第08章『弱さ』

第019話

 十二月二十三日、金曜日。

 倖枝は仕事から帰宅後、咲幸と夕飯のクリームシチューを食べていた。咲幸が料理したものだった。


「母さん、明日結婚式に行くけど……二次会もあって遅くなると思うから、夕飯済ませておいて」


 本社へは夢子とふたりで明日の有給届を提出済みだった。

 有給とはいえ、繁忙日である土曜日に店長と次席が休暇を取るのは、本来はあり得ない話であった。しかし、今月の目標を達成していること、そして案内の予約自体も少ないため、受理された。

 世間はクリスマスに物件探しをする風潮ではないようだった。毎年、どの店舗もホリデーシーズンで客入れが激減するため、珍しい話ではなかった。今年はクリスマスと土曜日が重なったため、特に顕著だった。


「ていうか、さっちゃんは明日何かあるの?」

「うん。明日は舞夜ちゃんとデート。映画観た後に買い物したり、ケーキ食べたり……」


 ふたりは恋人として付き合っているのだから、その過ごし方は至って正常だと倖枝は思った。

 ――娘に対して嫉妬することは無かった。

 倖枝自身、内心で自身の変化に驚いていた。堂々と娘を送り出すことが出来た。

 先日の買い物で、舞夜との距離感が掴めたようだった。おそらく、もう彼女を『女』として求めることはないだろう。


「そう……。お小遣い足りる? 今日だって、いろいろ使ったでしょ?」


 倖枝は微笑みながら訊ねた。

 咲幸は、今日の午後から美容室に行き、そして衣服の買い物をした。下ろした髪は綺麗に伸びていた。

 我が娘ながら美人になったと、倖枝は思った。


「うーん……。正直言うと、ちょっと心許ないかも」

「お小遣いあげるから、何か美味しいもの食べてらっしゃい――折角のクリスマスなんだし」

「やった! ありがとう、ママ!」


 倖枝としても明日は祝儀代の料理を頂くため、多少の罪悪感があった。現在は気分が良いため、こうすることで晴らした。


「あっ、そうだ……。たぶん部屋ここ出る時間同じぐらいだと思うから、メイク教えてよ」

「ええ。いいわよ」


 倖枝がクリスマスプレゼントに渡した化粧品を使っている様子はまだ無かった。やはり、自分が教える必要があると倖枝は思った。

 面倒ではなかった。むしろ、この髪と共に化粧をすればどうなるのか、倖枝としても楽しみだった。


「ありがとう! 明日はうんとオシャレして出かけるよ!」


 娘の嬉しそうな笑顔で、倖枝はなお上機嫌になった。


 夕飯を食べ終えた後、倖枝は片付けを済ませ、リビングのソファーに腰掛けた。

 もう少しすれば風呂に入ろうと思っていると、咲幸が自室から姿を現した。心なしか、そわそわした様子だった。


「ママ……これ」


 倖枝が手渡されたものは、通知表だった。そういえば今日は二学期の終業式だったと、倖枝は思い出した。

 二つ折りのそれを広げ、内容を確認した。

 中間、期末、それぞれの試験結果が各教科に記され、そして五段階で評価されていた。どれも三から五であり、平均はおよそ四寄りの三後半だった。

 この成績がどの程度のものなのか、倖枝には分からなかった。『悪くはない』という印象だった。

 それよりも、出席日数の欄に目がいった。皆勤であることが、倖枝はとても嬉しかった。


「うん。さっちゃん、頑張ったわね」


 自分がろくに登校しなかったことは――咲幸にはとても言えなかった。さも成績に対するかのように、倖枝は褒めた。

 自然と、咲幸の頭に手が伸びていた。咲幸の頭を撫でていた。


「あっ、ごめん」


 縮毛矯正したばかりの髪に触れていることに気づき、倖枝は手を離した。


「謝んなくていいよ……。嬉しいから……」


 咲幸は静かに驚いているようだった。満更でもない表情だった。

 普段、このようにスキンシップをすることは無かった。しかし、倖枝としては、娘とのこのようなやり取りが悪くない感触だった。


