破局

薔薇のとげが、指を刺した。

少年は、指先で、血がぷっくりと球形になるのをぼんやりと見つめる。


――こんな失敗、いつもだったらしないのに。


睡眠不足がたたっているのだろう。

少年は頭をふった。

ふだんならツバでもつけてすませるところだが、昼が近い。

昼食をとって、仕切り直そう。

そう思い、道具を置きに庭師小屋へ向かったとき、異変に気が付いた。


――開いている……。


仕事に出るとき、いつもきっちり閉めているはずの扉が、わずかに開いている。

扉の前に、あるものが落ちているのを見て、少年は駆け出した。

バックルがついた、茶色の古ぼけた革靴。

それはいつも、彼女が履いているものだった。


心臓が強く打つ。

部屋から誰かの気配がする。

扉を一気に開け、小屋に踏み入る。

部屋の奥で、男が何かを吊り下げていた。


「あ……」


「何か」が、かすれた声をあげる。

それは、彼女だった。


品のよいブラウンのジャケットにベスト、ズボン。

髪もひげもよく整えられた、身なりのよい男。

たしか、名前はスミスとか言ったか。

いつぞや、応接室で彼女と談笑していたあの男が、彼女の首を絞めていた。

中空で、吊り下げるようにして。


彼女の唇が、何か言いたげに動く。

口ひげの男が、いきなり手を離した。

彼女が床にくずおれ、激しく咳き込む。


「君は?」


スミスが少年を見て尋ねる。


「な……おまえ……」


あまりのことに、理解が追いつかない。


「庭師だよ、この小屋を使っている」


後ろから声がした。

いつの間にか、背後にアレクとエリスが立っている。


――今のを黙って見ていたのか?


