第100話
一月五日、金曜日。
十日間の正月休みが終わり、倖枝はHF不動産販売に出勤した。
結局のところ、舞人から渡された指輪は、正月休み中ずっと仕事用の鞄に入ったままだった。持ち歩くわけにもいかず、今朝クローゼットの奥に仕舞った。その際、舞夜から誕生日に貰ったネックレスが見えたが、触ることなくクローゼットを閉じた。
夢子と高橋も無事に出勤し、店の方は問題無かった。新年の挨拶を交わすと、業務を開始した。
連休明けのため、問い合わせのメールがなだれ込んだ。それらを対処しなければならないが――倖枝はぼんやりとし、仕事があまり手につかなかった。
長期休暇から気分が切り替わらないだけでなく、クリスマスの出来事がまだ尾を引いていた。
十日悩んだところで、何も解決しなかった。それならば――午前十一時過ぎ、倖枝は席を立った。
「ごめん、春名。ちょっと、月城さんに年始の挨拶してくるわ」
「はい。わかりました」
夢子は頷くと、正面にある高橋の席を眺めた。
高橋は早々に、月城住建へと挨拶に向かっていた。倖枝が向かう先はその月城ではないと、夢子は理解しているだろう。
須藤工務店を除き――営業職とはいえ、特定の業者と長く太い取引をしているわけではないので、年始の挨拶は通常行わない。高橋も、そして倖枝もこの業界で『お得意様』を抱える極めて稀な事例であった。
倖枝は自動車に乗ると、事前の連絡も無く、舞夜の館へと向かった。
咲幸の生活から、まだ
とはいえ、大学入試共通試験が来週に迫っている。受験生を気遣うなら、年始の挨拶など邪魔な行為だが、用件はそれではなかった。舞夜自身にも関わることのため、仕方なかった。
館の門でインターホンを鳴らすと、家政婦が応えた。
「こんにちは、失礼します。HF不動産販売の嬉野です。お嬢様に、年始の挨拶に参りました」
倖枝はインターホンのカメラに笑顔で挨拶した。門が開き、招き入れられた。
自動車を駐車し、降りようとしたところ――ふと思い出し、ダッシュボードを開けた。初詣で咲幸に隠れて購入した御守が、紙袋に包まれていた。それを取り出し、鞄に入れた。
玄関で家政婦に迎えられ、リビングへと通された。奥にダイニングが見えるが、やはりもうクリスマスツリーは無かった。
ソファーには、館の主である舞夜が座っていた。チャコールのニットと白いパンツ。小綺麗な格好だが目の周りは心なしか荒れ、髪も整えられていなかった。おそらく、直前まで勉強をしていたのだろう。
仕事外でここに来るのも、舞夜に会うのも――あの夜が最後だと、倖枝は思っていた。しかし、まだ終わりではなかった。
舞夜が家政婦を部屋から外し、ふたりきりになった。
「あけましておめでとうございます……倖枝さん」
ソファーから倖枝を見上げ、舞夜が微笑んだ。
倖枝は上唇を噛み、ラグマットに正座した。
「あけましておめでとう」
「またアポ無しでいきなり、どうしたんですか? ……返事ならわたしじゃなくて、父に伝えてください」
舞夜がソファーの隣を叩いたので、倖枝は立ち上がり、腰を下ろした。
ひとつのソファーで、舞夜と向き合った。舞夜の淑やかな態度からは、余裕が感じられた。
「返事はまだよ……。あんたにふたつ、訊きたいことがあるの」
夢子には年始の挨拶として出てきたが、用件はそれだった。この十日間悩み続けた中で、はっきりさせたい点がふたつあった。
「いいですよ。何ですか?」
「二年前の秋、空家だったここで会った時から……いいえ、たぶんもっと前から……あんたはこの計画を立てていた。違う?」
倖枝は舞夜との
きっかけは、NACHTだった。何も知らず、一夜を過ごした。そして、御影歌夜からこの館を預かり調査に訪れた時、舞夜から脅迫じみたふたつの『契約』を迫られた。
