第111話(後)

 廊下も教室も、まだ体育館からの移動時だからか騒がしかった。咲幸の教室では生徒の他、後方の壁際に保護者が立ち並んでいるのが廊下から見えた。

 倖枝は高校の学校行事に、初めて知り合いの保護者と一緒に参加した。だが、もう舞人は側に居ないため、他の保護者達を前に、少しだけ心細くなった。

 それでも、咲幸の『卒業』を見届けなければいけない。何も恥じることは無いのだと、改めて自身に言い聞かせた。そして教室に入り、有象無象の群れに混じって並んだ。


 教室内で、自分の席だろうか――咲幸は座り、周囲の生徒と楽しそうに談笑していた。胸元のリボン記章が、改めて倖枝の目に映った。

 咲幸は視線に気づいたようで、座りながらも倖枝に手を振った。倖枝も、微笑みながら振り返した。

 前方の黒板には、生徒達によるものであろう『卒業』に関する寄せ書きがあった。咲幸との距離も近くなったせいか、先ほどの式典より倖枝は卒業を実感した。

 だが、高校の学校行事を経験していない倖枝にとって、これは未知のものだった。


 やがて、担任教師が教室に入り、喧騒は落ち着いた。最後のホームルームが始まった。

 担任教師による教壇からの短い講話の後、舞人の言っていた通り、卒業証書と通知表が配られることになった。


「出席番号一番、嬉野咲幸さん」

「はい!」


 咲幸が返事と共に席から立ち上がり、教壇へと向かった。


「三年間皆勤と、部活の方はインターハイ出場――本当、よく頑張ったね。卒業、おめでとう」


 おそらく全員分を用意しているのだろうが、咲幸は一言と共に担当教師から卒業証書を確かに受け取った。

 ――自分の娘は、自分に成せなかったことを成し遂げたのだ。

 その光景は、倖枝にそう感じさせた。

 一般家庭に比べ遥かに劣る環境でも、自分の娘は成人を迎え、高校までを卒業した。娘自身の力で『社会』に出るための出発点に立つことが出来た。決して、かつての自分のように脆弱な状態ではない。最低限の力を備えているため、安心して送り出せる。

