なく、倖枝はタクシーを呼んで帰路についた。

 今日は日中から、大量のアルコールを浴びていた。それでも、気持ちがひどく沈んでいるからか、まだ素面だった。悪酔いすら出来ずに、現実に繋ぎ留められたままだった。


 だから、思考が働き、理解していた。

 時刻は午後十時半。おそらく、咲幸はもう帰宅している。しかし、気持ちも表情も、どう頑張っても『母』の顔に切り替えられない。現在も、まだ涙が止まらない。

 咲幸と顔を合わせたくなかった。娘だけには、この弱りきった姿を見せたくなかった。

 帰宅後すぐ、眠いという体で自室に閉じこもろう。明日の朝、シャワーを浴びよう。

 ぼんやりと計画を立てると、倖枝はマンション前に到着したタクシーから下りた。

 明日、仕事に行けるだけの精神状態に回復しているのか、わからない。その不安も抱えながら、自宅の扉を開けた。


「ただいま……」


 玄関には一足のスニーカーがあった。明かりの点いたリビングから、テレビの音が聞こえた。


「おかえり。結婚式、どうだった? ……ママ?」


 ソファーに座ってテレビを観ていた咲幸が振り返り、倖枝は目が合った。

 咄嗟にハンドバッグと引出物の入った紙袋で顔を隠し、逃げ込むように自室に入った。


「ママ、どうしたの? 大丈夫?」

「な、何でもないわ。母さん、眠いからもう寝るわね」


 涙声だと、自分でもわかった。どう誤魔化すか悩むも――ここまで瀬戸際に立たされたからか、なんだかどうでもよくなった。

 本当に、さっさと寝てしまおう。嫌なことは忘れてしまおう。

 倖枝はコートを脱ぎ、クローゼットを開けた。クローゼットの奥から、小さなショップバッグが見えた。


 ――ダメです。クリスマス当日に開けてください。


 舞夜から貰ったクリスマスプレゼントだと思い出した。

 コートをハンガーに掛けると、それを取り出した。現在まで存在をすっかり忘れていた。舞夜に言われた通り、本当にクリスマス当日に開けることになった。

 倖枝は包装された小箱を開けると、頭に輪を乗せた羽の生えた少女――天使の置物が入っていた。ガラス製のデフォルメされた天使が、笑いかけていた。


「は……はは……」


 倖枝の口から、乾いた笑みが漏れた。

 何たる皮肉だろう。魔女が天使を贈ってきたのだ。


 ――きっと、お母さんの喜ぶものです。


 いや、皮肉ではない。これこそが、彼女の真心やさしさなのだ。

 それを理解すると、倖枝の瞳から、さらに涙が溢れた。荒みきった心には、とても染み渡った。

 倖枝はベッドに腰掛け、サイドテーブルに天使を置いた。とても綺麗に輝いていた。


「ママ、入るね」


 ふと、咲幸の声と共に扉が開いた。

 部屋の扉に立つ咲幸を、倖枝は涙を流しながら見上げた。

 現在まで娘に見せなかった――絶対に見せたくなかった『弱さ』を、こうして見られた。


「やっぱり、泣いてるじゃん。どうしたの? 何があったの?」


 倖枝は、娘の姿になんだか違和感を覚えた。

 もしも、このような状況になれば、娘はきっと取り乱して慌てふためくと思っていた。しかし、実際はとても落ち着き、神妙な面持ちだった――まるで、大人の女性のように。


「だから、何でもないって――」


 倖枝は慌てて涙を拭うが、一向に収まらなかった。

 そんな倖枝に咲幸が近づき、腕を掴まれた。


「何でもないわけないよ。心配だよ。……ママは、あたしの大切な人だもん」


 屈んで顔を覗き込む娘の表情は、とても真剣だった。

 倖枝はさらに、違和感を覚えた。

 普段幼い娘が、妙に大人っぽく見えた。下ろした髪と化粧した顔のせいだと、理解した。

 ――今朝、自分が娘を『女』にしたのだった。


「あたしね……舞夜ちゃんを好きになろうと頑張ったけど……やっぱりダメだった……」


 それでもまだ違和感が完全に拭えないまま、立ち上がった咲幸にから抱きしめられた。小柄な身体の熱量が、正面から伝わった。

 とても優しかった。

 しかし、それに『弱さ』を委ねてはいけなかった。


「だって……あたしは、ママが好きだから」


 倖枝は、言葉の意味が分からなかった。

 その代わり、数日前、目の前の娘がこの部屋で何を行っていたのか――どうしてか、それを思い出した。

 嫌な予感が込み上げると同時、身体を離した咲幸から肩を掴まれ、そして唇を重ねられた。

 現在になって酔いが回ってきたと思いたかった。しかし、唇に伝わる柔らかな感触は、確かな現実だった。


 ――普通、母娘でキスなんてしませんよね。


 そう。普通は自分の半身むすめとキスをしない。

 目の前の人間は誰? この生物は何?

 倖枝の中で込み上げたものは、嫌悪感に似た恐怖だった。

 動けぬまま、ベッドに押し倒された。


 倖枝は怯えた表情で、目の前の女を見上げた。逆光の中、顔の影が確かに見えた。

 凛とした表情で見下ろす初対面の女性から、指先でそっと涙を拭われた。


「もう大丈夫だよ。あたしが弱さなみだを全部受け止めるから――倖枝」



(第08章『弱さ』 完)


(第1部 完)

https://note.com/htjdmtr/n/n1c1cd271251d


次回 【幕間】第09章『春名夢子』

クリスマスの夜、夢子はスーパーマーケットで二階堂灯と偶然会う。

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