第42章『一心』
第112話
三月五日、火曜日。
午前九時過ぎ、倖枝は咲幸を助手席に乗せ、自動車で自宅を出た。
行き先は、咲幸が先日入学試験を受けた大学――第一志望校だ。今日の午前十時より、学内の掲示板に合格者一覧が貼り出されるので、確認に向かう。
第二、第三志望の私立校と同じく、インターネットでの合格発表も行われる。だが、ここは国公立校だからか、このように昔ながらの発表方式もあり、咲幸が行きたいと言い出した。倖枝としても、合格発表といえば現地で確認する方法が一般的な印象があった。それに、繋がらないインターネットの発表に苛立つよりは確実だ。
今日が偶然にも休日でよかったと倖枝は思いながら、自動車を走らせた。
「……」
流石の咲幸も緊張気味のようで、車内でずっと黙っていた。
先日の高校卒業式を終えてからも、自動車学校やアルバイト求人の情報を眺めるものの――結局は何も手につかず、怠惰な日々を送っていた。
無理もないと倖枝は思い、催促もせず黙って見守っていた。状況をはっきりさせなければ、四月に向けて動けないのだ。
車内では、カーステレオからラジオ番組が流れていた。だが、咲幸がその内容に触れることは無かった。倖枝としても、内容は全く頭に入ってこなかった。
「そこにコンビニあるけど、大丈夫? 寄らなくてもいい?」
「うん。平気だから、このまま行こう」
「そう……。わかったわ」
倖枝もまた緊張から話しかけるが、会話は続かなかった。さらに空気が重くなったように感じた。
今日これから合格しているのを確認する。そして、夜は盛大に祝う。
この予定が理想だが、倖枝は悪い可能性を考え、未来のことを口には出来なかった。何を話していいのか、わからなかった。
倖枝の中にある明るい話題といえば――社長との口頭ではあるが、あのモデルハウスの買付が完了したことだ。残り一区画の分譲地が売れ次第、正式な契約へと進むだろう。
だが、卒業式の日にあったその出来事を、倖枝はまだ咲幸に言えずに居た。良い意味で驚かせようとしているのではない。その『未来』へ進むことに、ただ躊躇っていたのだ。
とはいえ、もう間もなく咲幸の進路が確定する。未成年でも、高校生でも無い。大学生は、
高校生だった咲幸との日々は、かつては保護者としての義務感からの開放を望んだが――特にここ一年、倖枝には心地の良いものだった。
しかし、それはもう終わりを迎える。心地良い時間は永遠には続かず、次へと進まなければならない。
緊張感だけではなかった。卒業式と同じ――どこか物寂しさも感じながら、倖枝はハンドルを握っていた。
やがて、大学が近くなり、周辺のコインパーキングに駐車した。倖枝は咲幸と共に自動車から下り、ふたりで歩いた。
午前九時四十五分、倖枝は大学という施設を初めて訪れた。高校までとは違い、敷地の広さがまず印象的だった。
校門をくぐると――既に大勢の、年頃の男女で賑わっていた。
私服姿で、かつ緊張した面持ちの者は、咲幸と同じ受験生だろう。保護者の付き添いも多い。そして、運動部のユニフォーム姿は在校生なのだと倖枝は思った。どちらも見た目の年齢では区別がつかなかった。
受験生達が、掲示板を囲っていた。そこにはまだ、不自然なほど何も貼られていなかった。
「いよいよね」
「うん……」
人混みから少し離れた所で、立ち止まった。
倖枝は咲幸を見ると、受験票を握りしめ、どこか不安げな表情を浮かべていた。
ここから掲示板までは距離があるため、おそらく文字は読めない。かといって人混みを割って進むことはせず、その時を待った。
しばらくすると、紙を持った職員数名が掲示板に近づいた。午前十時になったのだと倖枝は理解した。
