第113話

 三月六日、水曜日。

 倖枝は早速、入学手続きを済ませた。そして、咲幸と共に、舞夜から第一志望校を合格したという連絡を受けた。

 舞夜を自宅へと招き、咲幸のも兼ねて倖枝はふたりを祝った。とはいえ、昼間は宅配ピザを取り、夜は焼き肉屋に連れて行ったぐらいだが。

 舞夜に対して――このようなことに意味が無いと、倖枝はわかっていた。それでも咲幸が居る以上、舞夜と共に表面上うわべだけを取り繕った。

 少なくとも倖枝には、咲幸を騙している自覚と罪悪感があった。


 三月七日、木曜日。

 休日が明け――午前九時半、倖枝はHF不動産販売に出勤した。


「う、嬉野さん……。その……咲幸ちゃん、どうでした?」


 夢子と顔を合わせるとすぐ、緊張の面持ちで訊ねられた。高橋も、どこかそわそわしていた。

 そういえば、休日前は合格発表で落ち着かない素振りを見せていたと、倖枝は思い出した。心配させたことを申し訳なく思った。


「ええ。無事に合格したわ。これで春から、法学部の大学生よ」


 倖枝は笑顔で伝えると、夢子と高橋が顔を合わせて喜んだ。


「店長、宅建は在学中に取っておいた方がいいですよ!」

「ちょっと、高橋。この仕事やるかもわからないのに、何言ってるのよ」

「不動産絡みの仕事に関わらず、とりあえず宅建は持っておいて損はないと、私も思いますよ……法学部なら」

「まあ、それもそうね」


 確かに、宅地建物取引士の資格を取ったからといって、必ずしも不動産営業で働かなければいけないわけではない。この資格の勉強なら咲幸に教えられそうだと、倖枝は思った。

 いや、現在はそれよりも――


「卒業もしたし……受験の方も、これで落ち着いたわ。ここ最近、迷惑かけてすいませんでした」


 早退や休日を取ることが多かったため、倖枝は改めて、ふたりの従業員に頭を下げた。

 ふたりからは気にしていないと言われるが、以前から考えていた通り、何か礼をしなければいけないと思った――大学の入学式が来月の一日に控えているので、その分も含めて。


 午前十時になり、開店時間を迎えた。

 三人共すぐには予定が無いため、それぞれ自分の席で休日明けのメールを確認していた。


「あっ、そういえば……分譲地の方、買付が入りました」


 ふと、高橋が漏らした。

 何気ない言葉に倖枝は少し遅れて、休日の間、高橋の携帯電話に客から連絡があったのだと理解した。

 月城住建より預かっている分譲地は、残り二区画だった。今回買付が入ったのは、最後の注文住宅だろう。つまり――


「どうして早く言わないのよ!? それで、モデルハウスは!?」


 月城住建が、最後のひとつであるモデルハウスの販売を開始した可能性がある。

 卒業式で舞人から譲ると言われているが、所詮は口約束であり、何の効力も無い。その旨を記した書面が無ければ、あれ以降は連絡も無い。

 状況がどうなっているのか分からないため、倖枝は焦った。


「え……モデルハウスについては、まだ何も聞いてませんけど……」


 これまで倖枝は、分譲地に関して無関心を装っていた。

 その人間が思いがけない態度を見せたからだろうか、高橋は白け気味に驚いていた。夢子も、ぽかんとしていた。

 ふたりの様子に、倖枝はようやく冷静になった。モデルハウスの販売を始めるにしても、おそらく代理店であるこちらに任せるだろう。高橋に連絡が無いということは、まだ販売していないと考えるべきだ。

 とはいえ、推測でしかない。やはり、月城住建から倖枝宛てに正式な連絡が無い以上、不安は拭えなかった。

 そんな時、店の電話――三つの机それぞれに置かれている三台の電話機が一斉に鳴った。画面に表示されている電話番号は、電話機に登録されていないものだ。夢子が自席で受話器を取った。


「はい。HF不動産販売、春名でございます。……はい、いつもお世話になっております。……嬉野ですね? 少々お待ちください」


 夢子は電話機の保留ボタンを押し、受話器を置いた。


「月城の社長さんです……」


 大物から、という意味だろう――倖枝は夢子から、白けた視線を送っていた。高橋も、静かに驚いていた。

 時期として、用件を察した。可能であれば、給湯室で通話に応えたいところだ。しかし、もう従業員ふたりに隠せることでは無いので、この場で仕方なく受話器を取り、保留ボタンを押した。


