第45章『午後九時五分』

第121話

 四月の夜、須藤寧々は嬉野倖枝とホテルの一室に居た。

 性交を終え、ふたり共全裸のままベッドで寛いでいた。

 寧々は横になったまま、倖枝を見上げた。上半身を起こした倖枝が、加熱式のタバコを吸っていた。


「ねぇ。紙のタバコに戻さないの?」


 倖枝からタバコを取り上げて一口吸うが、やはりこの味には慣れなかった。


 ――年頃の娘が居る手前、本物吸えないから。


 倖枝がそのような経緯で加熱式に切り替えたことを、思い出したのであった。

 寧々は倖枝から、咲幸と大喧嘩をして絶縁したと聞いた。倖枝が詳しく話そうとしないので、寧々としても深追いはしなかった。あの母娘に何があったのか、興味が無かった。悲しいが、咲幸の将来について悩んでいたのを知っているので、その点では救われただろう。

 何にせよ、咲幸が倖枝の側から居なくなったので『本物』を吸ってもいいと思ったまでだ。


「うーん……。もう慣れちゃったしねぇ。ほら……服や車に匂い付きにくいの、良いわよ」


 営業職という立場上、確かに匂いには敏感になる。

 寧々は一応納得するが――その場凌ぎで作り上げた理由いいわけだと思った。真意は別にあるような気がした。


「やっぱり、賃貸じゃなくても、新築にタバコの匂い付けたくない感じ?」

「そりゃそうよ。折角のマイホームなんだから、長いこと大切に使わないと」


 倖枝の同意が、寧々には白々しい嘘に聞こえた。

 月城住建のことだ。壁紙にしろ、全く付かないわけではないが――汚れや匂いが付きにくい、機能性のあるものを使用しているに違いない。物件引き渡しの際、その説明があったはずだ。

 寧々は軽い探りを入れたが、真意には辿り着けないと思った。どうでもよくなった。


 倖枝がモデルルームであった新築を、先月時点で引き渡しまで終えていることを知っている。大掛かりな引っ越しがまだではあるが、既に暮らし始めていることも知っている。

 先日、寧々は招かれたのであった。月城住建の住宅ということで、確かに品質は素晴らしかった。


「もうホテルなんか使わなくてもさ……そのマイホームでよくない?」


 寧々は手を伸ばし、倖枝の胸元に指を這わせた。

 その手を退けることなく、倖枝が微笑んだ。


「それはダメよ。あの家で、こういうことやりたくないの。……これからも、ホテル使いましょ」

「ちぇー」


 今回初めての提案ではなかった。寧々は以前から言っているが、今回も同じ理由で拒まれていた。

 咲幸が居ない現在、あの家に倖枝がひとりきりで住んでいるにも関わらず――寧々は解せなかった。まだ好意的に考えれば『不倫』を持ち込みたくないのかもしれない。だが、それならば自分が招かれることもなかった。

 よく分からないこだわりとして、寧々は受け取っていた。


「そうだ……。これ、預かってくれない?」


 倖枝はベッドの隣に置いていた鞄から、一通の封筒を取り出した。

 このような時に仕事の話かと寧々は思ったが、素っ気ない茶封筒には『遺書』の二文字だけが書かれていた。


「倖枝――あんた、これ」


 寧々は白けると同時、驚いた。


「私に『もしものこと』があった時、これを咲幸に渡して欲しいのよ。たぶん、寧々さんならケータイ繋がると思うから……。あっ、中身は見ないでね」

「それは構わないけど……。あんた、大丈夫よね? 早まるんじゃないわよ?」


 倖枝はまるで冗談のように、苦笑していた。

 寧々の頭に浮かんだのは、住宅購入融資だった。倖枝が銀行とどのような契約を結んでいるのか、分からない。しかし、昨今は『債務者が死亡した場合、残額は弁済される』という特約付きが一般的だ。

 倖枝の返済能力を疑うよりも、真っ先に自殺を案じた。


「寧々さんの考えるようなことは無いから、安心して。ひとり暮らしだとさ……もし私が救急車呼べない状態になったら、その時点で詰むのよ。健康のつもりだけど、そういうことが絶対無いとも言い切れないから……それだけが怖いだけ」


 その言い分を、寧々は理解できた。

 社会人として働いている以上、無断欠勤となれば同僚が不審になり、続くなら自宅まで足を運ぶだろう。だが、それは最も遅い発見だ。万が一、脳や心臓に突然の病が訪れていた場合、ひとり暮らしではまず助からない。

 最悪の危機に備え遺書を準備しておくのは、確かに理にかなっていると言える。


「わかったけど……。健康診断は、こまめに受けなよ?」

「ええ、そうするわ。ありがとう……寧々さん」


 寧々は釈然としないまま、仕方なく封筒を受け取った。

 しかし、この時既に、寧々に長期間預かる気は無かった。倖枝には黙っているが、すぐ咲幸に渡すつもりだった。

 どのようなかたちであれ、この女に対し『責任』を負いたくなかったのだ。

 ――近い将来、寧々は遺書の内容を知らないまま、咲幸に渡すことになる。

 中身を見なかったのは、倖枝からの言いつけを守ったのではない。単純に、興味が無かったのだ。

 遺書には、月城舞人から求婚されたこと。一度は頷こうとしたが、月城舞夜の夢を後押するため、拒んだこと。咲幸の幸せを願うため、舞夜を利用して突き放したこと。それら『真相』に対する謝罪と、そして全財産を咲幸ひとりに相続させる旨が書かれていた。


 寧々はこれから先も、嬉野倖枝という女を理解しなかった。

 娘とも別れ、あのような広い家にひとりきりで住む姿は、最高に惨めであった。

 そう。この女は、不幸こそがよく似合う。不幸だからこそ美しい。

 倖枝の涙を流す姿も寧々は愛おしかったが、近頃は泣かなくなったのが不満だった。

 それでも、こうして現在も手元に居る。思っていた通り、必ず自分の元に戻ってきた。


「私だけは、倖枝の味方だからね」


 自身の優位性を誇示するため、これからも上辺だけの優しさで取り繕い、手元に置くつもりであった――飽きるまで、ずっと。

 寧々は預かった遺書を、自分の鞄に仕舞った。


 時刻は午後九時五分。

 女は、利用さていることを知らないまま、内心でほくそ笑んだ。

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