ひとつは、ふたりきりの時は擬似的な母娘関係で居ること。舞夜が母性を求めた結果だと、後になって分かった。
――この館を、必ず倖枝さんの手で売り払ってください。
もうひとつの要求が、あの時は不可解だった。躊躇いながらも頷き、実現させた。
だが、現在になり、舞夜の意図をようやく理解した。簡単な要求内容にしろ、倖枝でなければならなかったのだ。
「私に売買契約をさせて、どうしても私とあんたの父親を会わせる必要があった」
売買契約の時も、解せなかった。それまで書面でのみ法定代理人としての同意をしていたらしい舞人が、どうしてわざわざ顔を出したのだろう。
かつての家族三人の再会――歌御影夜への嫌がらせのつもりだと倖枝は思っていたが、違った。目当ては取引相手の歌夜ではなく、仲介人としての倖枝だったのだ。それから、分譲地の代理窓口と後見人を任され、舞人との付き合いが始まった。
いや、そもそも館の売却で歌夜を倖枝の元に仕向けたのも、きっと舞夜だろう。NACHTで出会う前から、現在までの計画を立てていたのだと、倖枝は思った。そうでなければ、辻褄が合わない。
「……ええ、そうですよ。そこまで分かっているなら、わたしの
舞夜は降参と言わんばかりに、おかしそうに笑って見せた。
推理が正しかったことで、倖枝は喜べなかった。この少女の狂気じみた計画を確かめ、恐怖した。
「あんたは父親を再婚させて、私を母親に……そして、さっちゃんを姉妹に……理想の家族を作りたかった」
何がきっかけなのか、わからない。だが、舞夜が成そうとしていた計画はそれだった。何の接点もない男女と連れ子を、ひとつにしようとしていたのだ。
――付き合ってる時から、なんだか姉妹みたいだったんだ。
――わたしは咲幸と、恋人になりたいわけではありませんよ。
確信を得たのは、咲幸の発言だった。咲幸がそう感じたことから、クリスマスの『結果』と合わせ、さかのぼったのであった。さらに、舞夜の言葉も裏付けとなった。
「でも、そうはいきませんでした」
「そうね。あんたはさっちゃんの気持ちを、知らなかったものね……」
咲幸が倖枝に恋心を抱いていたのは、舞夜にとって大きな誤算だっただろう。倖枝がそれに飲み込まれたことも、同じはずだ。
舞夜なりに修正しようとしていたのだと、現在になって倖枝は思う。あの夏の日も、咲幸から倖枝を引き剝がそうと、咲幸の留守を狙って自宅に訪れたのだ。
しかし、咲幸本人に目撃されたことにより、ふたりの関係は潰えた。
「あんたは、さっちゃんを使って私の外堀を埋めようとしたの? さっちゃんへの気持ちは本物だったの?」
それが、ふたつ目の質問だった。
舞夜にとって咲幸は、倖枝と舞人を繋げる『道具』だったのか、それとも本当に『姉妹』になりたかったのか――どちらの意図かによって、倖枝の捉え方は大きく変わる。
「倖枝さん、わたしは……咲幸のことはもう、諦めてるんですよ。咲幸を捨てることになってまで、貴方が欲しいんです」
倖枝はその答えに驚くと同時、舞夜の意図を理解した。
考えてみれば、咲幸にあの光景を見られた時、舞夜は倖枝を言い訳に使うことが可能だった。誘われた、もしくは襲われたとでも言えば、まだ情状酌量の余地はあったはずだ。
だが、舞夜は倖枝の側に付いた。あれが二択の末であったとは、思いもしなかった。
「もし、さっちゃんが反対しても……私を母親にしたいわけ? 三人家族でもいいの?」
「はい。それで構いませんよ」
後者であった。舞夜は咲幸を愛していたが、妥協せざるを得なかったことになる。
それを知り、倖枝は大笑いした。舞夜から聞かされているのは、実にバカげた話なのだ。
余裕を見せていた舞夜から怪訝な表情を見せられ、倖枝は改めて向き合った。
「私は、さっちゃんの居ない三人家族なんて嫌よ」
