薔薇の屋敷のロマノフスカヤ編

行き倒れの少年、"女神"と出会う

蠅が、頬をくすぐる。

――うるさい、うっとうしい。

そう思うものの、それを払うだけの力は、もう少年にはなかった。

繁華街の片隅に、少年は横たわっていた。

食べるものを探さなければと、寝ぐらにしていた路地裏から出てきて、

つまずいたら立ち上がれなくなった。

たしか最初は、酒場の前に倒れたはずだ。

店から出てきた男に足蹴にされ、店の前から追い払われたのはどれぐらい前だろうか。

店主とおぼしきその男の手にバケツがあるのを見て、はいずって逃げた。

気温が低いこの季節、水をかけられて体が冷えるのは怖かった。

そしてまた、動けなくなった。

何も入っていない胃がキリキリと痛む。

――そうだ、パン。

少年は思い出す。

数時間前なのか、数日前なのか、とにかく今より前。

少年は空腹に耐えかねて、じっとパン屋の軒先を見つめていた。

――パンのひとつぐらい……。残飯あさって腹を壊すのは、もう嫌だ。

店の前の路地に隠れ、痩せてぎょろぎょろとした目を光らせて、少年は思う。

――盗まなきゃ、死ぬだけだぞ。

自分を鼓舞してみたものの、どうしても体が動かない。

――お前さ、バッカじゃねえの。

孤児院でほかの子どもに言われたことがよみがえる。

――バカ正直に順番守ってさ。だからいつも肉食えねえんだろ。

あれは夕食の配膳に並んでいたとき。

順番を抜かしたほかの子どもを注意したら、鼻で笑われた。

――いい子ちゃんにしてたって無駄だろ? お前、そのナリじゃどこも雇ってくれないんだから。チビで、こーんな顔でさ。

悪ガキに便乗して、ほかの子どもたちも、目を吊り上げる仕草をする。

――東へ帰れよ。

あの日は結局、はやしたてた子どもたちに殴りかかって、肉にありつくどころか夕飯を抜かれた。

――あいつに言われたとおりだ。真面目にしていて、今まで何かいいことあったか?

盗め、盗め、盗め、盗め。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。

少年は、葛藤の末にパン屋の軒下まで走り出し、いちばん端に陳列されていた、小さなパンを引ったくる。

そのまま逃げようとしたけれど、思うように足が動かない。

店先の看板にぶつかり、地面に倒れた少年の手からパンが離れ、転がり、それを野良犬がくわえて走り去っていく。

「ごらぁっ、このガキ!」

店員の怒鳴り声を聞いて、反射的に立ち上がって走り出す。

――嫌だ、嫌だ、もう嫌だ。俺は盗みなんてしたくない。

逃げながら、少年は思った。

――俺はただ真面目に生きたいだけなのに。

職人らしき男、小間使いの少年、かごに盛った果物を売る女。

すれ違う人たちは、みんな働いているのに。

俺もみんなと同じように、肌が白くて鼻が高くて、目が緑や青や茶色だったら。

こんな黄ばんだ肌じゃなかったら、黒髪じゃなかったら。

せめて、親がいたら。

あんなふうに真面目に、普通に生きられたのだろうか。


――あのときは、まだ走れたんだな。

少年の意識は、今へ戻ってくる。

空腹も喉の渇きも、いまや区別はつかなかった。

ただ、苦痛と不安だけがそこにある。

ときどき薄目を開けると、道行く人が顔をしかめ、避けていくのが見えた。

――俺はここで死ぬのか。

その実感が体じゅうに広がっていく。

悔しいような気もする。

――でも、もうここで終わりにしていいんじゃないか。

奉公する先さえ見つからないままに孤児院を追い出されて、自分にはもう行くあても戻る場所もないのだから。

少年に意識を取り戻させたのは、頬をなでる温かいものだった。

「ねえ」

――蠅じゃない。

目を開ける。少年の視界に、頬に触れる白い手が見えた。

「だいじょうぶ?」

少女がのぞき込んでいた。

自分より少し、年上だろうか。

白い頬、やや灰色がかった青い瞳、銀灰色の髪。

「よかった。気がついた」

少女がうれしそうに言う。

「ひどい顔色」

少女が肩にかけた布――それをショールと呼ぶと知ったのは、だいぶ後だった―で、少年の頬や口元をぬぐう。

ふっといい香りがした。

――俺は死ぬ前に、女神の幻を見ているのか。

「そうだ、これ……」

少女が小さなバッグから、何かを取り出したとき。

「おいっ」

男の声がした。少女がびくっと体を震わせ、後ろをうかがった。

「すぐ行きます」

返事をしながら、少年の手に何かを握らせて、彼女が立ち上がる。

ほどなくして、

「この子、ひどい顔色で……助けてあげて……」

声が聞こえてきた。

「ゴミみたいなガキに色目か?」

「ちがっ……」

少女が何か言う前に、バシッと音が響く。

少年はその音をよく知っている。

孤児院でしょっちゅう聞いた。

人が殴られるときの音。

少女が悲鳴にもならない声をあげる。

「たまに食事に連れてきてやればお前は……」

「ごめんなさい」

気力をふりしぼり、少年は半身を起こす。

少女が男に手を引っぱられながら遠ざかっていく。

その途中、少女はふたたび少年のほうを振り返り、何かを男に訴えた。

少女はもう一度頬を張られ、そのまま馬車に押し込まれた。

土煙の向こうに去っていく馬車を茫然と見送ってから、少年は手にあるものを見た。

それは赤いりんごだった。

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