 これを立派と言わずに何と言おう――感極まった倖枝は涙を流しながら、誰よりも早く、誰よりも大きく拍手をした。

 教室内が驚いた雰囲気に包まれた。涙の向こうで咲幸が振り返り、咲幸もまた驚いていた。倖枝は周囲の視線を感じるが、躊躇せずに拍手を続け、自分の娘をただ称えた。

 少しの間を置き、生徒と保護者も倖枝に続いた。教室内が拍手に包まれた。

 その中で、倖枝は俯いて嗚咽を漏らしていた。呼吸が乱れるほどだ。


 咲幸の門出に感動した。母親として報われた。

 そして――この光景が、残り数少ない大切な『思い出』になると、わかっていたのだ。

 嬉しくて、安心して、辛かった。それらが倖枝の中で入り混じっていた。


 出席番号二番の生徒が担任教師から呼ばれ、咲幸が教壇を離れた。倖枝には見えないが、自分の席を通り過ぎ、倖枝の元まで歩いた。


「ママ……。サユ、やったよ」


 倖枝は咲幸に正面から抱きしめられた。優しい声は、とても力強かった。


「さっちゃん! 卒業……おめでとう!」


 咲幸の腕の中で、呼吸を整えながらも祝いの言葉を紡いだ。

 母親として、素直にこの気持ちを伝えたかった。


 生徒全員が卒業証書と通知表を受け取り、ホームルームを終えた頃には、倖枝も落ち着いていた。

 解散後、教室では担任教師の前に、生徒の列が出来た。それぞれツーショットの写真を、保護者に収めて貰っている。

 倖枝も撮りたいと思いつつも、咲幸に事情を話し、一度トイレへと向かった。

 涙で崩れた化粧を直した。大泣きして頭がぼんやりしながらも、あの場で派手に泣いた恥ずかしさが現在になって込み上げた。

 とはいえ、所詮は他人。もうあの保護者達と顔を合わせることは無いと割り切り、教室へと歩いた。


「あっ、嬉野さん」


 廊下に、舞人が立っていた。その隣には、舞夜も居た。


「すいません。もうちょっと待って貰っていいですか? すぐ終わらせますので」


 倖枝は自分が待たせていることを思い出し、慌てて教室に入った。

 先ほどまでの列は、もう無くなっていた。同級生と喋っていた咲幸の手を引き、担任教師との写真を撮った。

 そして、担任教師に感謝を伝えると、咲幸と共にひとまず廊下に出た。


「舞夜ちゃん、おめでとう」

「咲幸こそ、おめでとう」

「すいません。お待たせしました。……私からも、卒業おめでとう、舞夜ちゃん」


 ふたりの少女が喜び合う隣で、倖枝は舞人に頭を下げた。

 ひとまず、ふたつの家族の四人が揃った。


「サユ、これから部室の方にも顔出したいんだけど……」

「さっちゃん、その前に写真撮らせて――舞夜ちゃんと」


 舞夜はすぐにでも帰宅できる様子だが、咲幸はそうはいかなかった。その方が、倖枝としても都合が良かった。

 正午過ぎ、四人で校舎から出た。倖枝は、校門にある『卒業式』の看板を背に写真を撮りたかったが、考えることは皆同じのようで、混んでいた。仕方なく、空いている体育館入口の看板を使用した。


「はい、チーズ」


 倖枝は看板を挟むように左右に咲幸と舞夜を立たせ、携帯電話で写真を撮った。

 ふたり共しんみりした様子ではなく、カメラ越しに明るく微笑んだ。


「貸してください。僕が撮りますよ」


 舞人の言葉に甘え、倖枝は携帯電話を渡した。咲幸との写真を撮って貰った。

 次は倖枝が舞人の携帯電話で、月城の父娘を撮った。

 他人から『四人』での写真を撮って貰うことは無かった。


「それじゃあ、部室の方に行ってくるね」

「ええ。校門の方で待ってるわね」


 咲幸が離れ、三人となった。

 倖枝は、この時を待っていた。今日この式典に舞人が訪れることを予想し、事前に準備していたことがある。


「社長さん……ちょっとだけ、お仕事の話いいですか?」

「わかりました。……舞夜、校門の方で待っててくれるかな?」


 舞人が舞夜を外し、こちらの意図が伝わったのだと倖枝は思った。

 舞人と共に、中庭へと歩き出した。三月の晴れ空の下、頬を撫でる風はあまり冷たくない。

 倖枝はふと振り返ると、舞夜がどこか悲しげな瞳でこちらを眺めていた。


 中庭には卒業生、在校生、保護者が入り混じり、賑わっていた。朝、舞人が座っていたベンチが偶然空いていたので、ふたり並んで腰かけた。

 朝は気づかなかったが、梅の花が綺麗に咲いていると、倖枝は思った。

 陽射しは心地よく、穏やかな時間だった。このまま、日向ぼっこでもしたいほどだ。

 しかし、倖枝はハンドバッグから暗い赤色の小箱を取り出した。結局、中身を見たのはクリスマスでの一度きりだった。


「これ、お返しします。私には、受け取れません」


 小箱をふたりの間に置き、自ら下した『選択こたえ』を口にした。


「……本当に、いいんですか?」


 舞人はつまらなそうな目で小箱を見下ろした。

 落ち着いた声から、焦りは無い。念のため確認しているのだと、倖枝は捉えた。


「これでいいんですよ……。舞夜ちゃんは、私達の側に居てはいけません。私達で、あの子の背中を押してあげましょう」


 そう。倖枝は突きつけられた二択から、舞人からの求婚を拒むという方を選んだ。それは即ち、舞夜が家業を継がなくてもいいという条件となる。舞夜なりの手段で、舞人から受け継ぐ資産を次の代に遺せば、それでいい。


