黒い気持ち

「いまは咲いていなくて残念ですけれど……。

このアーチを覆っているのはダマスクローズです」

「まあ。6月には、さぞかしよい香りがするのでしょうね」

女性がレースのグローブをつけた手を合わせ、「来年が楽しみです」と笑う。

「うちの庭師は優秀ですから、期待できますよ」

アレクもにこやかに言った。

少年は「ありがとうございます」と感謝を口にしながら、

右のポケットにしまったナイフのことを考えている。

そんなことはおくびにも出さず、

「こちらは新種の薔薇で、とても育てやすいんです」と、

少年はつづけた。

女性がすかさず答えた。

「ラ・フランスですね」

「さすがお詳しい」

女性が身を包んでいるのは、モスリンの深紅のドレス。

スカートは後ろだけがふくらんだデザインで、

胸元が詰まった、品がよい長そでのデイ・ドレス。

「冷えますから、そろそろ応接室へ戻りましょう」

アレクが女性を気づかった。

――あの人のことは、傷やあざだらけにして、ほったらかしにしているくせに――。

少年は、ズボンの上から、ナイフのありかをたしかめる。

あの夜、いつもの収納場所、寝台の下に戻した鎌のことも考える。

めちゃくちゃにしてやりたい、と思いながら、愛想笑いをして挨拶をする。

「では、よい午後を」

「ご説明、どうもありがとう」

明るい庭を、アレクにエスコートされ、女性が去っていく。

帽子を取り、お辞儀をして見送りながら、少年の心に黒いものが広がっていく。


――あの人に対するのと、態度がぜんぜん違う。


少女に拒絶された夜からしばらくして、「アレク様の嫁取り」が話題になった。

先代が亡くなってから、ひとりで家を治めてきたアレクだが、身を固めるため、結婚相手を探している、と。

彼女の異変と、「アレク様の嫁取り」。

少年のいやな予感がふくらんだ。

彼女に対しては横暴なアレクだが、外での評判がよいことを、少年は知った。

豪農や地方貴族の娘との縁談が次々と舞い込んでいると、メイドやエリスがうわさをしていた。

たいていはアレクが相手の家へ出向いているようだが、時には見合い相手がこのロマノフスカヤの屋敷へやってきて、談笑することもあった。

今日の女性も、そのひとりなのだろう。

執事のスタンレイからは、「薔薇好きのお客様がいらっしゃるから、お茶の時間前後に説明を」とだけ聞いていたけれど。


光が降り注ぐ庭を歩く、美しく装った娘とアレク。

あれこそが、彼女が夢見た光景ではないのか。

その彼女は、いまも日陰の部屋で泣いているというのに。

そう思うと、胸が苦しくてたまらなくなる。


そして、心配と不安も大きくなっていく。

あのひとは“嫁取り”のことを知っているのか?

アレクが結婚したら、彼女は?

妾としてこの屋敷に残る?

どこかへやられる?

「どこか」って、どこへ?

彼女の傷やあざとそれらは、関係があるのか?


――あの人の居場所が、どこにもなくなってしまう。


何度も何度も考えた。


――彼女を無理やり連れ出せば。


そのたび、あの夜の彼女の迷いない様子が、甘い考えを容赦なく打ち消していく。

あの日以来、少女は呼んでも出てきてはくれなかったけれど、少年はときおり、その窓の下まで足を運んだ。

あれから、彼女はどこにも行っていないようだった。

夜になるときちんと灯りがともる。

そのことに、少年は少しだけ安堵する。

彼女が何かをされているのは、おそらく屋敷の外だからだ。


睡眠不足と、堂々巡りにくらくらする頭を抱えながらも、少年は仕事だけは手を抜かなかった。

仕事をきちんとやって自立をすることは、この先の人生で必要なことだ。

確信めいたものがあった。

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