おやおや、とスミスは首をすくめた。


「庭師君、少しお邪魔するよ」


そう言いながら、木桶を引き寄せる。

朝の支度のために、いつも水を汲み置いているものだ。


「この子が逃げたのでね。ちょっとお仕置き中でね」


にこやかに言いながら、スミスは彼女の髪をつかみ、頭を木桶に沈めた。

ゴボゴボと、激しい水音。


「まあ、ほどほどにしてやれよ」


アレクはあきれた声で言うが、止めようとしない。

スミスが笑ってうなずき、少年に語りかけた。


「すぐ終わるから、ちょっと待っていてくれるかな」


少年は理解した。

彼女のあざ、傷、生気のない表情。


――こいつが。


「やめろ!」


やっと体が動いた。

ポケットからナイフを取り出し、躍りかかる。


――殺してやる、こいつも、アレクも。


もう少しでスミスに届くというところで、少年の体は床に叩きつけられた。

誰かが背中にのしかかり、後ろ手にひねりあげられる。


「悪く思うなよ」


エリスの声だった。


「おやおや。とんだ騎士ナイトだね」


スミスが少女の頭を水から引っ張り上げた。

咳き込む彼女の頰をつかみ、子細にその顔を観察する。


「水、飲んじゃったんだねえ。苦しかった?  苦しかったよねえ」


喜色満面だ。


「そうそう。君が溺れかけている間に、騎士ナイトが助けに来てくれたんだよ」


「ち、ちがう」


彼女が荒い息の合間に、なんとか発音した。

髭の男は満足そうに笑う。

彼女の肩を抱き、引きずるようにして、少年の前までやってきた。


「ご主人様の玩具に庭師が横恋慕。ロマンチックだね。

それとも何かな、君はアレク様、アレク様っていいながら、庭師と浮気していたのかな?」

「ちがいます。その人は、わたしとは関係ない」


彼女が必死に訴えている。


「お願い、放してあげて」

「放すわけにはいかないなあ。ナイフ持って、すごい剣幕だったからね」


にらみつける少年を見て、スミスは鼻で笑った。


「この子が好きかい?」


少年はただ男をにらみつけ、答えない。


「君がこの小屋でひとりさみしく寝ている間に、僕はこの子を何度も……」

「やめて」

「教えてあげればいいじゃないか。君がどんなふうにかわいい声で鳴くか、感じるか」


ここで見せてやってもいい、と男が続けると、少女が顔をゆがめ、身をよじって逃れようとする。


「おっと」


男は片手で器用に彼女の両手を束ね、後ろ手に拘束する。

そして、再び少年に向き合った。


「で、君は彼女のどこが好きなのかな? かわいい顔しているよね。

からだもなかなか……」


男がブラウスの上から少女の胸をつかむ。


「この洋服、似合うよね。僕がアレクに頼んで仕立ててもらったんだよ。この子のために」


少女が唇を噛んだ。


「おまえ……」


「ドレスを仕立ててもらったの」。

あの日、薄紅の花を持って、幸せそうに笑っていた彼女。

あの日以来、笑わなくなった彼女。


「おまえらが……」


アレクとこの男が、寄ってたかって彼女を踏みにじった。

頭に血が昇って、そして、降りていく。

怒りが、少年の体も心も冷たくしていく。


「いじめると、本当にいい顔をする」


ブラウスのボタンをはずしながら、男が舌舐めずりをする。


やめろやめろやめろ! 少年は声の限り叫んだ。


「汚い手でその人に触れるな! お前なんかが触っていい人じゃない!」


男の表情がふっと変わり、次の瞬間、顔に足が飛んできた。

頬に衝撃が走る。次は、こめかみ。


「汚い?」


男が髪をつかんで少年の体を起こす。


「君のほうがよほど汚いだろう」


今度は腹に一発、二発、三発とつま先をけり込まれた。

せり上がるものに耐えられず、少年は吐いた。


「下男風情が」


もう一発を覚悟する。


「スミス様、やめて」


男の身体を白い腕が抱いている。


「その人、このお屋敷の、大事な庭師さんなの。

優しいだけで、わたしのことは何も……」


アレク様、と彼女が呼びかけた。


「アレク様も止めて。

庭師さんのおかげで、お庭すごくきれいだって喜んでたじゃない」


――この人は、人のことばっかりだ……。


「わたし、もう逃げません。だから、他の人にひどいことしないで」


少年はスミスの瞳に、ぞっとするような嗜虐の光が宿るのを見た。


「だめだ、逃げて」


少女にその声は届かない。


「いいねえ」


男が少女の顎を上げた。


「あんなに僕にかわいがられても、そんなことが言えるなんて。

その気持ちに免じて、彼は許してあげようかな」


見えなくてもわかる。きっと彼女はホッとした表情をしている。


「ただし。ひとつ条件があるよ」


スミスがにっこりと笑った。


「今から、ちょっと痛いことをする。

なに、地下室でしてたことに比べればたいしたことじゃない。

声を出さず我慢できたら、彼には何もしない。できるかな?」


彼女がうなずく。


「そんなやつの口車に乗っちゃだめだ」


鉄の味と胃液の味がまじりあう口のなかで、舌がもつれる。

口髭の男は、そんな少年をちらりと見ると、優越感たっぷりに笑った。


「いい子だね。じゃあ、手を出して」


「やめろ、汚い手で……」


頭を踏みつけられる。


「そんな挑発には乗らないよ。

彼女の献身をそこで見ているんだね」


男が少女の指をなで回す。


「この指に決めた」


男は、少女の左手の薬指を、思い切り関節と逆方向に曲げた。

何かが折れる音と、少女の悲鳴が響く。

男がニタニタ笑う。


「これぐらいで、こらえ性がないなあ」


少年は腹に衝撃を感じた。意識が薄らぎそうになる。

そのとき、手を押さえ、うめく彼女と目があった。


「ごめんなさい……」


――あやまることなんて、何もないのに。


もう一発、頭に蹴りが飛んでくる。

少年は、必死で持ちこたえようとする。

今、自分がたおれたら、彼女を守ろうとする者は誰もいない。


「もう一回、チャンスをあげよう」


彼女が手をあずける。


「やめろ……」


ほどなくして、骨が折れる乾いた音。

声を出すまいと必死でこらえる彼女の息遣い。

それと、もうひとつ、野獣のような……。

男が鼻息荒く、苦悶の表情を浮かべる彼女の顔を撫でまわしている。


「いいねえ。君は本当にいい顔をする」

「や……」


か細く、おびえた声。

ついでに教えてあげようね、と男が言った。


「君ががんばって僕の期待に応えれば、僕はアレクの仕事にお金を出す」


男が彼女の頬をなでる。


「アレクはそんな君の献身に感動して、振り返ってくれる」


男がくっくっ、と笑った。


「そう言ったら、君、たいてい言うこときいたよね。

地下室で、痛いことも、苦しいことも、一生懸命耐えて。

かわいかったなあ」


「……うそなの……?」


彼女が消え入りそうな声で尋ねた。


「うそも何も」と、スミスは続ける。


「最初から、君を売ってもらう話はしていたんだよ。

アレクはもうすぐ結婚するんだよ。

だから、君をどうするか困ってた。

君みたいなのがいちゃ、人聞きが悪いってね」


「おっ、おまえ……」


少年は絶句した。彼女の表情は見えない。

男の興奮しきった声が響く。


「ああ、君のその絶望する表情を見たかったよ! ゾクゾクする」


男が縄を取り出し、手際よく少女を後ろ手に縛り上げた。

彼女はされるがままになっている。


「アレク、この子はいい。とってもいいね。倍額払ってもいい」


彼女の耳をふさぎたかった。

何も聞かせたくない。


「遠慮なく楽しんだ後は、ちゃんと処分しておくから、心配はいらないよ」


――処分……。


男が彼女を連れて、小屋を出ていく。


「アレク!」


何もかもかなぐり捨てて、少年は叫んだ。


「お前、変態野郎にあの人を売ったのかよ!」

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