「それは構いませんけど『貴方の方』はどうなんですか?」


 声の抑揚は変わらないが、舞人から心配されているように、倖枝は聞こえた。

 自身が結婚せず独り身で居るのなら、咲幸の足を引っ張ることになる――確かに、問題はそこだった。これを選ぶにあたり、倖枝は悩んだ。


「何も、身を固めるだけじゃありませんよ……。娘を私の元から送り出す手段なら、他にもあります……」


 咲幸と舞夜、どちらか片方は選べなかった。しかし、ふたりを幸せにする方法が、ひとつだけあった。

 倖枝は悩んだ末、それを決意したのであった。その結果の選択だ。

 余裕など微塵も無いが、舞人に微笑んで見せた。


「貴方は強い女性ひとだ」


 舞人は小箱を手にすると、ベンチから立ち上がった。そして、笑顔で倖枝に手を差し出した。


「わかりました。そういうことでしたら、あのモデルハウスを譲りましょう――必要でしょ?」


 倖枝は今日、この返事と共にモデルハウスの購入を再度交渉するつもりだった。

 おそらく、舞人は倖枝の意図を――具体的な方法を、全て理解したのだろう。同情なのかもしれないが、嬉しかった。


「はい。ありがとうございます」


 倖枝は舞人の手を取り、立ち上がった。

 この男に、初めて触れた。

 やはり、異性として心は全く動かなかった。これからも手を引いて欲しい存在には、成らなかった。


 学校中が、まだ賑やかだった。

 倖枝は舞人と共に校門付近まで歩くと、こちらの存在に気づいたのか、舞夜が近寄ってきた。そして、倖枝に抱きついた。


「倖枝さん……」


 舞夜は俯き、今にでも泣き出しそうなか細い声を漏らした。


「ほら。めでたい日なんだから、笑いなさいよ」


 倖枝の言葉に、舞夜は顔を上げた。

 藍色の瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいた。だが、舞夜は唇を噛み締め、堪えていた。


「あんたが心配することじゃないわ……。これでいいのよ」


 倖枝は舞夜の頭を撫で、微笑んだ。

 それに応え、舞夜も潤んだ瞳で笑った。とても可愛らしいと、倖枝は思った。


「あっ。ママ居た」


 咲幸の声がして倖枝は振り返ると、咲幸がいくつもの花束を抱え、困った表情を浮かべていた。


「咲幸、モテるのね」


 泣くのを堪えるように、舞夜がおかしそうに笑った。

 おそらく、花束は部活動の後輩達から貰ったものだろうと、倖枝は思った。


「いや……そういうわけじゃないんだけど……。とりあえず、これ持って先に帰っておいて。サユ、もうちょっとしたら帰るよ」


 この花束を抱えてクロスバイクを漕ぐのは無理だ。倖枝は咲幸から受け取った。


「今日は何時に帰ってきてもいいから、最後の女子高生を楽しんでらっしゃい――ただし、羽目外すのと、アルコールはダメだからね」

「はーい」


 どうせ、同級生や部活仲間らと打ち上げのようなものがあるのだろう。念を押したうえで、許した。

 咲幸が戻った先に、風見波瑠が立っていた。遠くから敵意ある視線を向けられ、倖枝は彼女の存在を思い出した。だが、今日は相手をする気にはなれず、踵を返した。


「……あんたはいいの?」

「それ、訊きますか?」


 舞夜は苦笑した。このまま、舞人と帰宅する様子だった。

 高校生活に未練が無いことは、倖枝にもわかった。


「また会いましょう、倖枝さん」

「僕の方も、さっきの件でまた連絡しますね」

「はい。今日は、ありがとうございました。それでは――さようなら」


 校門を出て、倖枝は月城の父娘と別れた。コインパーキングへと、ひとりで向かった。

 三月の、晴れ渡った昼下がり。爽やかな陽射しに、気分は軽くなる。

 だが、抱えた花束――スイートピーの甘い香りが、倖枝の感傷にそっと触れた。



(第41章『二択(後)』 完)


次回 第42章『一心』

咲幸の進路が決定する。

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