志望校だいがくは、この前言ってたところなのよね?」

「うん。そこが第一志望のつもりだよ」


 二年生に進級してすぐ、咲幸から進路のことを聞かされた。

 咲幸は、この地域ではそれなりに名のある公立大学を目指していた。現在の自宅から通える距離と、そして――


「母さん、私立の学費も出せるんだからね? さっちゃんが本当に勉強したい所に行きなさい」


 おそらく、金銭面を考慮してのことであった。

 倖枝は私学の学費を調べてみたが、現実的に工面できる額だった。娘に奨学金の借金を背負わせることなく、ひとりで負担するつもりだった。

 しかし、それでも咲幸から遠慮されていることが、なんだか残念だった。咲幸の将来にまだ他の可能性があるならば、些細な理由で潰したくなかった。


「ありがとう。あそこで法律の勉強がしたいのは本当だから……」

「それならいいんだけど……。でも、不動産屋になるのはオススメしないからね」


 咲幸には、具体的な将来の夢がまだ無かった。法律の知識があれば社会で役立ち、そして母のように法律に関する仕事に就きたいという理由で、法学部を選んでいた。

 娘が自分の姿に憧れていることが、倖枝は嬉しかった。だが、自分の仕事に誇りが無いため、同じ道に進んで欲しくなかった。


「えー。ママ、いっぱい稼いでるじゃん」

「その分、苦労する仕事なのよ。さっちゃんは勉強して、手堅く稼ぎなさい」


 倖枝は現在の仕事で、嫌な思いを沢山してきた。仕事内容もそうだが、勤務時間や休日が特に不満だった。

 咲幸が将来、自分の家族を持った時――勤務体系で家族とのすれ違いが生じ無いよう願った。


「将来のことも、ぼちぼち考えるよ。……まあ、まずは大学に受かってからだけどね」


 咲幸は苦笑した。

 夏の三者面談では、当時の成績ではなんとか合格圏内だと担任教師から言われた。それから成績が落ちているわけではないので、維持もしくは伸びると現実的に進学できるだろうと倖枝は思った。


「そのためにも、勉強しなさい。さっちゃんは――」


 ――私と違って、ちゃんと大学に行きなさい。

 倖枝はそう言おうとして、口を閉じた。


「どうしたの?」

「なんでもない……」


 自分が学生時代に勉強をしなかったため、勉強しろとうるさく言えなかった。

 大学にも行かなかったため、大学に行けと言えなかった。

 どちらも、倖枝には言う資格が無かった。


 娘に大学に行って欲しいと願うのは、母としての夢であった。咲幸自身のためであり、そして自分に出来なかったことを果たして欲しかった。

 しかし、それを押し付けるのは筋違いだと、倖枝は思っていた。きっと、咲幸には納得できない負担になるだろう。


「今の調子で頑張ってね」


 倖枝は言葉を選んでそう告げた。褒める方向で応援すれば、あまり負担にならないように思った。


「うん。サユ、頑張るよ」


 咲幸は笑顔で頷き、自室に戻った。

 それを見送ると、倖枝は通知表をテーブルに置いて肩の力を抜いた。

 詰まる場面もあったが、以前よりは母として上手く立ち回れたような気がした。特に、頭を撫でることが出来て良かった。

 これも、舞夜のお陰だった。彼女と擬似的な母娘関係で居ることで、少しずつ成長していた。

 この満足感があるからか、自分の過去を振り返っても、気分は沈まなかった。


 舞夜は、どのような進路を進むのだろう。ふと、そう思った。

 月城には舞夜の兄である長男が居ると聞いている。やはり、家業は彼が継ぐのだろうか。

 いや、このご時世に女性経営者は珍しくない。大学で経営を学んだ後、家業に関わるのだろうか。

 倖枝は、そのようなことを勝手に想像した。

 所詮は擬似的な繋がりに過ぎない。舞夜がどのような将来を選ぶとしても、咲幸に対する以上に口を挟めなかった。

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