第41章『二択(後)』
第110話
二月二十六日、月曜日。
倖枝は午後八時半に一週間の仕事を終えると、帰宅した。だが、マンションの駐車場に入らず、入り口に停車した。
車内から携帯電話で連絡すると、咲幸と舞夜が現れた。ふたり共、学生服姿だった。
「ちょっと! どうして着替えてないのよ!?」
ふたりが自動車の後部座席に乗り込むと、倖枝は訊ねた。
「だって、帰ってきたの、ついさっきだもん」
「制服着れるのも、今週一杯ですし」
「あんたらねぇ……」
倖枝は呆れながらも、ひとまず自動車を出発させた。
合格発表はまだ先だが、大学入試を終えたふたりは、すっかり遊び呆けていた。祈りながらじっと待ったところで結果は変わらないのだから、倖枝は口を挟まない。むしろ、これまで受験勉強をよく頑張ったと思う。
今日も登校こそしたものの、教師や同級生と話したぐらいで、繁華街へと遊びに行っていたのだろう。
卒業式は、今週の金曜日だ。おそらく三年生で一番楽しいこの時期を、悔いの残らないように楽しめばいいと、倖枝は思う。ただし――
「浮かれるのはいいけど、羽目を外さないこと。いいわね?」
高校卒業と大学入学を無事に迎えて欲しいと、心配な面はあった。
ついさっき帰宅したという咲幸の言葉にせよ、遅い時間帯まで遊んでいたのだと思った。門限は定めていないが。
十八歳で成人を迎えたが、学生の内はやはり保護者として監護しなければいけない。
「はーい。今さらグレないから、安心して」
冗談を聞き流すように、咲幸が笑った。本当に理解しているのか、倖枝はなお心配になった。
ルームミラーで後部座席を確認すると、舞夜の方は黙っていた。咲幸は知らないだろうが、思えば舞夜は多くの非行に手を出している。それでも令嬢としての体裁を取り繕っているので、倖枝は何も言わなかった。
やがて、駅前のコインパーキングに駐車した。
三人共下りると、倖枝の目に、背の高い建物――かつて御影歌夜が住んでいたタワーマンションが映った。
おそらく、舞夜はその事実を知っているだろう。倖枝は舞夜に横目を向けるが、素っ気ない様子で咲幸と歩いていた。特に意識はしていないようだった。
三人で向かった先は、駅前にあるチェーン店の焼き鳥屋だった。黄色い看板が目印の店だ。
倖枝にとって今日は週末なので、ふたりをどこか外食に連れて行こうとしたところ、咲幸からここを提案された。
「その格好で大丈夫かしら……」
焼き鳥屋だが、居酒屋の一種だ。だから、学生服姿で自宅から出てきたふたりに対し、倖枝は驚いていた。
「別に、お酒飲むわけじゃないんですし……大丈夫でしょ」
舞夜が楽観視した通り、店員から年齢に触れられずに、テーブル席へと通された。倖枝は知らないが、保護者が同伴なら入店自体は問題無いのだ。
咲幸がテーブルに置かれたメニュー表を眺める一方で、舞夜は落ち着かない様子で店内を見回していた。
「咲幸はこの店によく来るの?」
「卒中ってわけじゃないけど……初めてでも無いよ。久しぶり」
舞夜にとってはこれから何年経っても、この手の店とほとんど縁は無いだろうと、倖枝は思った。
「へー。焼き鳥屋さんの割にはメニュー多いのね……ていうか、安くない? 値段、間違ってない?」
「間違ってないし、これだけ安くても美味しいよ。……ママは文句言うけどね」
「さっちゃん!」
突き出しのキャベツを食べながら、倖枝は小声で咲幸を制した。咲幸は悪戯っぽくクスクスと笑っていた。
咲幸と舞夜が店員に注文すると、それらがすぐに運ばれた。サラダとフライドポテトと軟骨の唐揚げ――そして、チーズクリームコロッケに餅チーズ焼き。
「コロッケの中、とろとろだよ」
「お餅もチーズも、よく伸びます」
「ちょっと! そういうのより、ちゃんとした焼き鳥を食べなさいよ!」
倖枝は烏龍茶を飲みながら、メニュー表を取って店員を呼んだ。現在テーブルに置かれている食べ物に、自分は手をつけられなかった。
「これ、美味しいですよ?」
「そういうの食べれるのは、若い時だけ……。私ぐらいになると、チーズがしんどくなってくるのよ」
そう答えるが、舞夜は首を傾げた。こればかりは実際に年齢を重ねなければ理解できないのだと、倖枝は痛感していた。
運ばれてきた胸肉の塩焼きを、倖枝は串ごとかじりついた。食べごたえこそあるが、やはり味は今ひとつだ。せめて、安酒でも飲むことが出来たなら――以前訪れた時もそうだったと、思い出した。
「そうだ、さっちゃん。自動車学校に通いなさいよ」
結果発表待ちの第一志望校、もしくは合格済みの第二志望校、どちらに通うにしても、自宅からとなる。引っ越しは不要なので、咲幸にとって三月は比較的暇になるだろう。
四月までの一ヶ月間で自動車の運転免許取得は非現実的だが、そのために時間を使うのが有意義だと倖枝は思った。
「うん、そうだね。クラスでも、もう行ってる子は居るし……。ていうかさ、舞夜ちゃんも一緒に行こうよ!」
やる気を見せてくれて倖枝としては良かったが、舞夜にまで飛び火して驚いた。
それは舞夜も同じのようで、僅かながらに倖枝へと視線を送り、ふたりで目を合わせた。
いや、咲幸の反応は、至って自然なものだ。舞夜とふたりで自動車学校へと通うのが、この場の流れだ。
