夜明け前2

 ナギはポケットのナイフをそっとたしかめる。遠くでカラスが一度だけ鳴き、かえって夜明け前の静けさを際立てた。手にしたランプを持ち上げる。目の前の建物は、そのちいさな灯りだけではとうてい照らしきれない。まるでうずくまった巨人のように見える。


「ナギへ。街の北の外れにある廃材置き場に来い。必ずひとりで」


 チェが持ってきたカードには、そう記されていた。ジュディの家のドアにいつの間にか差しはさまれていたらしい。


「お前、まさかひとりで行くつもりか」

 震える手でカードを持つナギに、リウが言った。

「あんな闘犬みたいな女とやりあえるわけねえだろ」


――でも……約束を破ったら、ユメリアは……。それに、ジュディさんの家だって知られている。


「言いたくねえけど、お前みたいな下っ端も守れねえとなっちゃ、ボリスさんの名前にだって傷がつくんだよ」


 ナギの胸にあったのは、報復への恐れだった。スミスがもしもひそかに生きていたら。アレクが自分たちを探していたら。そして、自分ではなく、ユメリアに矛先を向けたら。彼らが何か取引をもちかけるとしたら、自分がひとりで行くしかないのではないか。

 結局、指定の場所にはナギひとりでおもむくが、リウと数人の男たちが周囲に隠れて様子を見守り、半時たったら踏み込むこととなった。


 廃材置き場の扉に、手を当てる。嫌な汗が脇をつたう。スミスに似た髪色の男。べらぼうに強い女。連れ去られたユメリア。ナギは首を振る。ここに来る前に、自分にもしものことがあったらユメリアだけでもと、リウに頼んできた。あの男は、きっとその通りにしてくれるはずだ。


――行くしかない。


腹に力を入れ、ナギは廃材置き場の大きな木の扉を開く。


 内開きの扉が、耳の奥底を震わせる嫌な音をたてながら開く。ランプが照らせる範囲は限られているが、建物の中央には廃材の山がこんもりと積み上がり、その頂上に馬車の残骸らしきものが見えた。その山をぐるりと囲むように、壁際には木箱や木材が無造作に積まれていた。


「おうおうおうおう、ひとりで来るとはいい根性してんじゃねえか」

 馬車の屋根の上に、細いシルエットが現れた。家で襲いかかった、あの女の声だった。ナギとリウを急襲したときと違い、いまは細身のズボンを身に着けていることが暗がりでかろうじてわかる。

「ユメリアを返せ」

「その名を気安く呼ぶな!」

瞬時に、何かが頬をかすめた。背後の鉄材に、カキンと冷たい音をたてて何かが落ちた。ランプの光を反射するそれは、ナイフだった。


――この暗さで……。


背筋が寒くなる。それでも、ナギは問うた。


「ユメリアはどこだ!」

ヒュッとまた一投擲。なんとか横に動いてかわす。

「お前、聞こえてねーのか」

暗がりのなかでも、女の激昂が伝わってくる。背中から幅広の刀を抜いてナギに向けた。

「木っ端チンピラがあの子の名前を気安く呼ぶなっつってんだよ」

「俺は、あの人の……」

「ロマノフスカヤの屋敷からあの子を連れだして何年だ」

唐突にでてきたその名前に、ナギはことばを失う。覚悟はしていたはずなのに。

「ほら、図星じゃねーか。さんざん楽しんだんだろ。そのうえ、あんないかがわしい劇場で働かせやがって」

楽しんだ? いかがわしい劇場? それよりこの女は何に対して怒っている……? 

「ユメリアを返せ」

かろうじてナギは言い返す。

「あー……」

女がいら立たし気にかきあげた白金色の髪が、ランプの灯りに光った。

「ユメリアは無事なのか、それだけでも……」

ナギが言い終わらぬうちに、女が跳躍した。

「お前、聞いてないのか、耳が悪いのかどっちだ」

女が舞い降り――あっけにとられているナギに向って、刀を振り下ろす。我に返ったナギはわずかに後方に下がってそれをよけた。女の輪郭をした、敵意・殺意・害意が、ナギの前にある。

「ゆ、ユメリアを返せ、あの人を……」

刀の切っ先をつきつけたまま、女が叫ぶ。

「かわいい妹を、お前みたいなドチンピラに渡すわけないだろ」


――妹? 


言い終わらないうちに、女は斬りつけようとする。ナギはやみくもに、廃材の影に向かって走った。攻撃に使えそうなものを探しながら、鉄くずや木材に囲まれた隘路あいろを抜ける。


――姉……そうだ、ユメリアの“姉さま”。龍だか虎だかに憧れてユメリアを置いていった……。


目についた空き瓶を、ナギは振り返って投げつける。


――その人が、なんで。


自分の背丈ほどに積み上がった木箱の山をなぎ倒す。とにかく足を止めて時間を稼ごうとする。


――ユメリアを、心配して探しに来た。俺がチンピラだから、一緒にいさせたくない……。


余裕のない頭のなかで、なんとかそこまで組み立てたら、ナギは猛烈に腹が立った。


――なら! ふつうに家に来ればいいだろ……!