彼らが掲示板に紙を貼り、離れるや否や――少しの間を置き、前方から歓声が上がった。心の底から喜んでいる者が居る一方で、残念そうに気落ちしている者も居た。実に分かりやすい『勝敗』だと、倖枝は思った。視界の隅では『勝者』が運動部の在校生らから胴上げやハイタッチで祝福されている。
確認を終えた者から掲示板を離れていき、やがて咲幸が近づけるまで空いた。
倖枝は片手で、隣に立っている咲幸の手を握った。
「そろそろ、行きましょうか」
咲幸は小さく頷き、ふたりで掲示板へと近づいた。
掲示板に貼り出されている紙には、受験番号がずらりと昇順で並んでいた。
倖枝は、咲幸の握る受験票から受験番号を改めて確かめた。ふたりで掲示板を指差し、該当する大まかな群れをまずは探した。
それを見つけると、指差しの早さを落とし、ゆっくりと番号を探した。そして――
「あった……あったよ、ママ!」
咲幸の受験番号が、記されていた。
倖枝の目から見ても、間違い無い。抑揚の上がった咲幸の声を、素直に受け入れたい。
だが、倖枝は念のため受験票を再度確かめ、掲示されている受験番号と照らし合わせた。
「さっちゃん……合格よ……」
照合に間違いが無いのだと分かり、倖枝は喜ぶよりも、脱力気味になった。まるで、腰が抜けたかのようだった。それほどまでに、報われた気分だった。
姿勢が崩れそうになるも――咲幸に身体を支えられたのだと思った。
しかし、実際は泣いている咲幸から抱き付かれたのだった。
この受験期間で、娘の涙を倖枝は初めて見た気がした。自分の瞳の奥からも、熱いものが込み上げてきた。
「さっちゃん! これまでよく頑張ったわね!」
倖枝もまた、咲幸を抱きしめた。
いくら努力しても、結果を出さなければ意味が無いと倖枝は思う。もし不合格だったとしても、これまでの過程を労ったところで結果は変わらない。
だが、確かに結果に繋がったので、まずは称えた。
「おめでとう……。これからも、頑張りなさいね」
これで終わりではない。想定通りの
だから、咲幸がこれからも想定通り明るい方向に進めると、倖枝は信じた。それだけの力を、確かに持っているのだ。
「うん!」
咲幸は泣きながら、力強く頷いた。
こちらの意図を理解してくれているようで、倖枝は安心した。
ふたりで抱き合って泣いていると、複数の人影が近づいてきた。倖枝は顔を上げ、何人かの女性とその格好から、チアリーディング部の集団だと理解した。
掲示板の前で泣いていたのが邪魔だったのか、彼女達から笑顔で人混みの外側まで誘導された。そして、咲幸が取り囲まれ、胴上げされた。
咲幸は涙を流しながらも嬉しそうに微笑み、宙に舞った。
その様子を、倖枝は携帯電話で写真を撮った。
咲幸が解放される頃には、ふたり共落ち着いていた。
「えっと……とりあえず、合格証書でも貰いに行けばいいのかしら」
冷静になった倖枝は、思考を働かせた。合格したからと言って、入学手続きを済まさなければ春から通えない。
「ママ、そのへんの書類は郵送で来るよ」
「……そういえば、そうだったわね」
「それじゃあ……写真でも撮って帰ろうか」
ただ合否を確認するためだけに訪れたのだと、倖枝は思い出した。
今回は入学金だけではなく授業料も支払い、入学を確定させないといけない。明日も休日なので、明日中に行うことにした。
掲示板の前で自分の受験番号を指さす咲幸を倖枝は写真に撮り、ふたりで校門へと向かった。
校門を出る際、倖枝は振り返って構内を改めて見渡した。
どの校舎でかは分からないが、この学校のどこかで、咲幸は法律を学ぶのだ。間違いなく、ただの不動産屋である自分より詳しくなるだろう。社会に出るための
コインパーキングで自動車に乗り込むと、倖枝は帰路を走った。
「あっ、ママ……。ちょっと高校に寄ってくれない?」
ふと、助手席の咲幸から提案された。
先日卒業したばかりの高校にどのような用件があるのか、倖枝は理解した。
