第09章『春名夢子』
第022話
五年前。
春名夢子は大学の法学部を卒業後、新卒で大手の不動産会社に就職した。
大学在学中に宅地建物取引士の資格を取得済みだった。とはいえ、不動産営業職への夢や熱意が大きかったわけではない。今後、必要だと判断したからだった。
「あんた、すっごい無愛想だけど、大丈夫? この仕事、やってける?」
配属された店舗で、当時次席だった嬉野倖枝からそのように心配された。それはもっともだと、夢子自身も思っていた。
仕事上の笑顔は作れるが、性根は明るくも前向きでもなかった。営業職向けの人間ではないと、自覚していた。
それでも、営業職自体は生涯続ける気があった。ただし、不動産会社は
当時二十二歳だった夢子は、金に関する様々な職業の経験を積みたいと思っていた。時間をかけて実務で勉強し、またそれらの実績がいずれは説得材料になると考えていた。
夢子は、四十歳あたりで
不動産会社はいずれ辞めると分かっていたが、かといって手を抜くつもりは無かった。業務には真剣に取り組んでいた。
「春名、ごめん。ちょっと銀行に行ってきてくれる? えーっと、融資審査部だったかな? 二階堂さんって人に渡せばいいから」
ある日、夢子は倖枝からそのような使いを頼まれた。店のエースである倖枝は常に忙しくしており、物件の写真撮影や看板設置等の雑用を任されることが多かった。
買い顧客のローンに関する書類を提出するため、近くの地方銀行へと向かった。当時はまだ髪が長く、着慣れないスーツ姿が初々しかった。
夢子は受付窓口で伺った旨を伝えると、裏手の一室に通された。
銀行の金融審査部。夢子としては不動産営業の次に就きたい仕事があり、興味があった。
「あの……二階堂さんでしょうか?」
「はい。私ですが」
案内された人物は机で仕事をしていた。呼びかけると、むくりと顔を上げた。
小柄な女性だった。上げた前髪をヘアピンで留め、大きな眼鏡をかけていた。実際は二歳差だが――夢子は知らないが、おそらく歳が近いと思った。
そして、自分以上に無愛想だった。
「こんにちは。はじめまして。新人の春名と申します」
初対面なので、夢子は名刺を渡した。自分が売買契約を成立させた場合も、おそらく世話になる人物だと思っていた。
二階堂という人物は名刺を受け取ると、つまらなさそうに眺めた。そして、机の引き出しから名刺を取り出すと、夢子に手渡した。
「あなた方のローン担当の二階堂です。くれぐれも、書類不備だけは無いようにお願いします」
夢子の中で第一印象は最悪だった。初対面で苛立った敵意を向けられるとは思わなかった。
二階堂という名字のイメージ通り、厳格な人物だった。しかし、貰った名刺を見ると、灯という名前が小柄な女性通りで、なんだか可愛かった。
「どうしました?」
「……なんでもありません」
名字と名前の正反対な食い違いに、夢子は笑うのを堪えた。
もっとも、氏名に関しては夢子も他人を笑えないほどの劣等感を抱えていたが。
「これ、嬉野さんから預かってきました」
夢子は書類を手渡すと、灯はその場で順に確認した。
「はい。結構です。もっと早く持ってくるよう、嬉野さんに伝えておいてください」
「わかりました……。ありがとうございました。失礼します」
つまらない小言を、上司である倖枝に伝えるつもりは無かった。夢子は適当に頷くと、その場を後にした。
金融に関する仕事に対し、浮つきや軽率なイメージを持っていなかった。どちらかというと生真面目寄りだったので、確かに灯の人柄は適材だと理解していた。
とはいえ、あそこまで苛立つのは苦労する仕事なのだと、夢子は思った。
次に進むべき過程であるが――こうして受けた印象から、少しの躊躇が生まれた。
*
店に配属されてから一ヶ月後、夢子は売却願いの手撒きチラシから反響があり、中古マンションの売却を預かった。さらに一ヶ月後には買主が見つかり、初めての仲介契約成立となった。