女が木箱の残骸を抜ける気配する。ナギは束ねられた木材を倒そうとふんばった。

「姉だかなんだか」

ささくれがちくちくと手のひらを刺す。その痛みと引き換えに、不揃いな廃材がゆっくりと倒れた。

「いきなり襲いかかって、野蛮人かよ!」

肩で息をしつつ、あたりを見回す。たぶん、これだけではあの女を止めることはできない。


 廃材の山に鉄の板のようなものを見つけ、引っ張り出す。それは四角い鉄の扉だった。もうすこしで、馬車の残骸をいただく廃材の山をぐるりと一周する。開けた場所に出たら、おそらく勝ち目はない。

 木材をはねのけ、女が起き上がる。

「このクソチンピラ」

 額から流れた血が、整った鼻筋に垂れている。

「あんたのほうが、よっぽどチンピラだろ! ほかのひとまで巻き込んで!」

 女が血をぬぐって顔をしかめ、「あああああん?」とすごむ。


――やっぱりチンピラじゃないか!


「ユメリアをさらって、あんた、どうするつもりだ」

斬りかかった女を鉄の扉でいなしながら、ナギは問いかける。

「お前といるより百倍安全な場所に連れて行く」

「勝手なことを!」

刀を受け止めるたび、ナギの手にしびれが走る。ほっそりしたこの“姉”のどこにいったいこんな力が隠されているのか。

「ちょこまかと!」

「あんた、なんで、なんでユメリアを置いて行ったんだよ」

じりじりと後退する。もうすぐこの隘路が尽きる。


――姉さま、いま、どこで何をしてるのかな。


 さみしそうにつぶやいたユメリアの姿が頭をかすめる。


「あんた知らないだろ、あのひとがどんな思いであの屋敷にいたか」

 

日に日に増えていったあざや傷。花を贈っても笑わなくなったお嬢様。


「あそこであのひとが、どんな目にあっていたか」

「黙れ!」

その怒りに、ナギは“姉”の後悔を見た。


――このひとは、ユメリアのことを思っている。


話聞けよ。野蛮人かよ。かたぎのジュディさんにまで手をあげて、それでもあのひとの姉かよ。何も知らないくせに。俺のことも、あのひとのことも。街のひとのことも。腹が立つ一方で、おさえようもなく、ナギの胸がふるえた。


――このひとは、ユメリアを守ろうとしている――。


だからこそ。


――勝たなければ。話を、聞いてもらわねば。


必死で頭を巡らせる。


――このひとは、俺が、龍の国の言葉がわからないと思っている、から……。


上手くいくか、確信はない。でもふいをつけるのではないか――。


「俺の 仲間 来タ! オマエの イモウト! 見ロ。アッチ」


子どもたちに教えてもらった、龍の国のことば。その単語だけをつなげる。虚をつかれた女が目を見開き、馬車の残骸のほうを見た。


「うおおおおお」

そのすきに、ナギは腰を落とす。いつかリウに習ったように、扉を持ったまま全力でそのまま突っ込み、“姉”を突き飛ばした。


 仰向けに倒れた女に馬乗りになり、喉元に庭師のナイフを突きつける。ナギは彼女の目をまっすぐに見た。女もにらみ返す。

「やりたきゃやれ」

「やりません。話を、聞いてください」

しばしの沈黙ののち、姉が言った。

「話すことなんかないだろ」

「ある」

ナギは即答した。

「いままでの俺たち――妹さんと俺のこと、ユメリアがあなたをどう思っていたか」

下から不遜に見つめ返す瞳は、ユメリアとそっくりな灰青色だ。涼やかな目もとや、どこかの山の尾根のように通った鼻筋はあまり似ていないけれど。

「それと、俺はあなたの話も聞きたい」

「何を」

「あなたが、妹さんをどう思ってるか」

けっ、と“姉”は心底いまいましそうに吐き捨てた。

「なんでお前に」

「俺の、愛するひとの、お姉さんだから」

聞くなり、“姉”は口をゆがめた。

「気持ち悪……」

「しょうがないだろ」

ナギは我知らず言い返す。

「あんたの妹はそれがいいって言うんだから」

「趣味悪……」

“姉”は口をゆがめたまま、ため息をついた。

「わかった。降参、降参。なんもしない」

その手から刀が落ちる。

 ナギは立ちあがり、右手を差し出す。

「自分で立てるよ、バカ」

“姉”がナギの手を軽く払ったときだった。

「痛っ」

という男の声が響き――。

「わあああああ」

廃材置き場の奥から、叫び声とともにユメリアが走り出してきた。

「ね、姉さま! ナギさんに何してるの! 離れて!」

言うが早いか、手近にあった鉄くずを“姉”にめがけて投げつける。

「ちょっと、ユメリア」

ナギが制止するより早く、球状の何かが“姉”のあごをかすめた。


――手あたり次第、なんでもいいから投げつけんだよ。


意識が飛ぶ寸前、女の頭を、かつて自らが妹に伝授したケンカ法がよみがえった。


――あの子、意外と立派に……。


そんなことを思いながら、ユメリアの姉、サーガは廃材置き場の床に倒れたのだった。

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