庭師とその妻

丸毛鈴

プロローグ 少年少女は月夜に薔薇を見る

 月がきれいな夜だった。それに気がつくと、ナギは誘われるように庭に出た。ささやかな薔薇園の方向から、よい香りがする。薔薇の花びらに、葉に、棘に、夜露が宿っている。初夏の風がそれらを揺らした。


 その瞬間――。


「薔薇って、こんなによい香りがするのね」


彼女――ユメリアの声がよみがえった。遠い昔日せきじつ。あのお屋敷で庭師の見習いをしていたナギが「庭師さん」と呼ばれ、ユメリアを「お嬢様」と呼んでいたころ。周囲からは、お互いに別の名前で呼ばれていたあのころ。


理由はそれぞれ違ったけれど、ほんとうの名前で呼ばれることのなかったふたり。だからナギはあのころを思い出すとき、お互いを「少年」「少女」と呼びならわすのだった。


そう、ユメリアは――少女は「よい香りがするのね」と、深く息を吸って口にした。薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込んで。


あの夜、お屋敷の南側に位置する薔薇園にいたのは、少年と少女、そして、西の空にかたむきかけた大きな月だけ。その月の光が、薔薇の艶やかな葉を、棘を光らせていた。


いつも薔薇の世話をしているものの、少年自身、夜の薔薇の姿を見るのはあの日がはじめてだった。昼間に見るよりもあでやかな花の姿と、何より隣にいる彼女。


薔薇のアーチから漏れるあえかな月光が、白いネグリジェを着た少女を照らし出している。うっとりとアーチを見上げる、やわらかそうなほほの輪郭。少年の胸は高鳴った。


「アーチ全体に薔薇を咲かせたいときは、枝を持ってきて、こうして横に這わせるんです」


高鳴りすぎて、自然、薔薇の世話の方法が口をついて出た。


「庭師さん、よく知ってるのね」


彼女が感心した表情を見せる。くすぐったくて、ほこらしい。師匠とともに一年間、手塩にかけた薔薇たち。それが咲き誇る季節に、この人に見てもらえる。切り花でも花びらだけでもない、ほんものの薔薇を、見せられる。


「この先、もっときれいなんです」


少年が、少女をいざなう。薔薇のアーチを抜けると、東屋がある。白い柱に支えられた丸い天蓋。その下には、背もたれに蔦の模様が入ったアイアンのチェアとテーブル。


「どうぞ」


少年はチェアを引いて、少女にすすめた。


「ありがとう」


少女が腰かけて、周囲を見まわす。「わあ」と小さな声がもれる。薔薇に囲まれた東屋。ふだんは屋敷の主であるアレクや来客が座る特等席。


――この場所で、あの人に、薔薇を見てもらえたら。


少年はずっと願っていたこと。その夢が、いま、叶った。


「夢みたい」


月が輝き、月光に負けない星が煌めき、天の光が薔薇の夜露に、そして彼女の灰青色の瞳に宿る。


――きれいだ。


それは少年が夢見たよりも、はるかに美しい光景だった。


「ねえ、庭師さん。もっといろいろ、薔薇のお話を聞かせて」


少女が立ち上がり、薔薇園を駆けていく。初夏の風が彼女の銀灰色の髪を、薄いネグリジェのすそを揺らす。


――この世界には、自分の想像を超えたしあわせがある。


少年は、生まれてはじめて知った。


 そして、いま。若き日に胸を満たしたときめきを思い出しながら、ナギは皺の刻まれた手で薔薇の花びらをそっとなで、記憶をさらにさかのぼる。そう、「少年」と「少女」の出会いまで――。

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