「お電話代わりました、嬉野です。お世話になっております」

『おはようございます、嬉野さん。なんでも、分譲地の注文分が完売したみたいで……。どうです? 早かったでしょ?』


 舞人の明るく軽い口調が、受話器越しに聞こえた。先日の卒業式で、重い話を交わしたというのに――倖枝はなんだか調子が狂った。


 ――どれだけ遅くても、一年以内には完売すると思います。


 そういえば、初めて分譲地に連れて行かれた時、そのように言っていたと思い出した。

 あれはこの店を開いた昨年の六月だったので、約八ヶ月で事実上完売したことになる。倖枝は、完売まで一年以上を要すると予想していた。


「はいはい、凄いのは分かりましたから……以前仰ってた通り、私に譲って貰えるんですね?」

『勿論ですよ。そのつもりで連絡しました』


 思っていた通りの用件で、倖枝は安心した。約束通り、舞人がきちんと抑えたようだ。


『ただですね……。決算までに引き渡しまで済ませたいなーと思いまして……』


 相変わらずのヘラヘラした口調で、舞人から条件を言い渡された。今月中に、売買契約から決済までを執り行うということだ。

 倖枝は卓上カレンダーを眺めるも、今月は既に予定が多く詰まっている。どの会社も三月が決算月であるため、月を跨ぐことなく売上として計上しなければならないのだ。舞人の希望だけでなく、業界全体がそのような風潮だった。

 追い立てる側が、追い立てられることになるとは――倖枝は家を買う立場に初めて立ち、苦笑した。

 忙しくなるが、不可能ではない。それに、こちらが無理に頼んだ以上、条件を飲むしかなかった。


「わかりました。それじゃあ、契約は十三日の水曜日で構いませんか? 安心してください。水に流したりは、しませんので」


 休日であるという理由で、その日を選んだ。かつ、六曜はこれまで無関心だったが――カレンダーに大安と書かれていたからである。自分自身が買い手となると、やはり縁起を気にした。


『はい。それで大丈夫です。場所は、そちらの店でお願いします』

「了解しました。決済は……十九日の火曜日、どうですか?」


 倖枝は場所として、融資の仮審査を通過している地方銀行を挙げた。全国に名の知れている大手企業が決済で使うことは、滅多に無いだろう。


『構いませんよ。それじゃ、そんな感じで進めますね。詳しいことは、メールを送らせますので』

「ありがとうございます。では、失礼します」


 本当に自分の家を買うのだという実感が込み上げながら、倖枝は受話器を置いた。

 二階堂灯に融資が必要なことを連絡して、不動産売買に必要な書類を集めて――準備を考えていると、ふたりの従業員からの視線に気づいた。相手を考えれば、不動産仲介しごとの話ではないと分かると思った。


「ああ……。あのモデルハウスね、私が買うことにしたの」


 倖枝は喜びを抑え、さらりと言った。決心自体は昨年の十二月からしていたが、ようやく口にすることが出来た。

 その発言に、ふたりは顔を合わせて分かりやすく驚いた。


「マジですか!? ていうか、いつの間に抑えてたんですか……」

「あー。そういえば店長、モデルハウスのこと、いろいろ探ってましたね」


 担当である高橋は、現在になれば思い当たる節があるのだろう。ひとりで頷いていた。

 倖枝は悪戯っぽく、にんまりと笑った。


「あんたらも家の売買で飯食ってるわけだから、賃貸じゃなくて買って暮らしてもいいんじゃない?」


 偉そうに言うが、これまでの言動からだろう――ふたりの従業員は釈然としない様子だった。

 モデルハウスの引き渡しを終えて実際に暮らし始めても、おそらく説得力は無いだろうと、倖枝は思った。



   *



 三月十一日、月曜日。

 一週間の仕事を終えた倖枝は、午後九時過ぎにNACHTへと向かった。

 扉を開けると、いつものカウンター席に須藤寧々が座っていた。


「お待たせ、寧々さん」

「お仕事、お疲れさま」

「本当……お疲れさまよ」


 決算月である三月は、どの案件も決済まで行わなければいけないため、特に忙しい。それぞれの重要事項説明も含め、作成しなければいけない契約書は残っているが、仕事から気分を切り替えた。もう休日なのだと割り切った。


「キューバリブレ」


 倖枝は寧々の隣に座ると、バーテンダーに注文した。


「じゃあ私は……プリンセスメアリー」


 寧々が何を飲んでいたのか知らないが――空のグラスをカウンターに置き、二杯目を注文した。

 しばらくして、ライムが添えられコーラーの入ったグラスと、白い液体の入ったカクテルグラスがカウンターに置かれた。

 ふたりで乾杯し、倖枝は一口飲んだ。ホワイトラムで割られてはいるがコーラーの味が強く、ライムの酸味も合わさり、口当たりと喉越しが良かった。炭酸の爽快さが仕事終わりの解放感を引き立て、美味しかった。


