少女の地獄

馬車に乗せられると、少女はいつも死にに行くような気持ちになった。

昔は、アレク様とお出かけするのは、とても楽しいことだったのに。

そう思うと、少女の胸は痛む。

自分にもそんなセンチメンタルな気持ちが残っているのだと、少し不思議になる。

馬車に乗せられているときの気持ちは、昔を思い出してちくりとするのと、ぜんぜんちがう。

自分という存在が丸ごとすりつぶされてしまうような不安。

馬車って棺桶みたい、と少女は思う。

となりに座るアレクを見る。

もう、「貸出」はやめて、と懇願する気力もなくなってしまった。


今日で何人目だろう。

最初は、何も告げられずに連れて行かれた。

新しいお洋服を仕立ててもらって、アレク様とお出かけなんて。

少女は気持ちを弾ませていた。

――アレク様は、わたしのこと、少しは見てくれているのかな。

少女の胸は高鳴った。

しかし、その日、少女の期待をよそに馬車が向かったのは、街ではなく、山の中にある屋敷だった。

「こんなさみしいところに……?」

尋ねる少女に、アレクは答えなかった。

中年の男に出迎えられ、豪華な調度品が飾られた客間に通され、三人でお茶を飲んだ。

ときどき、男のなめ回すような視線を感じる。

気のせい、きっと、気のせい。

少女は自分に言い聞かせた。

お茶を飲み終わったころ、男が言った。

「思った以上にかわいらしいお嬢さんだ。

少し緊張しているようだけど、それくらいがちょうどいい」

「気に入っていただけて、何よりです」とアレクが答えた。

「今夜次第で、今後も」

何を言っているのか、よくわからなかった。

「アレク様」

少女が問いかけると、アレクが言った。

「今夜はこの人にかわいがってもらいなさい」。

血の気が引いた。

それでもなんとか、「お手洗いに」と、少女はふるえながら席を立った。

――どうしよう、どうしよう。

少女は洗面所でうずくまった。逃げたい、と思った。

でも、ここには窓がない。

今なら玄関まで走れる? 

外へ出られても、ここは知らない山の中だ。

きっとつかまってしまう。


「おい」


アレクが洗面所の入り口に立っていた。

「お待ちだぞ」

ズカズカと入ってきて、少女を強引に立たせようとする。

「いや」

少女は抵抗した。ぶたれると思ったけれど、アレクは手を出さなかった。

それが少女に新たな恐怖を感じさせた。

「わたし、あの人と……?」

勘違いかもしれない。一縷の望みを託してアレクを見る。

アレクは優しげに笑った。

「ちゃんと満足してもらえたら、あとでご褒美をやるよ。

納屋じゃなく、昔みたいにベッドで抱いてやる」

そうして少女に口づけをした。

わたしがほしいのは、そんな言葉じゃない。

このドレスも、ぜんぶ、ぜんぶ、このために?

