思わぬ再会
――この庭を、うつくしく保つ。
師匠のことばに、少年は心を躍らせた。
そこに冷や水を浴びせかけたのは、か細い声だった。
「いや……」
外仕事で使う道具を収納する納屋へ案内されたとき、女性の声を聞いた。
――納屋の中から……?
最初は聞き間違えかと思った。
「こんなところでは、いや。せめて、お部屋で」
争うような気配、低い男の声。やがて打たれる音がして、女性の声が弱々しくなる。
「お願い……アレク様」
かすれ気味に懇願する声、衣擦れの音。
少年は反射的に動いた。
「やめろ!」
扉をはね開けると、若い男がこちらを振り返った。
きちんと整えられた金髪と、きりっとした眉が雄々しい印象を与える。
白いシャツと光沢のある生地のズボンは、もの知らぬ少年から見ても高級な品であることがわかった。
男の前には腰高の棚があり、そこに女性が押し倒されていた。
顔は見えない。ただ、スカートがまくり上げられて、白い脚があらわになっている。
「なんだ、お前」
若い男が、気まずそうな顔で着衣を整えながら言った。
少年が答える前に、師匠が前に出た。
「失礼をば、アレク様。お話ししておりました、孤児の弟子です。どうかご容赦ください」
若い男が舌打ちをし、
「ちゃんとしつけとけよ」
と吐き捨てた。
「アレク様、わたし、部屋へ戻ります」
女性が棚からすべるように降りて、小走りに扉へ向かってきた。
はだけた胸元を押さえ、うつむいている。
そのまま納屋を飛び出そうとしたその人が、師匠の影にいた少年にぶつかる。
「ごめんなさい」
女性が一瞬だけ顔を上げた。
銀灰色の髪、可憐な印象を与える灰青色の瞳、柔らかそうな輪郭。
思ったよりずっと若い、というか幼い。
少年とあまり年が変わらない。
少年は息を呑んだ。
――あの人だ。
すぐにわかった。
路上で死にかけていた自分に、りんごを与えてくれた人。
あのときと違い、張られた頰を赤く腫らし、瞳に涙を浮かべているけれど、間違えはない。
少年の脳裏に、あの日の光景がよみがえった。
行き倒れた少年を、心配そうにのぞき込んでいた少女。
その彼女を色目を使ったと責め、躊躇することなく打った若い男の同行者。
そのすべてが、いまの光景に重なっていく。
少年は、全身の血が逆流するような感覚におそわれた。
「申し上げにくいのですが、アレク様」
少女が走り去ったのち、納屋の外で師匠が男に進言した。
「お楽しみは場所をお選びいただけるとありがたいですな。
こいつはまだまだ子どもですので。刺激が強すぎるのは困りものです」
「その年なら、女遊びを教えてもいいんじゃないのか」
「見た目よりも幼いもので」
アレク様にもご挨拶を、と師匠にうながされる。
黙り込んだ少年に対し、「さあ」と師匠がうながす。
「よろしくお願いします」
覚えたばかりのあいさつを、上の空で口にする。
足元には枯れ葉が舞っていた。
「旦那さまと奥さまが早くに亡くなってな。
いまは独り身ながら、アレク様がこのロマノフスカヤ家を継いでおる」
少年はランプの薄ぼんやりとした明かりのなか、寝台にシーツを敷きながら、師匠の説明に耳をかたむけた。
ほとんどの使用人は地下の部屋で寝起きしていたが、庭師には裏庭の小屋が与えられていた。
じめじめした小屋だが、少年にとっては屋根があるだけでうれしかった。
しかも、自分専用の寝台まである。
――たしかに若かったな。
少年はシーツのしわを伸ばしながら、納屋にいた男の顔を思い出す。
「それと……。あの子にはかかわらんことだ」
心に泡立つような感覚があった。
「納屋にいた……?」
少年は手を止めて、師匠のほうを見る。
入り口近くに置かれた、ささくれた木のテーブルと椅子。
そこに座り、ぶどう酒を飲んでいる師匠の表情は、よく見えない。
「あれは……お嬢様は、アレク様のお手つきでな」
師匠は立ち上がり、小さな暖炉に申し訳ていどに燃える石炭をかき回した。
「お手つきって?」
師匠はしばらく暖炉を眺めてから言った。
「妾みたいなものだよ」
「妾って、奥さん以外の女……ですよね。アレク様はご結婚を?」
主はひとり身と、さっき聞いた気がする。少年は混乱した。
師匠がため息をつく。
「あの子は……アレク様の遊び相手だ」
遊び相手? 少年にはよくわからない。
もうひとつわからないのは……。
「お嬢様……ってことは、あのひと、アレク様の妹なんですか?」
師匠が眉根を寄せ、首を振る。
「あれは孤児だよ。亡くなった旦那さまがかわいそうだと連れてきた」
――孤児。俺と同じ。
その少女が、若き主の"遊び相手"。
「あのひと、嫌がってた」
顔をしかめた少年を、師匠は穏やかな瞳で見た。
「わたしらが口を出せることじゃない。あの子もアレク様を慕っている」
――慕っている……?
「いや」というか細い声、涙でうるんだ瞳。
少年にはわからないことだらけだ。
ただ、自分にとって女神にも等しいあのひとは、ここでは大切にされていないらしい。
肌で感じたそのことが、少年の心にザラついた感覚を残した。
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