まず、この点で舞夜と大きな違いがあった。舞夜と同じように――咲幸よりも舞夜を選ぶということは、どのようなかたちであれ、絶対にあり得ない。
「だったら、どうすればいいんですか!?」
「――さっちゃんはまだ、あんたに未練があるかもしれないの」
これを知らずに舞夜は妥協しようとしているのだから、倖枝は笑うしかなかったのだ。
静かに告げると、舞夜は息を飲んでいた。
「三人は絶対に嫌だけど、四人ならまだ考えるわ。これが現在の、私の考えよ……」
咲幸のこと、そして舞人のことで悩んでいた。
現実的に、どちらも片付くとは思えない。ならば、せめて咲幸だけでも――倖枝もまた、妥協しようとしていた。
「私は、さっちゃんの母親よ。でも……あんたの母親にも成りたいって、思ってる!」
あの男から求婚された時、倖枝は驚きと不快感に襲われた。しかし、擬似的でも後見人でもなく、法的に舞夜の母親に成れるのは、素直に嬉しかった。
かつては、咲幸と舞夜、どちらかの母親にしか成れないと思っていた。それでも、こうして話を差し出された以上は掴みたかった――たとえ無理をすることになろうとも、ふたりの娘が欲しかった。それが、倖枝自身の純粋な願いだった。
舞夜の壮大な計画に巻き込まれた自覚はある。舞夜に対する感情が仕組まれたものだとしても、本心だと信じてみたかった。これまでのふたりの時間を、大切にしたかった。
倖枝は舞夜に気持ちを伝えると、この場で抱きしめたい衝動が込み上げた。だが、我慢した。まだ答えが出ない以上、愛おしい少女に触れてはいけない。
離れようと、ソファーから立ち上がった。
「ありがとうございます……。倖枝さんの気持ち、わかりました」
舞夜は涙ぐんだ瞳で、倖枝を見上げていた。
倖枝も連れられて、瞳の奥が熱くなった。そのまま溢れそうになるが――ふと思い出し、鞄の中を漁った。
「大事な時期に変なこと言って、ごめんなさいね。これ……初詣に行ってきたから、お土産」
御守の入った紙袋を取り出し、舞夜に手渡した。
舞夜は袋を逆さに向け、中身を手のひらに落とした。合格祈願、健康、そして心願成就の三つが入っていた。倖枝が舞夜のためにと選んだものだった。
「クリスマスプレゼントも、大事に使ってます……。わたしのために、ありがとうございます……」
「そう。それはよかったわ」
舞夜は俯き、手のひらの御守に視線を落としていた。
その様子を眺めると、倖枝は瞳の奥から込み上げるものを堪え、振り返った。
「共通テスト、頑張りなさいよ。それじゃあね……」
そう言い残し、館を出た。
倖枝は自動車に乗り込むが、エンジンを点けずに、運転席にぼんやりと座った。
ふたつの質問で、舞夜の気持ちを確かめた。違うならその場で拒否するつもりだったが、舞夜の家族を欲する気持ちは本物だった。
自分の中で、舞夜の願いと重なる部分もあれば、相反する部分もあった。しかし、こうして本音を伝えたので、舞夜が寄せてくるだろうと思った。
倖枝はまだ、あの指輪を受け取れない。
自身が悩み苦しみ、そして舞夜の気持ちも受け止められないから――倖枝は我慢せず、ようやく涙を流した。
いや、涙の理由はそれらだけではなかった。
舞夜に話した純粋な願いは、おそらく叶わない。『四人家族』には成れない。舞夜と咲幸の復縁は絶望的だ。そう分かっているから、辛かった。
咲幸の未来のために、結婚して身を固める――それが叶わないのなら、もうひとつの手段を選ぶしかないと思った。
そう。ひとりで咲幸の足を引っ張ることになるのなら、手を離すしかないのだ。
(第37章『目論見』 完)
次回 第38章『成人(後)』
咲幸が十八歳の誕生日を迎える。
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