体に力が入らない。アレクに手を引っ張られるまま、客間に戻る。

そのまま、アレクは彼女を男に引き渡した。

「アレク様、いや……」

小さなつぶやきを無視して、客間の扉が閉まる。

少女の肩に、男の手が置かれる。

一晩中、少女は体を貪られた。


以来、少女はときどき「貸出」されるようになった。

アレクがどうしてそんなことをさせるのか、少女にはわからなかった。

ただ、捨てられる日が近いのだと、予感している。

だんだん、知らない男に抱かれているときも、アレクに抱かれているときも、自分が自分ではない感覚がするようになった。

わたしはお人形さんか死体。だから平気、何をされても平気。


今日も、馬車は駆けてゆく。

日が高いうちからの「貸出」。

少女はボウタイ付きのシルクのブラウスに、腰をほっそりと見せるこげ茶のロングスカートを履いている。

ドレスといっしょに仕立てた洋服。

今日のお相手の好みらしい。

知ったときは、ショックだった。

――アレク様は、前からわたしをいろいろなひとに「貸出」するつもりだったんだ。

でも、いまは心が麻痺して、何も感じられない。

――あまりきついことをされないといいな。

少女の望みは、それくらいだった。


ふと庭師の少年のことを思い出す。

たったひとり、少女のことを普通の女の子として扱ってくれる人。

もちろん、彼はアレクと少女の関係を知っている。

どんな扱いをされているかも。

それでも彼は、花を届けてくれた。

泣いているとき、やさしく包んでくれた。

でも、最近は、彼と顔を合わせるのが、気が重い。

彼が少女に向けるまなざしは、純粋過ぎて、まぶし過ぎる。


馬車から降ろされたのは、田園の中にある、瀟洒な別荘だった。

出迎えたのは口髭の男だった。

一度、屋敷に来ておしゃべりをしたひと。たしか、スミスといった。

――あの日は、品定めをしにきていたのかな。

少女はうつむいた。

「またお会いできましたね」

スミスは紳士的に笑い、手を差し出した。

少女は何も言わずにその手を握り返した。

アレクが「じゃあ、ここで」と、帰っていく。

少女はいつも、このときだけは、自分をお人形さんとも死体とも思えなかった。

ただただ、悲しさと心細さを感じる。


スミスは少女を二階の客間へと導いた。

「ここからの眺めがよいので」

窓際に置かれた長椅子に、腰かける。

スミスは少女と常識的な距離を取って座った。

窓の外にはよく整えられた田園風景が広がっている。

それよりも少女の気を引いたのは、屋敷の近くにある、赤い葉をつけた樹木だった。

「あの木はなんでしょう?」

「遠く東洋から取り寄せたものだそうです。カエデの一種だとか。植物がお好きですか?」

「詳しくは、ないのですけれど。赤くてきれいだったので……」

庭師さんは、この木も知っているかしら、と少女は思った。

やがて使用人がお茶が運んできて、ティーテーブルに置いた。

「まずはお茶にしましょう。あなたのことを、聞かせてください」

スミスはにこやかに言う。

香りのよいお茶に、口をつける。

――このまま、お茶だけで終わったらいいな。

少女は淡い期待を抱き、

――あるわけない。

とすぐさま否定した。

「この前、ご本人の前では聞きづらかったのですが……。

アレクさんとは、どのようなご関係なのですか?」

少女は答えにきゅうした。

アレク様にとって、わたしはなんなんだろう。

恋人とはちがう。

都合のいいときだけ、納屋で遊ぶ玩具……。け口。

頭のなかでことばにしたら、胸が刺されるように痛む。

とっくに涸れたと思っていた涙が流れた。

「すみません……」

「近くへいっても?」

スミスが断って、彼女との距離を詰め、ハンカチで涙をぬぐう。

「いけないことを聞いてしまいましたか?」

少女は首を横にふる。

「質問を変えましょう。あなたはいつからあのお屋敷にいらっしゃるんですか?」

スミスが紅茶を飲みながら尋ねた。

「子どものころから……」

そこから、スミスに問われるままに、自分の身の上を話した。

「あなたはたいへん、アレクさんを慕っていらっしゃる」

少女はブラウスの胸のあたりをきゅっとつかむ。

「それなのに、アレクさんは、あなたをこんなふうにほかの男のもとへやるなんて……」

「……っ」