買主がリフォーム可能なら行いたいと希望したので、倖枝から店舗ぐるみで世話になっている工務店を紹介して貰った。
「春名。こちらが、須藤工務店の社長さん」
「どうも、はじめまして。鍵交換だけでもいいから、中古預かった時はお客さんに紹介してね」
須藤寧々を一目見て、美人だと夢子は思った。知的で落ち着いた雰囲気から、建築デザイナーを彷彿とさせた。
後から倖枝から聞いた話では、営業の他にデザインや設計も、確かに彼女が手掛けているらしい。そして、かつてはツナギを着て現場で実作業も行っていた話も聞き、驚いた。
「はじめまして。新人の春名です。お世話になります」
夢子は名刺を渡して挨拶した後、三人で中古マンションの空き部屋を確認した。
買主に提案できるよう、どのようなリフォームをどの程度の費用で行えるのかを、寧々から教わった。
「社長、ありがとうございました。予算の都合で全部は無理ですが、可能な限りプッシュしてみます」
「うん。じゃんじゃん仕事振ってね。期待してるよ」
今後の営業活動に役立つ知識を貰い、良い勉強になったと夢子は思った。寧々に感謝した。
「春名……。私の預かってる件で社長と話があるから、先に車に戻っててくれる?」
倖枝にそう言われ、夢子は頷いた。
玄関でパンプスを履こうとした、その時――リフォームとリノベーションはどう違うのだろうと、ふと疑問に思った。寧々から最後に教わろうと、リビングまで引き換えした。
「……」
その光景を見た瞬間、夢子は驚いて咄嗟に身を引いた。瞬時の判断と、物音を立てずに気づかれなかった行動については、自分を褒めたいぐらいであった。
――薄暗いリビングで、倖枝と寧々がキスをしていた。
見てはいけない光景だった。見たくない光景だった。
夢子は踵を返し、そっと玄関を出ると、自動車に戻った。運転席に座っても、まだ落ち着かなかった。
――女性同士のキスを、初めて見た。
同性のそのような行為や関係については、以前から何も思わなかった。自分はそれに該当しないが、特に偏見や隔たりがなく、理解しているつもりだった。
しかし、実際に目の当たりにすると、とても動揺した。
いや、それ自体にではない――きっと、身近な人間だからだろうと思った。
未婚のシングルマザーで小学校六年生の娘が居ることは、倖枝本人から聞かされていた。彼女の半生と不動産営業職を選んだ理由を知っていた。
だが、寧々とそのような関係であることは、知らなかった。
倖枝はまだしも――寧々の左手薬指には、指輪が嵌っていた。
マンションの来客スペースの駐車場には、隣にもう一台の自動車が停まっていた。おそらく、寧々のものだろう。その後部座席に、チャイルドシートが設置されていた。
寧々は既婚者で子供が居る立場である可能性が非常に高い。つまり、倖枝との関係は――
「はぁ……」
夢子は理解すると、ため息をついた。知りたくない事実を知ってしまったため、とても気が重かった。
誰にも相談出来なかった。いや、誰かに話したところで、楽になるとは思わなかった。
墓まで持っていかなければいけない話だった。
しばらくすると、マンションの出入り口から倖枝と寧々が出てきた。夢子の目には『仲の良い女性ふたり』に見え、気まずさや何かを警戒している様子は無かった。
まるで、何事も無かったかのようだった。夢子も、そう信じたかった。
「春名、お待たせ。……どうしたの?」
助手席に乗り込んだ倖枝から、心配そうに訊ねられた。
平静を装っているつもりだが、気疲れが表情に出ているようだった。
「いえ……何でもありません」
夢子は首を横に振りながら――倖枝のスーツにウェーブパーマのショートヘアが付いているのが見えた。
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