拒絶
――あの人に、何が。
庭師の小屋で、少年は考えつづけた。
結論はひとつだった。
――彼女は俺の知らない場所で、ひどい目に遭わされている。
「アレク様に振り向いてほしい」と言っていた彼女。
しかし、少年から見ると、アレクには、彼女を想う気持ちは欠片もない。
そんなふうに思いたくないけれど、彼女はアレクにとって玩具だった。
それも、手荒に扱ってかまわない玩具。
そんな男のもとで、彼女の未来に何があるのだろう。
それがロクなものでないことだけは、確実に思われた。
――その「ロクでもない未来」が、いまなのではないか。
師匠は言った。彼女の未来は、よくて嫁のきてがない男の嫁か、アレクの妾。
――じゃあ、悪くて……。
その先は、少年には想像できなかった。
もうダメだ、と思った。
師匠を裏切るのは心が痛い。
それでも、この屋敷に彼女を置いてはおけない。
少年はその夜、荷物をまとめた。
ほとんど使わず貯めていた給金、師匠の帳面、剪定用のはさみやナイフをずた袋に詰める。
迷ったけれど、身を守るために鎌も持った。
屋敷じゅうの灯りが消えた時間に、彼女の部屋の下へ急ぐ。
――どうか、出てきてくれますように。
一度、二度、三度。
祈るような気持ちで窓を叩く。
窓の向こうに白いシルエットが見えた。
少年が手を振ると、少女が窓を開ける。
「庭師さん……?」
「少し、お話させてください」
少女が窓から顔を出して左右を確かめた。
「部屋へ来て」
彼女について、部屋へ入る。
はじめて入る彼女の部屋は、小ざっぱり、というより殺風景だった。
白いシーツがかかった寝台、飾りのない簡素なカーテン、窓辺にあるテーブルと一脚の椅子。
壁際には古い箪笥がひと竿。
彼女はろうそくをともしつつ、少年にベッドに座るよううながした。
「どうしたの?」
振り返った彼女が、やつれていた。
丈のやや短いネグリジェだからこそわかる。
首のほかにも、手首足首にも、あざが痛々しく残り、胸元近くにも、赤いみみず腫れが夜着の下へと消えている。
少年の視線に気づくと、少女はガウンを羽織り、前をかきあわせた。
ガウンの生地をきゅっと握った中指と薬指には包帯が巻かれ、爪のあたりに血がにじんでいる。
――もう待ってはいけない。
「俺と、外へ行きましょう」
少女が少年を見た。その瞳に力がない。
「外って、このお屋敷の外?」
少年はうなずいた。
「逃げるんです。こんなところに、いちゃいけません」
少女が目を伏せた。
「無理」
「どうして」
「どうしても」
少女が無表情に答えた。
「わたし、外の世界を知らないし」
「俺がなんとかします」
ややあって、彼女がきっぱりと言った。
「わたし、アレク様に振り向いてほしいの」
「アレクはあなたのこと……」
玩具にしている、とは本人に言えなかった。
「あなたのこと、見ていないでしょう」
歯切れが悪くなってしまう。
「それでも、少しでも可能性があるなら……」
うつろな目をして彼女が言う。
「可能性って。その首に、手首にあるあざは、なんなんですか」
「これは……アレク様とは関係ない」
「関係なくないだろ!」
思わず声を荒げた。
「何されてるか知らない。でも、あなたがひどいことをされているのは、俺、わかります」
沈黙。
「それでもわたし、アレク様のそばにいたい」
少女が淡々と答えた。
「ひどいこと、痛いことたくさんされても、これでアレク様が振り返ってくれたらって思う」
少年は奥歯を噛んだ。
「どうして……。そんなことで、あいつが振り返るわけないだろ」
どこかで誰かにひどいことをされて、それでアレクが振り返る。
わけがわからない。
――俺は、俺は、俺なら。
言いたいことが胸に渦巻いている。
「でも、その可能性が少しでもあるのなら、わたし、ここにいたいの」
「可能性なんて……」
「あるわけない」とは彼女に言えなかった。
言ったら何かが終わってしまう気がする。
これ以上、何が言えるだろう。
彼女の心は、彼女を踏みにじっている男のところにあるというのに。
そう思ったら、目頭が熱くなった。
それを見て、少女の表情が少しだけ動いた。
「庭師さんは、優しいね」
いつかと同じ、あきらめたような笑み。
でも、前よりももっともっと、たくさんのものを彼女はあきらめてしまっている。
「こんなわたしに、ずっと優しくしてくれて、ありがとう」
「そんな、これが最後みたいな……」
たまらず、彼女の手を取る。
彼女は悲しそうな顔をして、その手を引きはがした。
「もう、会わないほうがいいね、わたしたち」
今度は彼女が少年の手を取り、扉へと導く。
「いつもお花を届けてくれて、すごくうれしかった」
彼女の導きには、有無を言わせない力があった。
扉を開けながら、彼女は言った。
「本当にうれしかった。きっと、庭師さんに想像できないぐらい」
「花なんて……」
花なんて、いくらでも。
そう言いかけて、二の句が継げない。
あなたは俺にりんごをくれたのに、命をくれたのに。
師匠が亡くなったときだって、会いにきてくれたのに。
俺はあなたに何も返していないのに。
「ふつうの女の子みたいに扱ってくれたの、庭師さんだけだから」
扉を開いた彼女が笑おうとして、泣いていた。
抱きしめたい。連れ去りたい。
なのに、彼女はそれをさせてくれない。
少年を扉の外に出すと、少女は半歩下がった。
「わたしのことは、どうか忘れて」
そうして、扉が閉められた。
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