「ひどい話ではありませんか」

みじめだった。

こんな話をしていると、麻痺していたはずの心が痛み始めた。

また、涙があふれてくる。

今度は、彼女の頰を愛おしむように包み、スミスは涙をふいた。

優しいけれど、なんだか怖い。

少女はそう感じた。

「あなたはアレクさんに言われるまま、ほかの男性に抱かれているのですか?」

はっきり言われると、抑えていた感情があふれた。

「本当は、いや……」

「おつらいでしょう。ひどい人です」

スミスが髪をなでる。

少女は次第に胸苦しさを覚えた。

泣きすぎてしまったのかもしれない。

「大丈夫ですか。息が荒いようですが」

「ごめんなさい、すこし、気分が悪くて」

「心労がたたったのでしょう。寝台へ」

スミスはそういうと、少女の背中と膝の下に手を回し、抱き上げた。


隣の部屋の寝台に、スミスは優しく少女を横たえた。

かたわらに腰かけ、少女のほおを手の甲で穏やかになでた。

「何も心配はいりませんよ。すこし休んでください」

だんだん、息があがってくる。体が熱っぽい。

スミスは少女の額に手を当てた。

「熱があるようですね。水を持ってきましょう」

少女が意識を取り戻したのは、冷たい水がのどに流れ込む感覚によってだった。

それがスミスの口移しと知り、朦朧とした意識のなか、抵抗した。

「ごめんなさい。驚かせてしまいましたね。上手く飲ませられなくて」

スミスの声がする。

次に、胸元のボウタイがするりと解かれ、ボタンが外される感覚がある。

「い、いやっ」

手足が上手く動かせず、ただ体を揺らす。

「あまりに苦しそうだから」

「やめて」

――誰かに好きにされるのは、やっぱりいや……。

慣れたはずなのに。

なぜかそのときは、涙が流れた。

スミスがそれをひとさし指でぬぐった。

「かわいそうに。本当にこれだけです。何もしません」

スミスはことばどおり、手を出さなかった。

優しく背中をさすられて、少女は眠りに落ちた。


目をさますと、部屋が暗かった。

どれくらい眠っていたのだろう。

ひどく喉が渇いていた。

枕元に置かれた水を飲む。

ふいに、スミスに口移しで水を飲ませられたことを思い出し、赤面した。

スカートの下をたしかめる。

――本当に、何もされなかったんだ。

いい人なのかもしれない。

少女はそう思いながら、ブラウスのボタンをとめ、ボウタイを結び直した。

「目が覚めましたか。ご気分は?」

スミスがランプをもって、部屋に入ってきた。

「ありがとうございます。だいぶよくなりました」

口移しされたことや、ブラウスのボタンを外されたことを思い出し、スミスと対面するのが少し恥ずかしかった。

「よかった」

寝台の上に、スミスがやってきて座る。

迷いを感じさせる様子で、少女の肩を抱き寄せた。

「あの……」

戸惑う少女の頰を、優しくなでる。

「ひと晩、僕のものになっていただけませんか」

少女の返事を待たず、スミスは口づけをした。

「あなたの心にはアレクさんがいる。わかっているけれど、あまりにあなたがいじらしくて」

首筋へと唇をはわせる。

「さっき、熱に浮かされたあなたを見ていたら、我慢できなくなった」

結んだばかりのボウタイがするりとほどかれる。

「やっ」

少女の抵抗は、するりとかわされた。

「乱暴にはしません」

その言葉通り、スミスは優しく少女を組み敷いた。

その流れるような巧みさに、かすかな違和感を覚える。

でも、考えがまとまらない。

まだ頭がぼんやりとする。

少女はあきらめて目を閉じ、身を任せた。


事後も、スミスは優しかった。

自らあたたかい飲み物を運んでくれた。

少女の髪をなでながら、スミスはうっとりと言った。

「ありがとう」

「お礼を言われたの、はじめてです」

少女はカップに視線を落とす。

「アレクさんからお借りしたとはいえ、無理やりするつもりはありませんでしたから」

スミスは頰に口づけながら言う。

「一夜限りではなく、わたしのものに、なってはいただけませんか?」

「それは……」

「わたしなら、ほかの人に抱かせません。あなたを大切にします」

夢のような話なのに、少女は心を動かされなかった。

なぜか庭師の少年の顔が浮かんだ。

あの人も、きっとわたしをほかの人に差し出したりしない。