「さっちゃんね、無事に大学受かったわ」


 まずは、この件から報告した。


「やったじゃん! よかったね、咲幸ちゃん。私からも、何かお祝いしなくちゃ……」

「ありがとう。気持ちだけで嬉しいわよ……マジで」


 倖枝は謙虚に答えるが、建前ではなく本音だった。

 多くの知人から祝われ、咲幸が愛されていることが嬉しく思う。その一方で、内祝いの準備が面倒に感じていた。


「けど、まあ……これで子育ても、一段落ね。お疲れさま、倖枝」

「どうかしらね……。さっちゃんのことだから、真面目に通うと思うけど……授業料払ってるんだし、卒業するまでが『子育て』よ」

「ちょっと。それじゃあ、私なんてまだまだ遠いじゃない」


 寧々が笑うが、倖枝は実際そうだと思う。

 大学生になると、社会に対し制限はほとんど無い。しかし、まだ学生の身分なので保護者が全く不要にはならないだろう。

 いや、単純に咲幸を大学卒業まで見届けたかった。母親として、社会に出るまでは見届けるつもりだった。


「ファミレスでバイトしながら、自動車学校の空きがあれば行ったり、友達と遊んだりしてるわ。たぶん、現在が一番自由な時期なのね。羨ましい」


 四月からはそれに大学が加わり、咲幸は自分独自の予定を立てるだろう。高校に比べ、遥かに自由だ。

 そして、倖枝が過ごせなかった時間だ。四年という制限はあるが、興味のあることに手を出し、様々な経験を得て、将来を考えて欲しかった。


「へぇ。早速、大学生らしいじゃん……。そういうこと出来るのも倖枝のお陰なんだから、胸張りなよ」

「だといいんだけどね……」


 咲幸が自分と違い高校を卒業し、さらに大学へと進学できたことが、倖枝はやはり嬉しかった。咲幸自身の力で掴み取った進路だが、大学卒業までの学費を払えることが誇らしかった。

 倖枝は照れ笑いを浮かべ、キューバリブレを飲んだ。


「咲幸ちゃんを大学に入れたんだからさ……次は倖枝の番じゃない?」


 隣の寧々がカクテルグラスを揺らしながら、にんまりと笑っていた。

 期待が圧し掛かるのを倖枝は感じるが――その件の結末も伝えないといけないと思った。


「私ね……あのモデルハウス、買うのよ。社長さんが譲ってくれたわ。……決算の兼ね合いで、今月中に引き渡しになったんだけどね」

「えっ、マジで? でも、それって――」

「ええ。折角プロポーズされたのに、振っちゃった……」


 事実だけを辿るなら、誰からも勿体ないと思われるだろうと、倖枝は理解していた。

 しかし、あの二択を確かな一心で選んだまでだ。バカなことをした自覚があっても、後悔だけは無かった。


「ふーん……。まあ、いいんじゃない? 倖枝が出した答えなら、私は応援するよ」

「ありがとう、寧々さん。そう言って貰えると、ちょっとはラクになるわ……」


 寧々の他、舞人からもこの選択を尊重された結果、モデルハウスを譲って貰えた。

 意外にも『味方』は居るのだと、倖枝は思った。だが、この『孤独』は誰からも理解されるはずが無かった。邪推ではないが、寧々の言葉が上辺だけに聞こえ、心にまでは響かなかった。

 もっとも、誰かの共感が欲しいわけではない。これから先、ずっと――ひとりで背負って生きていく覚悟があった。


「あのモデルハウス買うにしても、出費ヤバいんじゃない?」

「そうなのよ。車買って、さっちゃんの学費払って、家買って……もう貯金すっからかんよ」


 事実、倖枝はこれまで貯め込んだ金銭の大半を、この短期間で手放すことになった。こうも立て続けに出費が続くとは、少なくとも一年前は思いもしなかった。

 とはいえ、生活水準を下げるほどの残金ではない。かろうじて余裕を残し、金銭面を管理していた。


「まあ……もう人生の山は乗り越えた感じがするから、いいんだけど」

「確かに、夢のマイホーム買って、さらに子供を大学に入れたんだから、大したもんだよ」

「後は、細々とローン返しながら……ぼちぼち老後の貯蓄していくわ」

「ええ!? それはまだ早いって」


 寧々は冗談のように苦笑するが、倖枝としては至って真剣な計画だった。

 労働を切り上げ、早く隠居生活に入りたいわけではない。むしろ、これから先いつまで働けるのか、不安がある。老後は身内にも知人にも――誰の世話にもならないと決めている以上、稼げるだけ稼ぎ、貯められるだけ貯めておきたかった。

 倖枝は齢三十五にて、これからの人生で楽しみは一切無いと悟っていた。

 信じられるものは金銭だけだと思いながら、愛人と酒を飲んだ。

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