「えっと……舞夜ちゃんは、とりあえずいいんじゃない? ほら、運転手さん居るし……。さっちゃんが取ったら、乗せてあげなさいよ」
倖枝としても、舞夜が運転免許を持った方が良いと思う。だが、この場は苦しいながらも咲幸を説得した。
「そうするよ! あっ、でも……免許取っても、車どうしよ……」
「その時は、中古車でも買いましょ。……母さんの車、まだ無傷で居たいから」
「えー。大丈夫だよ」
咲幸は受け入れたようだが、別の問題が浮上した。
倖枝が現在使用している自動車は中古車だが、高級車に分類されるものだ。娘とはいえ、運転免許を取り立ての初心者に使わせたくない。
それに、倖枝は仕事で日中ずっと使用しているので、そもそも咲幸に貸すことが非現実的だった。咲幸専用のものを用意するしかないが――そうなれば駐車場も必要となり、さらにガソリンや保険等も維持費も加わる。
倖枝はそう理解し、頭を抱えたい気持ちになった。
「楽しみにしているわね」
舞夜が咲幸に、微笑みかけた。
期待など、していない――作り笑いで相槌を打っているだけだと、倖枝は察していた。
「うん! ちょっと、ごめん……サユ、お手洗いに行ってくるね」
食べるだけでなく沢山飲んだからか、ふと咲幸は席を立ち、トイレへと向かった。
テーブルには、倖枝と舞夜のふたりきりとなった。
「ああは言ったけど……いつかは免許取りなさいよ? やっぱり、あったほうが便利だから……」
倖枝は舞夜の館に向かう度、黒色の高級輸入車の隣に、いつも駐車している。
現在は舞夜が運転手の家政婦と共に使用しているが、倖枝にはやはり――この国に置いていった張本人の印象が、深く根付いていた。あの女性も、運転免許を所持していたのだ。
「もし取ったら、倖枝さんが隣に乗ってくれますか?」
舞夜はジンジャーエールを一口飲み、訊ねた。
笑顔を浮かべているが、これも『作り笑い』なのかは、倖枝には分からなかった。
「そうね……。正直、怖いけど……どこか、ドライブに連れて行ってね」
性格としては咲幸より舞夜の方が慎重に運転するだろうが、技量面では劣るような印象があった。
しかし、少女の運転にして貰い酒が飲めるなら――それは素敵な未来だと、倖枝は思った。
タレの鶏皮串を食べながら、儚さに苦笑した。
*
食事を終え舞夜を館に送った後、倖枝は咲幸と共に帰宅した。
自宅の扉の前で、咲幸がスカートのポケットからピンクのキーケースを取り出した。革製のそれに『Sayuki』の名入れが、倖枝に目に入った。
すっかり使い慣れた様子で、咲幸が扉を開けた。
時刻は午後十一時。さらに、倖枝が咲幸の後に風呂に入ると、日付が変わろうとしていた。
咲幸がリビングのソファーで、テレビのバラエティー番組を観ていた。倖枝は冷蔵庫から缶ビールを一本取り出し、咲幸の隣に座った。
夕飯の際に酒を飲めなかったので、缶ビールでも美味しく感じた。
ふたりでこの時間まで起きているのは久々だと、倖枝は思った。ここ最近は互いに、規則正しい生活を送っていた。
「さっちゃん、寝なくていいの? 明日も学校行くの?」
倖枝は休日だが、咲幸の予定が分からない。
「うん、行くよ。そうだ……明日は陸上部の後輩が卒業祝いしてくれるから、
「ふーん……。わかったわ」
倖枝の脳裏に風見波瑠の顔が浮かび、なんだかいい気がしなかった。ビールを飲んで流した。
それよりも――授業で学校に通うわけでは無いにしろ、夜更しで身体が保つ咲幸から、若さを感じた。
「自動車学校もだけどさ、卒業したらバイトも始めようと思うの」
つまらないバラエティー番組をふたりで眺めながら、咲幸が漏らした。
「いいじゃない。お金を稼ぐ大変さを、知っておくといいわよ」
高校卒業後も、倖枝は引き続き咲幸に小遣いを渡すつもりだ。
大学生になると、これまでより咲幸の出費は増えるだろう。その補填も渡すことが可能だ。しかし、社会勉強のために、咲幸には学生の内にアルバイトを経験して欲しかった。
「えっとさ……ママの
「人手は欲しいけど……それはダメよ。身内のところじゃなくて、他所で社会を学んできなさい」
倖枝は酒を飲みながらも、冷静に諭した。
出来ることならば、仕事の時も咲幸と一緒に居たい。だが、それは咲幸の為にならない。
いずれは離れなければいけないのだ。倖枝にとっては、その『準備』だった。
「うーん……。そういうことなら、そうするよ。求人情報、探さないと」
「さっちゃんなら、どこに行ったって大丈夫よ。母さん自慢の娘なんだからね」
「ありがと! バイトも頑張るね!」
無邪気に笑う咲幸から、倖枝は抱きつかれた。
何気ない母娘のやり取りが、幸せだった。
缶ビールを一本空けた頃には、週末で疲れていることもあり、酔いが回っていた。
就寝の準備をしようと立ち上がると、咲幸がテレビの電源を消した。
「ねぇ、ママ――いっしょに寝てもいい?」
見上げる表情は、まるで幼い子供が強請るように純粋だった。
もう高校を卒業するのだ。いい加減に離れなければいけないと、倖枝は頭では理解していた。
「しょうがないわね。ちょっと待ってなさい」
「やった!」
きっと、酔っているから冷静な判断が出来ないのだろう。
倖枝はそう思うが、嬉しそうに微笑みながら洗面所へと向かった。
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