――庭師さんに、会いたいな。

会って、他愛ない話をしたい。

少女が無意識のうちに胸の前で握った手を、スミスがほどく。

「つらいときのあなたの癖ですね。こんなことも、させません」

そのまま押し倒され、口づけをされる。

「でも、わたし」

やっぱり変だ、と少女は思う。何か変。

「やはりアレクさんのことが……」

スミスは悲しげに言った。

「では、せめてこうしませんか。

アレクさんは、新しい事業を始めたがっているとか。

わたしのところにも、出資の話が来ていたんです」

少女は、アレクの仕事の話をまったく知らなかった。

「わたしをかわいそうだと思って、少しだけ趣味に付き合ってください。

そうしたら、アレクさんに依頼の倍額を出してもいい。

あなたの献身で事業がうまくいったとなれば、アレクさんも振り向いてくれるかもしれませんよ」

何しろ、あなたはこんなにけなげでいじらしいのですから。

スミスはそう言った。

「もちろん、ぜんぶ首尾よく終わるまでは、アレクさんには秘密です。

最後にわたしから、耳打ちしましょう」

あなたのその想いを応援させてください。スミスは真剣な目をして言った。

――アレク様が、振り向いてくれる……。

何度も何度も、あきらめようとして捨てられなかった望み。

違和感も怖い気持ちも吹き飛んだ。

「それで、何にお付き合いすればいいのでしょう?」

スミスがうれしそうに礼を言った。

「簡単なことです。地下に趣味の部屋がありますので、お見せしましょう」


地下への階段は、ずいぶん急だった。

ランプを片手に、スミスが少女の手を引いていく。

「お足元に、気をつけて」

階段の途中に、鉄の扉が設けられている。

スミスはその扉の鍵を開け、さらにくだる。

――どうしてこんなに分厚い扉が?

その扉が背後で閉まった瞬間、少女はいやな予感がして、立ち止まる。

「ご婦人には不気味に感じられるかもしれませんね」

スミスにうながされるまま、階段を降りきる。

ランプのぼんやりとした灯りに照らされた、石造りの冷たい空間。

少女は絶句した。

手錠がぶら下がった拘束台、鞭、さまざまな張型。何かわからない道具。

「……!」

拘束台の血の痕を見て、少女は悲鳴をあげて、逃げ出した。

階段をかけのぼり、鉄の扉までたどりつく。

押しても引いても開かない。スミスは鍵をかけていないはずなのに。

「開かないよ」

スミスがゆっくりと階段をのぼってくる。

口調が変わっていた。

「いや、いや、誰か!」

鉄の扉を叩く音も、少女の声も、階段にこだまし、吸い込まれていく。

「助けて!」

「その扉、閉まると自動的に鍵がかかるんだ。そして、鍵は僕だけが持っている」

声が近づいてくる。

「ここには誰も来ないよ。君の声は誰にも届かない」

「……来ないで」

スミスが笑った。喉を鳴らすような嫌な笑い方だった。

「しかし、あんなお芝居にほだされて簡単に体を許すなんてね。

君はとんだあばずれだよ。意外と誰でもよかったりして」

「だましたの……」

「君みたいな子、あんなふうにほしがる男なんていないよ」

ナイフで刺されたように胸が痛む。

スミスはおかしそうに笑う。

「薬を盛ってちょっと優しくしたら、簡単にだまされて。

かわいかったね。すごく興奮したよ」

スミスは少女を追い詰めると、顎に指をかけ、顔を上げさせる。

「いいね、その顔。君にはそういう顔が似合っている。

アレクも君をいじめたくて、人に抱かせているんじゃないかな?」

「ひどい」

「ひどいのはアレクさ。僕のこの趣味を知って、君を貸し出してるんだから」

体がふるえて、言うことをきかない。

「多少壊しちゃっていいって言われてるよ」

スミスが舌舐めずりをする。

少女は扉を背に、ずるずるとへたりこむ。

「おっと、さっき言ったことのなかで、資金提供のことだけは本当だよ。

君なんかでも、アレクの役に立てるってことさ」

少女がおびえきった目で、スミスを見上げる。

「本当……?」

「本当だよ。でも、どれだけ楽しませてくれるかによるかな」

スミスは少女の髪をつかみあげ、立ち上がらせた。

「さあ、楽しもう」

少女の地獄が始まった。

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