「いいわよ。ついでに、お礼も言ってきなさい」
受験した大学の合否結果、そして卒業後の進路を、高校に必ずしも報告する義務は無い。それでも、報告するのがせめてもの礼儀だ。
報告だけならば電話で済むが、こうして自宅から出たのだから、直に顔を合わせて吉報を伝えるべきだろう。
「そうだ。おばあちゃんにも電話しておいて。……合格祝い、ねだりなさいよ?」
「うん!」
咲幸は素直に従い、自分の祖母――倖枝の母親にあたる人物に、携帯電話で通話を発信した。携帯電話をカーステレオに無線接続したようで、運転中の倖枝も含め、三人で喋った。
祖母は安心すると共に咲幸を祝い、現在の足で祖父への墓参りに行き、報告するよう言った。
予定が立て込んできたと思いながら、倖枝は運転した。
「あっ。波瑠も受かったみたい」
通話が終わるや否や、咲幸は携帯電話の画面を見て言った。
時刻は午前十時四十分。インターネットでの問い合わせも繋がる頃だろうと、倖枝は思った。
「……あの子、さっちゃんと学部も同じなの?」
「うん、そうだよ。大学卒業まで一緒なら、七年の付き合いになるね」
「ふーん……」
面白そうに言う咲幸に、倖枝はいい気がしなかった。むしろ、残念だった。
――落ちたら落ちたで、その時は笑ってください。うちが落ちることは、絶対に無いですから。
あの夜に粋がっていた通り、風見波瑠が本当に合格したのだ。想定外の結果だった。
それは同時に、咲幸にルームシェアを提案することになる。おそらく、咲幸はまだ知らないだろう。だが、その誘いを受けて咲幸がどう答えるのか――倖枝には、口を挟む権利は無かった。
倖枝はただ、舞人からモデルハウスを購入するだけだ。それも、現在は咲幸に黙っている。正式な契約の目処が立ち次第、伝えなければいけないと思った。
「大学でも波瑠ちゃんと、何か部活入るの?」
だが、波瑠との動向が気がかりであるため、遠回しに探りを入れた。
「どうだろう……。部活とかサークルとか楽しそうだけど……波瑠はバイトしたいって言ってるし、サユも勉強に力入れようかなって……」
その答えに、倖枝は驚いた。
咲幸がアルバイトの求人情報を探しているのを、知っている。それから逃げるのではなく、純粋に勉強へのやる気を感じるように聞こえた。
「敵わないのは分かってるんだけどさ……。偉くなって、ちょっとでも舞夜ちゃんに近づきたいんだよね」
さらに、その動機が裏付けとなった。
舞夜とは姉妹のように、切磋琢磨の関係で居たいのだろう。倖枝はその光景が、嬉しかった。
「何も、コンプレックス感じること無いわよ。さっちゃんなら、きっと成れるわよ……弁護士とか」
「もうっ、そんなに簡単に成れたなら、苦労しないって」
「そう? 調べたけど、さっちゃんの先輩で在学中に司法試験受かってる人、居るわよ? ちゃんと実績あるんだから、良い学校じゃない」
「それはそうだけどさ……」
苦笑する咲幸と、そのような未来を語り合った。
咲幸は半ば冗談のように受け止めているかもしれないが、倖枝は至って真剣だった。これまでの娘の努力と成果から――決して無理では無いように思えた。咲幸本人の気持ち次第では、公務員より、法律の専門家である弁護士を目指して欲しい。もし成れたのなら、食べ口には一生困らないだろう。
「舞夜ちゃんの合格発表は、明日だね」
話を逸したいのか、咲幸が漏らした。不安げな声では無かった。
倖枝もまた、舞夜も合格すると信じていた。しかし、結果がどちらにせよ――最早、どうでもいいのだ。
そのことを、咲幸はまだ知らない。
「そうね……」
倖枝は、つまらなさそうに相槌を打った。
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